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無盃の将  作者: G
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遺された言葉

 第六十五話


 千堂祀の死から、一夜が明けた。


 玄武組の事務所には、いつもとは違う静けさが漂っていた。


 普段なら、朝から誰かの話し声が聞こえ、奥の部屋では祀が酒を飲みながらくだらないことを言っている。


 だが、今日は誰も笑っていなかった。


 孝太郎は玄関の前で立ち止まった。


 昨日、病院で見た祀の顔が、頭から離れない。


「……帰ったぞ」


 返事はなかった。


 靴を脱ぎ、廊下を進む。


 居間では、澪が段ボール箱を前に座っていた。


 その周りには、祀が使っていた湯呑みや衣服、古い書類などが並べられている。


「……兄さん」


 澪が顔を上げた。


「おかえり」


「ああ」


 孝太郎は部屋を見渡した。


「何してんだ?」


「祀さんの荷物……少し整理してたの」


「もうかよ」


「うん。ずっとそのままにしておくのも、よくないと思って」


 澪は無理に笑おうとした。


 だが、その目は赤く腫れていた。


 孝太郎は何も言わず、隣に腰を下ろした。


「俺もやる」


「……ありがとう」


 二人は黙って遺品を整理し始めた。


 古い財布。


 使い込まれた煙草入れ。


 何年前のものかも分からない写真。


 祀の持ち物は、どれも雑に扱われていた。


「相変わらず汚ねえな、親父の奴」


 孝太郎が呟く。


 澪が小さく笑った。


「祀さん、片づけ苦手だったもんね」


「苦手ってレベルじゃねえだろ」


 孝太郎は古い上着を畳んだ。


 そのとき、澪が一通の封筒を手に取った。


「……あれ?」


「どうした?」


「これ……」


 封筒には、見慣れた字で名前が書かれていた。


『孝太郎へ』


 澪は封筒を見つめた。


「兄さん宛てだ」


「俺に?」


「うん。祀さんの机の引き出しに入ってた」


 澪は封筒を差し出した。


 孝太郎は受け取り、表面を確かめる。


 間違いなく、祀の字だった。


「……何だよ、これ」


「分かんない。でも、読んでみたら?」


 孝太郎は封筒を開いた。


 中には、何枚かの便箋が入っていた。


 最初の一行を見て、孝太郎の手が止まった。


『孝太郎へ』


『お前がこの手紙を読んでいる頃には、俺はもういないんだろうな。』


「……遺書?」


 孝太郎は小さく呟いた。


 澪が顔を上げる。


「え……?」


「……親父の遺書だ」


 澪は何も言わなかった。


 孝太郎は視線を落とし、続きを読み始めた。


 *


『お前に、ずっと隠していたことがある。』


『お前が龍術師になりたいと言って、俺と盃を交わした日のことだ。』


『あのとき、俺はお前の盃に龍魄を入れなかった。』


『入っていたのは、ただの水だ。』


 孝太郎の目が止まった。


「…………は?」


 もう一度、同じ行を読む。


 龍魄を入れなかった。


 ただの水。


「……何だよ、それ」


「兄さん?」


 澪が不安そうに尋ねる。


 孝太郎は答えず、手紙を読み進めた。


『龍魄を飲めば龍術師になれるかもしれない。だが、適応できなければ龍化してしまう。』


『俺はその危険を誰よりも知っていた。』


『お前が龍術師になりたいと願っていたことも、どれだけ努力してきたかも知っている。』


『それでも、俺には飲ませられなかった。』


『親として、お前を失うのが怖かったんだ。』


 孝太郎は便箋を握り締めた。


 思い出すのは、あの日の盃だった。


 龍術師になると決めた自分。


 その決意を聞いた祀。


 そして、盃を交わした後も、いつまで経っても使えるようにならなかった龍術。


 周囲の若衆が次々と龍包囲を身につけていく中、自分だけが何もできなかった。


 何度も訓練した。


 何度も試した。


 それでも、何一つ変わらなかった。


「……そりゃ」


 孝太郎の口から、乾いた笑いが漏れた。


「そりゃ、いつまで経っても龍術が使えるわけねえよな……」


 澪が顔を曇らせる。


「兄さん……何が書いてあるの?」


「……俺、龍魄飲んでなかったんだとよ」


「え?」


「あの日、親父が俺に飲ませたの……ただの水だったんだってさ」


 澪は言葉を失った。


 孝太郎は笑おうとした。


 だが、うまく笑えなかった。


「……何だよ、それ」


 長い間、自分には才能がないのだと思っていた。


 どれだけ努力しても、龍術師にはなれないのだと。


 それが、最初から何も始まっていなかったという。


「……ふざけんなよ、親父」


 孝太郎は便箋に目を戻した。


 その先には、さらに信じがたい言葉が続いていた。


 *


『そして、もう一つ。』


『お前と澪の両親を殺したのは、俺だ。』


 孝太郎の呼吸が止まった。


「…………」


 文字を見つめる。


 何度読んでも、そこに書かれていることは変わらなかった。


『俺は昔、自分の利益と組織を大きくすることばかり考えていた。』


『そのために、多くの人間を犠牲にした。』


『お前たちの両親も、その中にいた。』


 孝太郎の頭に、あの男の言葉が蘇った。


 薄暗い部屋。


 椅子に拘束された自分。


 電話越しに聞こえてきた、Sと名乗る男の声。


 千堂祀は、過去に人為的な龍災害に関わっていた。


 多くの人間を犠牲にしてきた。


 あのときは信じなかった。


 いや、信じたくなかった。


 だが。


「……マジかよ」


 孝太郎の手が震えた。


「兄さん?」


 澪が身を乗り出す。


「どうしたの?」


 孝太郎は答えられなかった。


 さらに続きを読む。


『俺がお前たちを引き取ったのは、善意なんかじゃない。』


『いつか自分のしたことがバレるのが怖かったからだ。』


『だが、一緒に暮らしているうちに、お前たちが本当の家族のように思えてきた。』


『それでも、俺がしたことは変わらない。』


『お前たちから本当の親を奪ったのは俺だ。』


『何度も話そうと思った。』


『だが、結局最後まで言えなかった。』


『すまなかった。』


『孝太郎、澪。』


『お前たちの親を名乗る資格なんて、俺にはなかった。』


 そこで手紙は終わっていた。


 孝太郎は、しばらく動かなかった。


 時計の針が進む音だけが、部屋に響いている。


「……兄さん」


 澪が小さく呼びかけた。


「何が書いてあったの?」


 孝太郎は手紙を見つめたまま、口を開いた。


「……親父が」


 声がかすれた。


「俺たちの本当の親を……殺したんだってよ」


 澪の表情が固まった。


「……え?」


「ここに、そう書いてある」


 孝太郎は便箋を差し出した。


 澪は震える手で受け取り、読み始めた。


 最初はゆっくりと。


 だが、途中から何度も同じ行を読み返していた。


「……嘘」


 澪が呟いた。


「そんな……祀さんが……?」


 孝太郎は何も答えなかった。


「だって……祀さん、ずっと私たちのこと……」


 澪の声が途切れた。


 便箋の上に涙が落ちる。


「……何で」


 澪は手紙を胸に抱いた。


「何で、こんなこと……」


 孝太郎は俯いた。


 祀が死んだと聞いたとき、胸が張り裂けそうだった。


 あの男が自分たちを育ててくれたことは事実だ。


 食わせてくれた。


 住む場所を与えてくれた。


 病気になってからも、孝太郎は何とか助けたいと思っていた。


 だが、その男が実の両親を殺していた。


 何を信じればいいのか分からなかった。


「……何なんだよ」


 孝太郎は拳を握った。


「俺たちに、どうしろってんだよ……」


 怒りが込み上げる。


 祀に対してなのか。


 あの男たちに対してなのか。


 それとも、何も知らずに生きてきた自分自身に対してなのか。


 分からなかった。


 澪は涙を拭いながら、孝太郎を見た。


「兄さん……」


「……ああ」


 孝太郎は澪の肩に手を置いた。


「今は、何も考えなくていい」


「でも……」


「いいから」


 澪は俯いたまま、小さく頷いた。


 孝太郎は机の上に置かれた手紙を見つめた。


 祀は、すべてを知っていた。


 自分が龍術を使えない理由も。


 両親が死んだ本当の理由も。


 それなのに、最後まで何も言わなかった。


 いや、言えなかったのかもしれない。


 孝太郎は手紙を取り上げ、もう一度最後の一文を読んだ。


『お前たちの親を名乗る資格なんて、俺にはなかった。』


「……だったら」


 孝太郎は呟いた。


「生きてるうちに言えよ……」


 返事はない。


 いつもなら、奥の部屋から祀のだらしない声が聞こえてきたはずだった。


 だが、もう二度と聞こえることはなかった。


 孝太郎は手紙を折り畳み、封筒へ戻した。


 そして、静かに立ち上がった。


「……兄さん?」


「ちょっと外の空気吸ってくる」


「うん……」


 孝太郎は居間を出た。


 廊下を歩き、玄関で靴を履く。


 外へ出ると、冷たい風が吹いていた。


 孝太郎は空を見上げた。


 あの男が言っていたことは、本当だった。


 少なくとも、祀が過去に罪を犯したことは間違いない。


 「くそ、俺はどうしたらいいんだ……」

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