決勝戦 神崎玲司対荒木孝太郎
第五十九話
積田の声が響いた。
「始め!」
先に動いたのは神崎だった。
地面を蹴った瞬間、その姿が一気に孝太郎へ迫る。
だが、孝太郎は慌てなかった。
神崎の拳が届く寸前、身体をわずかに傾けてかわす。そのまま懐へ踏み込み、拳を叩き込んだ。
「ぐっ……!」
神崎の身体が後退する。
孝太郎は追撃の手を緩めなかった。
神崎が距離を取ろうとすれば、孝太郎も前へ出る。再び拳を放とうとした神崎の動きを見切り、先に攻撃を差し込んだ。
神崎の頬を拳がかすめる。
「お前、龍包囲を使わずにそんだけ動けんのかよ……」
「俺は今までたくさんの修羅場を乗り切ってきたからな。身体能力が他の人より高いんだよ」
孝太郎が笑う。
神崎は舌打ちし、再び地面を蹴った。
迅の龍印。
神崎の持ち味は、その圧倒的な速度だった。
正面から打ち合えば不利だと判断したのか、神崎は攻撃を繰り出すとすぐに距離を取り、別の角度から仕掛ける戦法に切り替えた。
右から迫り、すぐさま左へ。
孝太郎の拳が空を切る。
神崎はその隙を突いて一撃を放つと、再び後方へ飛び退いた。
だが、孝太郎は追わなかった。
腰に手を伸ばし、拳銃を抜く。
「……!」
神崎の表情が変わった。
銃口が自分を捉える。
神崎は即座に横へ走った。
銃声が響く。
弾丸が試合場の床を削った。
神崎は速度を落とさず、角度を変えて接近を試みる。しかし、そのたびに孝太郎が銃口を向ける。
神崎が右へ動けば、孝太郎も照準をずらす。
左へ切り返せば、先回りするように銃口が追ってくる。
「くそっ……!」
神崎は攻め込めなかった。
速度では勝っている。
それでも、孝太郎は神崎の動きを観察し、逃げ道を塞ぐように撃ってくる。
神崎が踏み込もうとすれば弾丸が迫り、距離を取ろうとすれば次の一発が進路を遮る。
やがて、銃弾の一発が神崎の腕をかすめた。
「っ……!」
神崎の顔が歪む。
会場がざわめいた。
「神崎が押されてるぞ……!」
「このままじゃ、孝太郎が勝つんじゃないか?」
龍牙連合の仲間たちも、試合場を見つめていた。
孝太郎は拳銃を構えたまま、ゆっくりと前へ進む。
「どうした、神崎。逃げてばっかりじゃ勝てねえぞ」
「……まずいな」
神崎は息を整えた。
その足元で、影がわずかに揺れた。
誰も気づかない。
観客も、審判も、試合場の二人さえも。
ただ一人、遠く離れた場所にいる男を除いて。
並木健介は、人目につかない位置から試合場を見つめていた。
その顔には、医療スタッフとしての穏やかな表情が浮かんでいる。
だが、足元に落ちた影は、本人の動きとは異なる形を見せていた。
並木は静かに視線を動かす。
銃を構える孝太郎。
追い詰められた神崎。
そして、孝太郎の背後へ伸びる影。
次の瞬間、孝太郎が引き金を引いた。
銃声が響く。
神崎は回避しようとしたが、弾丸は逃げ道を塞ぐように迫っていた。
その瞬間だった。
孝太郎の背後に伸びていた影が、音もなく形を変えた。
黒い影が弾丸を包み込む。
銃声だけが会場に響き、弾丸は神崎に届くことなく消えた。
「……は?」
孝太郎の目が見開かれる。
弾丸が消えた。
見間違いではない。
確かに撃ったはずの弾丸が、神崎へ届く直前に姿を消したのだ。
孝太郎が異変の正体を確かめようとした、そのとき。
背後の影が再びうごめいた。
影の中から、先ほど消えた弾丸が飛び出す。
「なっ――!」
孝太郎は脇を撃たれる。
鋭い痛みが走り、孝太郎の体勢が崩れた。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
自分が放った弾丸が、背後から戻ってきた。
そんなことがあり得るのか。
考える暇はなかった。
「もらった!」
神崎が地面を蹴る。
迅の龍印が発動し、その身体が一気に加速した。
孝太郎は拳銃を構え直そうとした。
だが、間に合わない。
神崎の拳が孝太郎の懐へ入り、龍包囲で攻撃力を上げた一撃が叩き込まれた。
「がっ……!」
孝太郎の身体が浮き上がる。
拳銃が手から離れ、床を滑っていった。
それでも孝太郎は倒れまいと足を踏ん張った。
「まだ……!」
もう一度、神崎を見据える。
だが、視界が揺れた。
肩の痛みと、先ほどの一撃による衝撃。身体が思うように動かない。
神崎は一瞬だけ孝太郎を見つめた。
「悪いな、孝太郎」
そう告げ、最後の一撃を放つ。
孝太郎の身体が崩れ落ちた。
「そこまで!」
積田が二人の間に割って入る。
孝太郎は起き上がろうとしたが、力が入らなかった。
意識が遠のいていく。
「……くそっ」
悔しそうに呟いた声も、歓声にかき消された。
「勝者――神崎玲司!」
会場が大きく沸いた。
神崎は息を切らしながら、倒れた孝太郎を見下ろした。
勝った。
確かに、自分が勝った。
だが、最後の瞬間に何が起きたのか、神崎にも分からなかった。
孝太郎の銃弾が突然消え、その直後、孝太郎が何かに撃たれたように見えた。
あの一瞬がなければ、勝負は間違いなく負けていただろう。
神崎は眉をひそめたが、すぐに考えを振り払った。
今は、目の前の勝利を受け止めるしかなかった。
一方、孝太郎の意識はすでに途切れかけていた。
脇の傷。
神崎の龍術による衝撃。
そして、何が起きたのか分からないまま敗北した悔しさ。
それらが重なり、孝太郎の意識を深い闇へと沈めていく。
並木は静かに歩き出した。
「負傷者を医務室へ運びます。道を空けてください」
医療スタッフとしての声に、周囲の者たちは素直に従った。
並木は孝太郎のそばへ膝をつき、容態を確かめるふりをする。
「大丈夫ですか。意識はありますか……」
誰も疑わなかった。
激闘の末に倒れた選手を、医療スタッフが運び出す。
それは、どこの大会でも見られる光景だった。
担架に乗せられた孝太郎が、医務室へと運ばれていく。
その後ろ姿を見送りながら、並木はわずかに目を細めニヤリと笑った。
試合は終わった。
あとは、誰にも気づかれずに連れ出すだけだった。




