鳴神所
第四十話
話は少し過去に遡る。
海面を蹴るようにして、増井は泳いでいた。
いつもの増井なら、こんな無茶な泳ぎ方はしない。
「……くそっ」
荒い息を吐きながら、水をかき分ける。
頭の中に浮かぶのは、先ほどの戦いだった。
黒崎。
自分が龍魄を飲ませ、龍化させた。
そして――あいつらが始末した。
それだけでも十分な失態だった。
だが、それだけではない。
今回の件は、龍牙連合に手を出した。
龍魄を奪うためとはいえ、相手はあの龍牙連合。
その結果が、この有様だ。
(所長に……なんて報告する)
増井の表情が険しくなる。
黒崎を失った。
龍魄も奪えなかった。
自分だけが逃げ帰ってきた。
(……失敗しました、で済む話じゃない)
鳴神所の人間としてではなく、若頭として。
今回の作戦を指揮したものとして説明しなければならない。
「……ちっ」
増井はさらに速度を上げた。
腕が重い。
呼吸も苦しい。
それでも止まらなかった。
やがて、遠くに鳴神所の建物が見えてくる。
増井は一度だけ後ろを振り返った。
誰も追ってきていない。
それを確認すると、岸へ向かって泳ぎ続けた。
ようやく岸へ上がる。
濡れた服から水が滴り落ちる。
だが、身体を拭う余裕すらなかった。
そのまま鳴神所へ向かう。
廊下を早足で進み、所長室の前で足を止める。
「……」
増井は一度、深く息を吸った。
そして扉を叩く。
「失礼します」
返事を待たず、扉を開けた。
「今回の件ですが――」
そこまで言った。
「そういえば、増井さん」
聞き慣れた声がした。
増井の足が止まる。
ゆっくりと顔を向ける。
所長の机。
そのすぐ横に――
「……」
黒崎が立っていた。
何事もなかったかのように。
所長と普通に話している。
「お疲れ様です」
黒崎が増井へ笑いかけた。
増井の目が見開かれる。
「……黒崎?」
黒崎は首を傾げた。
「はい」
「……お前」
言葉が続かない。
増井の脳裏に、あの光景が蘇る。
龍魄を飲ませた。
身体が変貌した。
巨大な龍になった。
そして――
龍牙連合の連中が戦っていた。
最後には、確かに倒された。
「……どうして」
増井が呟く。
黒崎は不思議そうに増井を見る。
「どうして、って?」
「お前は……」
増井の拳が僅かに震えた。
「俺が龍化させたはずだ」
室内が静かになる。
黒崎はしばらく増井を見つめていた。
そして、少しだけ笑った。
「そうですね」
「……!」
増井の背筋に冷たいものが走る。
所長は何も言わず、二人を見ていた。
増井は所長へ視線を向ける。
「所長……これは、どういうことですか」
「何がだ?」
「黒崎です」
増井は黒崎を指差した。
「こいつは俺が龍化させました」
「……」
「龍牙連合の連中に襲われて、龍化したこいつをあいつらが始末したはずです」
増井の声が徐々に強くなる。
「なのに、なんでこいつがここにいるんですか」
黒崎は黙っている。
所長も答えない。
その沈黙が、増井には妙に長く感じられた。
「……まさか」
増井が一歩、黒崎へ近づく。
「お前……本当に黒崎か?」
その問いに――
黒崎は笑った。
「もちろんですよ」
あまりにも自然な返事だった。
だからこそ、増井は何も言えなくなった。
そして所長が、静かに口を開く。
「増井」
「……はい」
「まずは今回の件を報告してもらおうか」
その言葉に、増井の表情が強張る。
そうだった。
黒崎のことで頭がいっぱいになっていたが――
自分は今、龍牙連合に手を出して失敗した報告をするために戻ってきた。
増井は黒崎から目を離さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「……はい」
だが、その声には先ほどまでの焦りとは別のものが混じっていた。
目の前にいる黒崎への警戒。
そして――
自分の知らない何かが、鳴神所の中で動いている。
そんな感覚だった。




