様子
第十一話
まだ、この日常がいつまでも続くと信じていた。
けれど――
その日常には、少しずつ小さな変化が混じり始めていた。
「親父、起きろ」
「……あと五分」
「昨日もそれ言ってたぞ」
「昨日の俺と今日の俺は別人だ」
「寝ぼけて何言ってんだよ」
孝太郎が布団を引っ張る。
「寒ぃ……」
「もう昼前だぞ」
「嘘つけ」
「時計見ろ」
祀が渋々顔を上げる。
「……本当だ」
「だろ?」
「腹減った」
「起きて最初にそれかよ」
台所から声が飛んでくる。
「飯ならできてるよ」
「ほら、行けよ」
「孝太郎、お前も食うか?」
「俺はもう食った」
「そうか」
祀は立ち上がる。
そして――
数歩歩いたところで、ぴたりと止まった。
「……俺、何しに来たんだっけ?」
「飯」
「……ああ」
祀は頭を掻く。
「そうだったな」
「親父、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ちょっと寝ぼけてるだけだ」
そう言って、祀は笑った。
孝太郎も笑って返した。
「ならいいけどな」
だが、その笑顔は長く続かなかった。
⸻
その日の昼。
玄武組の事務所には、いつものように六人が集まっていた。
「今日の仕事、誰が行く?」
祀が聞く。
「俺と孝太郎」
「あと俺も行く」
「じゃあ三人で行ってこい」
「親父は?」
「俺は留守番」
「また?」
「組長だからな」
「昨日も留守番だっただろ」
「組長だからな」
「その理屈便利すぎんだろ」
周りから笑い声が上がる。
祀も笑った。
「じゃあ俺も行くか」
「いや、親父は留守番してろ」
「なんでだよ」
「酒飲んでるから」
「関係ねぇだろ」
「大ありだよ」
そんなくだらないやり取り。
いつも通りだった。
――ただ。
孝太郎は気づいていた。
祀がさっきから、同じ話を二度している。
さっき決めた仕事の内容も、数分後にはまた聞いてきた。
「……親父」
「ん?」
「今日の仕事のこと、さっき話しただろ」
「そうだったか?」
「……ああ」
「悪ぃな」
祀は笑う。
「最近、物忘れがひでぇわ」
「酒飲みすぎなんだよ」
「酒は関係ねぇ」
「じゃあ何が原因なんだよ」
「歳だ」
「まだそんな歳じゃねぇだろ」
「うるせぇ」
また笑いが起こる。
孝太郎も笑った。
けれど――
胸の奥に残った違和感は、消えなかった。
⸻
数日後。
今度は、鍵だった。
「誰か、俺の鍵知らねぇか?」
祀が事務所の中を探し回っている。
「机の上じゃない?」
澪が言う。
「ねぇんだよ」
「そこ」
澪が指を差す。
祀は机を見る。
そこには、探していた鍵が置いてあった。
「……あった」
「目の前じゃん」
「見えなかったんだよ」
「それは見えてないんじゃなくて探してないだけだろ」
「うるせぇな」
祀が鍵を拾う。
その時だった。
「……あれ?」
祀が再び止まった。
「どうした?」
孝太郎が見る。
「この鍵……どこのだ?」
孝太郎の表情が変わる。
「親父のだろ」
「俺の?」
「そうだよ」
「……そうか」
祀は鍵を握りしめた。
「そうだったな」
それ以上、何も言わなかった。
孝太郎も何も言わなかった。
ただ、その日の夜。
布団に入っても眠れなかった。
天井を見つめながら、今日までのことを思い返す。
飯を食べたことを忘れる。
仕事の話を忘れる。
鍵の場所を忘れる。
それだけなら、まだいい。
だが――
「……違う」
孝太郎は身体を起こした。
親父は昔から酒を飲む。
物忘れだって、多少はあった。
けれど。
最近のそれは、明らかに増えている。
しかも、少しずつ。
まるで何かが――
親父の中から削れていくように。
「……病院、行くか」
翌朝。
孝太郎は誰にも言わず、玄武組を出た。
「兄ちゃん、どこ行くの?」
澪が聞く。
「ちょっと用事」
「仕事?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……すぐ戻る」
それだけ言って、孝太郎は歩き出した。
向かった先は病院だった。
祀には何も言っていない。
言えるわけがなかった。
本人に聞けば、きっと笑って誤魔化す。
だから――
自分で確かめる。
続く。




