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第一話 婚約破棄令嬢まかり通る

 ラ・ギーズ伯爵家の朝は、静かすぎた。


 静かすぎる朝というものは、たいてい良い朝ではない。

 少なくとも、この屋敷ではそうだった。

 廊下を歩く侍女の足音が妙に控えめで、銀器を磨く音が遠慮がちで、台所から漂う焼き菓子の匂いまで、どこか息を潜めている。


 そういう日には、たいてい誰かが泣く。


 あるいは怒る。


 もっと悪い時には、クラリッサ・ド・ラ・ギーズが何かを思いつく。


 その朝、クラリッサは鏡の前に座っていた。


 薄い薔薇色のドレスは、母オルタンス・ド・ラ・ギーズが選んだものだった。

 胸元には小粒の真珠が縫いとめられ、袖口には白いレースが重なっている。

 布は上等で、色もよく、仕立ても美しい。

 少なくとも、社交界のどこへ出しても恥ずかしくない伯爵令嬢には見える。


 問題は、中身である。


「モルガナ」


 クラリッサは鏡の中の自分を睨みながら言った。


「わたくし、今日はどうしても体調が優れませんわ」


 背後に立っていた老メイドのモルガナは、銀の櫛を持つ手を止めなかった。

 黒い服をきちんと着込み、白髪の混じった髪を固くまとめている。

 年齢は顔に刻まれていたが、背筋は若い侍女よりもまっすぐだった。


「昨日の夜、菓子を三つ余計に召し上がったからでございましょう」


「二つですわ」


「三つでございます。最後の一つは、毒見と称しておられました」


「毒見は貴族の務めです」


「毒見をする貴族は、ふつう自分で皿を抱え込みません」


 クラリッサはむっとした顔をした。

 鏡の中の自分は、むっとしてもそれなりに美しかった。

 そこだけは、いくら本人が騒がしくても、神が手を抜かなかった部分である。


「わたくしは、今日の婚約披露に不吉なものを感じますの」


「お嬢様は、面倒な予定の前には必ず不吉を感じておられます」


「今度は本物ですわ」


「そのお言葉も、毎回本物でございます」


 クラリッサは椅子から立ち上がった。


 立ち上がり方だけは優雅だった。

 怒りと逃げ腰が同居していても、彼女の身のこなしには妙な華がある。

 だから余計に始末が悪い。

 見た目だけなら悲劇の姫君で通る。口を開くと、だいたい別のものになる。


「だいたい、シリル・ド・ヴォルブリュック様は笑顔がいけません」


「笑顔でございますか」


「ええ。磨きすぎた銀食器のようですわ。眩しいだけで、何を載せても冷めて見えます」


 モルガナはそこでようやく櫛を置いた。


「お嬢様。人間を食器にたとえるのは、行儀がよろしくございません」


「では、何にたとえればよろしいの」


「たとえずに黙っておいでください」


「それができたら、わたくしではありませんわ」


「そこは胸を張るところではございません」


 扉の外で、控えめな咳払いがした。


 父のベランジェ・ド・ラ・ギーズだった。

 部屋に入る前から、すでに疲れているように見える男である。

 まだ何も起きていないのに、顔色は一件落着後だった。


「クラリッサ」


「お父様」


「今日は、頼む」


「何をですの?」


「何もしないでくれ」


 あまりにも率直な願いだった。


 クラリッサは心外そうに目を見開いた。


「わたくしを何だと思っていらっしゃるの」


「娘だ」


「それは当然ですわ」


「そして、非常に不安な娘だ」


 モルガナが静かに頷いた。


「旦那様のご認識は、概ね正確でございます」


「モルガナまで」


「事実ですので」


 ベランジェは額に手を当てた。


「ヴォルブリュック侯爵家は、古くから王家に近い家だ。シリル殿も評判がいい。礼儀正しく、見目もよく、家格も申し分ない。こんな縁談は、もう二度と来ないかもしれん」


「二度と来ない方が、むしろ安心ではありませんこと?」


「クラリッサ」


 父の声に、ほんの少しだけ重みが混じった。


 クラリッサは口を閉じた。


 ラ・ギーズ家は古い。

 古い家というものは、たいてい古い誇りと古い借金を持っている。

 屋敷の壁には先祖の肖像画が並び、地下には古いワインが眠っているが、帳簿の上ではそのどちらも食べられない。


 クラリッサも、それを知らないわけではなかった。


 知らないふりが上手いだけである。


「わかっておりますわ」


 彼女は少しだけ顔を背けた。


「わたくしも、ラ・ギーズ家の娘ですもの。今日は、なるべく、できる限り、可能な範囲で、大人しくいたします」


「その言い方がすでに不安だ」


 ベランジェは深く息を吐いた。


「とにかく、婚約披露が終わるまでは何も言わないでくれ」


「何も?」


「何も」


「相手がわたくしを馬鹿にしても?」


「馬鹿にされる予定があるのか」


「あるかもしれませんわ」


「ないことを祈ろう」


 モルガナが後ろから、そっとドレスの裾を整えた。


「祈りだけで済むなら、教会はもっと繁盛しております」


 ベランジェは聞こえなかったふりをした。

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