第三話 (4)
緊張に満ちた晩餐の時間は、穏やかに終焉を迎える。胃を灼く男達の峻烈な牽制劇は嘘のように鳴りを潜めており、ダイニングルームには公爵家が本来纏うべき荘厳な静寂が舞い降りていた。
「……夜も更けた。今日はこの辺りでお開きとしよう」
「はい、お父様。有意義なお時間を頂きまして、ありがとうございました」
熱の引いた紅茶で喉を潤した公爵は、満足気に頷いてからソーサーへ陶器を戻す。重厚な椅子を鳴らす事無く立ち上がり、寸分の乱れも許さない優雅な仕草で襟元を正して見せた。
威厳あるその背中を追うように。私も静かに席を立ち、軽くドレスの皺を伸ばす。背後に控えるジェームズが静かに椅子を引き、完璧なエスコートで退室を促してくれていた。
(部屋に戻ったら、まずはレーニエ様のお屋敷へ行く準備を進めないといけないわよね。お父様の了承も得られた事だし、しっかり対策を練らないと…)
次なる戦場への布石を脳裏で反芻し、仄暗いランプの灯る回廊へ足を踏み出していく。
公爵の執務室と私の自室は、廊下の途中で左右に分かれる構造になっており。その別れ際。不意に歩みを止めた公爵は、緩慢な動作で此方へと向き直る。
「……イザベラ」
その声音には。鉄の規律を纏う宰相としての威厳も。私を対等な同志と認める強者としての自負も、削ぎ落とされているようだった。代わりに存在していたのは。言葉に詰まる躊躇いを帯びた、不器用な親としての慈しみだった。
「?」
訝しげに視線を持ち上げてみれば。公爵は懐から一通の封書を、宝物でも扱うかのような繊細な手付きで静かに取り出してみせる。
上質な純白の羊皮紙。そこにはリリエンタール公爵家の紋章では無い、百合の花を模した優美なシーリングスタンプが、淡い藤色の蝋の上に刻まれていた。
「これは領地で療養している私の妻、アデライドからの手紙だ」
「!?」
公爵の口から告げられたその名前に、心臓が一際大きく跳ね上がる。
アデライド・フォン・リリエンタール。
イザベラの実の母親であり、冷徹な公爵が唯一心を許す。魂の半身とも云える最愛の妻。娘の悪行と失踪に心を痛め、領地のタウンハウスで静養している。この屋敷のもう一人の主。
小説の中の彼女は、元々身体が弱く。社交界にも殆ど顔を出さない謎だらけの人物だった。深窓の佳人として隠遁し、物語の終盤で誰にも看取られる事無く息を引き取る。残酷な運命を約束された、悲劇の犠牲者だったけれど。
(……なるほど。つまり夫人は今、回復に向かっているのね)
拒絶と切望の狭間で揺れる指先が、差し出された純白の封筒を慎重に受け止める。触れた瞬間に鼻腔を擽ったのは、驚く程に澄んだ百合の香りだった。
奈落の底に心を沈めてしまった筈の母親が。娘の為にペンを握り、香りを移すまでの生命力を取り戻している。その重みが封筒越しに、私の魂を揺さぶっていた。
(……でも私は、本物の『娘』なんかじゃない……)
社交界で得られた名声も。手紙に込められているであろう深い愛情も。その宛先は決して『私』などでは無く、本物の『イザベラ』へ向けられたもの。
いくら努力を重ねた所で。この表皮の裏側に息付いているのは、魂の在処を借りただけの簒奪者に過ぎない。純粋な母娘愛を騙し取り。偽りの安堵を与えているという負い目が、私の心身を鉛のように重くする。
埋まる事の無い虚無の断絶と、悍ましい罪悪感が這い上がり。手紙を持つ手が震えるのを隠そうと、必死に奥歯を噛み締める。そんな私の剥き出しの恐怖と葛藤を、公爵は薄いレンズ越しの瞳で静かに俯瞰していた。
「無理に封を開けずとも良い。アデライドは今の『お前』を、心から誇りに思っているようだ。お前がお前なりに重い荷物を背負ってくれている事は、私が誰よりも理解している」
「…………っ」
指先の震えが止まらない。そんな私の姿を。公爵は眉尻を下げ。胸を突かれるような痛ましげな眼差しで、見守ってくれている。翠の双眸に浮かんでいたのは。私の存在そのものを許容する、際限の無い優しさだった。
『偽物』としての負い目も。暴かれる恐怖も。この人は何もかもを飲み込んだ上で、私に『娘』としての権利を与えてくれていた。
「お前は私達の娘だ。お前が公爵家の為に戦ってくれているという事実は、決して色褪せる事はない」
祈りを捧げる厳かな手付きで。公爵は私の頭に、大きな掌を置いてみせる。そして幼子を労るように、ポンポンと二度、軽く叩いてくれた。
それは私の正体を知る共犯者としての明確な配慮でありながらも。同時に『娘』としての重責を少しでも軽くしてやりたいという、不器用な父親の温もりを孕んでいた。
「会いに行く必要は無いし、返事も書かなくて良い。ただ、気持ちだけは……受け取ってやって欲しい」
恐る恐る仰ぎ見た翠の瞳は、微かに揺れ動いているようだった。緩い放物線を描く口元から父親の誠実な愛情を感じて。抗い様の無い切なさに。堪らず目頭が熱くなってしまった。
(……っ……、おとう、さん……)
愛されている事への陶酔と罪悪が、私の脳裏で渦巻いていく。この人に『親』としての愛情を与えられるのは、とても嬉しい事であり、ありがたい事でもあるけれど。
それは手放しで受け入れられるような。『実親』からの愛情とは、やはり違っていた。
私には、本当の両親がいる。
この人には、本当の娘がいる。
だからこれは互いの欠落を埋める為に結ばれた、『仮初めの親愛』。本物以上の家族に成りたいと願った私へ向けられた、最高位の対応だった。
「……ありがとうございます。お母様の想い、大切に読ませていただきます」
込み上げて来る想いを振り払い。必死に顔へ笑みを張り付けて。私は痛いほど手紙を抱き締めて見せる。
定められた悲劇を塗り替える、眩い程の希望の光。冷たい死の淵で息を潜めていた公爵夫人が。私の足跡を標として。再び現世へ蘇ろうとしている。
私が社交界という戦場へ身を投じる事が。彼女の魂を繋ぎ止める、至高の救いになっているのだとしたら。私は喜んでこの罪悪感を、今後も背負い続けよう。
それが紛い物の私に出来る、せめてもの贖罪になると思うから。
「そうか。アデライドはここ最近、見違えるように顔色が良くなったそうだ。お前が手紙を読んだ事を知れば、きっと喜ぶだろう」
肺腑を突く程の決意を込めて見上げれば。公爵は憑き物が落ちたかのように深く頷き、目元を小さく綻ばせてくれる。滅多な事では動かない筈の硬質な面持ちは、春の陽だまりの如く和らいでいた。
純白の封筒に視線を縫い付けたまま。公爵は意識を遠い追憶の淵へと、そっと沈めていく。その瞳の奥底には。二度と触れる事の叶わない。過去の幻影が揺らめいているようだった。
「……ジェームズはあの日のお前の事を、『何も言わずに去った』と報告してくれた。もし私や世界を憎み、呪っていると聞かされていたら。妻も私も、今日まで正気を保つ事は出来なかっただろう」
あまりにも唐突過ぎる告白に、弾かれたように顔を上げる。自嘲気味に口元を歪めた公爵の相貌には、かつて味わったであろう途方も無い絶望の残滓が張り付いており。その視線は私の肩越しを通り抜け。背後に控えるジェームズへと、真っ直ぐに注がれていた。
「あの言葉は、私と妻を生かしてくれた。私はお前の忠義に、どれほど救われたか分からない。……改めて礼を言おう。ありがとう、ジェームズ」
公爵の声は。静寂の海を揺らすさざ波のように、微かな震えを伴っていた。けれどジェームズへ向けられた眼差しは、どこまでも穏やかで。過去と罪を赦し包み込む程の、深い慈しみに溢れていた。
それは情念に満ちた悔恨と、確かな救済の記憶。
自らの不徳故に愛娘を守り切れず。修道院という冷徹な檻へ幽閉する事しか出来なかった、無力な親による懺悔。
そんな親を娘が憎悪し、最期の瞬間まで呪いの言葉を吐き捨てていたとしたら。その事実は間違い無く、公爵夫妻の心を永遠に蝕み続けていただろう。
深く、重く、静かな言の葉が、仄暗い廊下に吸い込まれていく。宰相としての怜悧な頭脳を持つこの人が、その報告の不自然さや都合の良さに気付かない理由が無い。
それでも公爵はその言葉を、『真実』として受け入れる事を選んだのだ。それが自分と妻の命を繋ぐ、唯一の『蜘蛛の糸』だったから。
「…………」
無言のままジェームズは、深々と頭を下げたのだろう。静まり返った廊下の空気を伝い。彼の沈黙の重みだけが、背中越しに響いていた。
呼吸の揺らぎも、布地が擦れる僅かな音すら存在しない。世界の秒針が凍り付いてしまったみたいに、彼は全ての動きを停止させていた。
「明日に備えて、ゆっくり休みなさい。お前もだ、ジェームズ」
穏やかな笑みを私達へ残し。敢えてそれ以上の言葉を重ねぬまま。公爵は果ての無い暗がりの奥へ、歩み去って行く。
それは父としての深遠な情愛と。執事としての至高の献身が溶け合う。あまりにも哀切な魂の交感だった。
(お父様はジェームズの事を、本当に心から信頼しているのね……)
そもそも目線だけで会話出来る主従なんて、そうそう居るものでは無い。公爵とジェームズの信頼関係は。私が理解出来る範囲よりもずっとずっと遠い場所で、繋がっているのかもしれない。
遠ざかる足音が静寂に溶けるのを見届けてから。肺の奥に溜まっていた熱を、そっと吐き出していく。母の愛が宿る手紙を胸に抱き締めたまま。私はゆっくりと、彼の方へ振り返った。
けれど。
「……? ジェームズ?」
最敬礼の姿勢を保ったまま。ジェームズは一筋の呼吸さえ止めた彫像の如く、一切の動きを封じていた。沈黙を守る彼に向けて、躊躇いながらも声を掛けてみれば。彼は音も無く顔を持ち上げてくれる。
「……………」
薄暗い廊下の照明を受けた相貌は、やはり至高の芸術品を彷彿とさせる程に端麗で。いつも通りの完璧な執事の仮面を、被っているように思えたけれど。
(え……?)
ほんの一瞬だけ。心臓が不規則な鼓動を打ち放つ。清冽な水を湛えている筈の蒼の双眸が。光の欠片すら反射しない。名状し難い深潭の如く、澱んでいたから。
それはまるで。覗き込めば二度と浮上出来ないと錯覚してしまう程の。ありとあらゆる感情を泥濘の淵へと沈め。幾重にも鍵を掛けた。圧倒的な『昏冥』が。渦巻いているようにも感じられて──。
「どうか、なさいましたか。お嬢様?」
「──ッ!?」
でも。得体の知れない異質な気配は。彼が瞼を伏せた瞬間に。いとも容易く遮断されてしまった。落とされた声はいつもと変わらない。穏やかで優しい響き。
背筋を掠めた不穏な悪寒を振り払い。意識的に呼吸を整えて。ジェームズを安心させるべく。精緻な微笑を浮かべて見せる。けれどこれは上辺だけが取り繕われた、ただの『仮面』に過ぎなかった。
「ううん、何でも無いの。ただちょっと、辛そうな顔してるなって思って……」
小説の『後日談』では、イザベラの行方は一切不明とされていた。ジェームズが本物のイザベラを見付けていたのか。或いは彼女の無事を確認していたのか。私は何も、知らないままだけど。
公爵からあんな風に感謝の言葉を伝えられれば。いくら完璧な執事とは云え。本物のイザベラを思い出して、感情が揺さぶられるのは当然の事だと思うから。
(……お父様があんなに辛そうなんだもの。ジェームズだってイザベラがいなくなった時の事を思い出すのは、きっと辛い筈だわ……)
白手袋に包まれた指先を、縋るように引き寄せる。光の失われた瞳の奥で。どれ程の闇が渦巻いていようとも。私の知っているジェームズはいつだって。私の為に己の命すら捧げてくれる。最高の執事だから。
この事実は例えこの世界が終焉を迎えようとも、決して揺らぐ事は無い。
そもそも『偽物』の私が此処に居る時点で、『本物』の運命なんて語るまでも無い事なのだ。ジェームズは誰よりも優秀で、完璧で、忠実な執事。守れなかった罪悪感を今でも心の奥底で、引き摺っているに違いない。
「無理しないでね、ジェームズ。辛い時は私がいっぱい甘やかしてあげるって、約束したでしょ?」
「……ありがとうございます。お嬢様の優しさに、私はいつも救われております」
細めた双眸に穏やかな情愛を湛えたジェームズは。私の手を慈しむように、優しく包み込んでくれる。
白手袋越しに伝わる体温は、まだ少しだけ冷たかったけれど。彼の美しい微笑みを見ているだけで。私の心は底無しの、幸福感に満たされていくから。
「さあ、お嬢様。夜も更けました。お部屋までご案内致します」
「ええ、お願いするわ」
胸に抱いた母からの手紙と。私を守る為に戦ってくれる、頼もしい父の存在。そして私の全てを知りながらも隣に立とうとしてくれる、最愛の執事。
こんなにも心強い味方が、私の傍にいてくれるのだ。過酷な運命が牙を剥こうとも、屈する事など有り得ない。そんな確かな信頼が、私の胸を焦がしていた。
だからだろうか?
私が背を向けた、その刹那。虚空を射抜く彼の瞳が。再び光の無い深淵の如く昏く澱んでいる事に。私は最後まで、気付けなかった──。




