表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りの悪役令嬢は屈しない  作者: さけのきりみ
三章 聖域の剪定者
47/47

第三話 (4)


 緊張に満ちた晩餐の時間は、穏やかに終焉を迎える。胃をく男達の峻烈しゅんれつな牽制劇は嘘のように鳴りを潜めており、ダイニングルームには公爵家が本来纏うべき荘厳な静寂が舞い降りていた。


「……夜も更けた。今日はこの辺りでお開きとしよう」

「はい、お父様。有意義なお時間を頂きまして、ありがとうございました」


 熱の引いた紅茶で喉を潤した公爵は、満足気に頷いてからソーサーへ陶器を戻す。重厚な椅子を鳴らす事無く立ち上がり、寸分の乱れも許さない優雅な仕草で襟元を正して見せた。


 威厳あるその背中を追うように。私も静かに席を立ち、軽くドレスの皺を伸ばす。背後に控えるジェームズが静かに椅子を引き、完璧なエスコートで退室を促してくれていた。


(部屋に戻ったら、まずはレーニエ様のお屋敷へ行く準備を進めないといけないわよね。お父様の了承も得られた事だし、しっかり対策を練らないと…)


 次なる戦場への布石を脳裏で反芻はんすうし、仄暗いランプの灯る回廊へ足を踏み出していく。


 公爵の執務室と私の自室は、廊下の途中で左右に分かれる構造になっており。その別れ際。不意に歩みを止めた公爵は、緩慢な動作で此方へと向き直る。


「……イザベラ」


 その声音には。鉄の規律を纏う宰相としての威厳も。私を対等な同志パートナーと認める強者としての自負も、削ぎ落とされているようだった。代わりに存在していたのは。言葉に詰まる躊躇ためらいを帯びた、不器用な親としての慈しみだった。


「?」


 訝しげに視線を持ち上げてみれば。公爵は懐から一通の封書を、宝物でも扱うかのような繊細な手付きで静かに取り出してみせる。


 上質な純白の羊皮紙。そこにはリリエンタール公爵家の紋章では無い、百合の花を模した優美なシーリングスタンプが、淡い藤色の蝋の上に刻まれていた。


「これは領地で療養している私の妻、アデライドからの手紙だ」

「!?」


 公爵の口から告げられたその名前に、心臓が一際大きく跳ね上がる。


 アデライド・フォン・リリエンタール。

 イザベラの実の母親であり、冷徹な公爵が唯一心を許す。魂の半身とも云える最愛の妻。娘の悪行と失踪に心を痛め、領地のタウンハウスで静養している。この屋敷のもう一人の主。


 小説の中の彼女は、元々身体が弱く。社交界にも殆ど顔を出さない謎だらけの人物だった。深窓の佳人として隠遁いんとんし、物語の終盤で誰にも看取られる事無く息を引き取る。残酷な運命を約束された、悲劇の犠牲者だったけれど。


(……なるほど。つまり夫人は今、回復に向かっているのね)


 拒絶と切望の狭間で揺れる指先が、差し出された純白の封筒を慎重に受け止める。触れた瞬間に鼻腔を擽ったのは、驚く程に澄んだ百合の香りだった。


 奈落の底に心を沈めてしまった筈の母親が。娘の為にペンを握り、香りを移すまでの生命力を取り戻している。その重みが封筒越しに、私の魂を揺さぶっていた。


(……でも私は、本物の『イザベラ』なんかじゃない……)


 社交界で得られた名声も。手紙に込められているであろう深い愛情も。その宛先は決して『私』などでは無く、本物の『イザベラ』へ向けられたもの。


 いくら努力を重ねた所で。この表皮の裏側に息付いているのは、魂の在処を借りただけの簒奪者さんだつしゃに過ぎない。純粋な母娘愛を騙し取り。偽りの安堵を与えているという負い目が、私の心身を鉛のように重くする。


 埋まる事の無い虚無の断絶と、悍ましい罪悪感が這い上がり。手紙を持つ手が震えるのを隠そうと、必死に奥歯を噛み締める。そんな私の剥き出しの恐怖と葛藤を、公爵は薄いレンズ越しの瞳で静かに俯瞰していた。


「無理に封を開けずとも良い。アデライドは今の『お前』を、心から誇りに思っているようだ。お前がお前なりに重い荷物を背負ってくれている事は、私が誰よりも理解している」

「…………っ」


 指先の震えが止まらない。そんな私の姿を。公爵は眉尻を下げ。胸を突かれるような痛ましげな眼差しで、見守ってくれている。翠の双眸に浮かんでいたのは。私の存在そのものを許容する、際限の無い優しさだった。


 『偽物』としての負い目も。暴かれる恐怖も。この人は何もかもを飲み込んだ上で、私に『娘』としての権利を与えてくれていた。


「お前は私達の娘だ。お前が公爵家の為に戦ってくれているという事実は、決して色褪せる事はない」


 祈りを捧げる厳かな手付きで。公爵は私の頭に、大きな掌を置いてみせる。そして幼子を労るように、ポンポンと二度、軽く叩いてくれた。


 それは私の正体を知る共犯者としての明確な配慮でありながらも。同時に『娘』としての重責を少しでも軽くしてやりたいという、不器用な父親の温もりを孕んでいた。


「会いに行く必要は無いし、返事も書かなくて良い。ただ、気持ちだけは……受け取ってやって欲しい」


 恐る恐る仰ぎ見た翠の瞳は、微かに揺れ動いているようだった。緩い放物線を描く口元から父親の誠実な愛情を感じて。抗い様の無い切なさに。堪らず目頭が熱くなってしまった。


(……っ……、おとう、さん……)


 愛されている事への陶酔とうすいと罪悪が、私の脳裏で渦巻いていく。この人に『親』としての愛情を与えられるのは、とても嬉しい事であり、ありがたい事でもあるけれど。


 それは手放しで受け入れられるような。『実親』からの愛情とは、やはり違っていた。


 私には、本当の両親がいる。

 この人には、本当の娘がいる。


 だからこれは互いの欠落を埋める為に結ばれた、『仮初めの親愛』。本物以上の家族に成りたいと願った私へ向けられた、最高位の対応こたえだった。


「……ありがとうございます。お母様の想い、大切に読ませていただきます」


 込み上げて来る想いを振り払い。必死に顔へ笑みを張り付けて。私は痛いほど手紙を抱き締めて見せる。


 定められた悲劇を塗り替える、眩い程の希望の光。冷たい死の淵で息を潜めていた公爵夫人が。私の足跡をしるべとして。再び現世うつしよへ蘇ろうとしている。


 私が社交界という戦場へ身を投じる事が。彼女の魂を繋ぎ止める、至高の救いになっているのだとしたら。私は喜んでこの罪悪感を、今後も背負い続けよう。


 それが紛い物の私に出来る、せめてもの贖罪しょくざいになると思うから。


「そうか。アデライドはここ最近、見違えるように顔色が良くなったそうだ。お前が手紙を読んだ事を知れば、きっと喜ぶだろう」


 肺腑はいふを突く程の決意を込めて見上げれば。公爵は憑き物が落ちたかのように深く頷き、目元を小さくほころばせてくれる。滅多な事では動かない筈の硬質な面持ちは、春の陽だまりの如く和らいでいた。


 純白の封筒に視線を縫い付けたまま。公爵は意識を遠い追憶の淵へと、そっと沈めていく。その瞳の奥底には。二度と触れる事の叶わない。過去の幻影が揺らめいているようだった。


「……ジェームズはあの日のお前の事を、『何も言わずに去った』と報告してくれた。もし私や世界を憎み、呪っていると聞かされていたら。妻も私も、今日まで正気を保つ事は出来なかっただろう」


 あまりにも唐突過ぎる告白に、弾かれたように顔を上げる。自嘲気味に口元を歪めた公爵の相貌には、かつて味わったであろう途方も無い絶望の残滓が張り付いており。その視線は私の肩越しを通り抜け。背後に控えるジェームズへと、真っ直ぐに注がれていた。


「あの言葉は、私と妻を生かしてくれた。私はお前の忠義に、どれほど救われたか分からない。……改めて礼を言おう。ありがとう、ジェームズ」


 公爵の声は。静寂しじまの海を揺らすさざ波のように、微かな震えを伴っていた。けれどジェームズへ向けられた眼差しは、どこまでも穏やかで。過去と罪を赦し包み込む程の、深い慈しみに溢れていた。


 それは情念に満ちた悔恨と、確かな救済の記憶。


 自らの不徳故に愛娘を守り切れず。修道院という冷徹な檻へ幽閉する事しか出来なかった、無力な親による懺悔。


 そんな親を娘が憎悪し、最期の瞬間まで呪いの言葉を吐き捨てていたとしたら。その事実は間違い無く、公爵夫妻の心を永遠に蝕み続けていただろう。


 深く、重く、静かな言の葉が、仄暗い廊下に吸い込まれていく。宰相としての怜悧れいりな頭脳を持つこの人が、その報告の不自然さや都合の良さに気付かない理由わけが無い。


 それでも公爵はその言葉を、『真実』として受け入れる事を選んだのだ。それが自分と妻の命を繋ぐ、唯一の『蜘蛛の糸(慈悲)』だったから。


「…………」


 無言のままジェームズは、深々と頭を下げたのだろう。静まり返った廊下の空気を伝い。彼の沈黙の重みだけが、背中越しに響いていた。


 呼吸の揺らぎも、布地が擦れる僅かな音すら存在しない。世界の秒針が凍り付いてしまったみたいに、彼は全ての動きを停止させていた。


「明日に備えて、ゆっくり休みなさい。お前もだ、ジェームズ」


 穏やかな笑みを私達へ残し。敢えてそれ以上の言葉を重ねぬまま。公爵は果ての無い暗がりの奥へ、歩み去って行く。


 それは父としての深遠な情愛と。執事としての至高の献身が溶け合う。あまりにも哀切な魂の交感だった。


(お父様はジェームズの事を、本当に心から信頼しているのね……)


 そもそも目線だけで会話出来る主従なんて、そうそう居るものでは無い。公爵とジェームズの信頼関係は。私が理解出来る範囲よりもずっとずっと遠い場所で、繋がっているのかもしれない。


 遠ざかる足音が静寂に溶けるのを見届けてから。肺の奥に溜まっていた熱を、そっと吐き出していく。母の愛が宿る手紙を胸に抱き締めたまま。私はゆっくりと、彼の方へ振り返った。


 けれど。


「……? ジェームズ?」


 最敬礼の姿勢を保ったまま。ジェームズは一筋の呼吸さえ止めた彫像の如く、一切の動きを封じていた。沈黙を守る彼に向けて、躊躇いながらも声を掛けてみれば。彼は音も無く顔を持ち上げてくれる。


「……………」


 薄暗い廊下の照明を受けた相貌は、やはり至高の芸術品を彷彿ほうふつとさせる程に端麗で。いつも通りの完璧な執事の仮面を、被っているように思えたけれど。


(え……?)


 ほんの一瞬だけ。心臓が不規則な鼓動を打ち放つ。清冽な水を湛えている筈の蒼の双眸が。光の欠片すら反射しない。名状し難い深潭しんたんの如く、澱んでいたから。


 それはまるで。覗き込めば二度と浮上出来ないと錯覚してしまう程の。ありとあらゆる感情を泥濘でいねいの淵へと沈め。幾重にも鍵を掛けた。圧倒的な『昏冥こんめい』が。渦巻いているようにも感じられて──。


「どうか、なさいましたか。お嬢様?」

「──ッ!?」


 でも。得体の知れない異質な気配は。彼が瞼を伏せた瞬間に。いとも容易く遮断されてしまった。落とされた声はいつもと変わらない。穏やかで優しい響き。


 背筋を掠めた不穏な悪寒を振り払い。意識的に呼吸を整えて。ジェームズを安心させるべく。精緻せいちな微笑を浮かべて見せる。けれどこれは上辺だけが取り繕われた、ただの『仮面』に過ぎなかった。


「ううん、何でも無いの。ただちょっと、辛そうな顔してるなって思って……」


 小説の『後日談』では、イザベラの行方は一切不明とされていた。ジェームズが本物のイザベラを見付けていたのか。或いは彼女の無事を確認していたのか。私は何も、知らないままだけど。


 公爵からあんな風に感謝の言葉を伝えられれば。いくら完璧な執事とは云え。本物のイザベラを思い出して、感情が揺さぶられるのは当然の事だと思うから。


(……お父様があんなに辛そうなんだもの。ジェームズだってイザベラがいなくなった時の事を思い出すのは、きっと辛い筈だわ……)


 白手袋に包まれた指先を、縋るように引き寄せる。光の失われた瞳の奥で。どれ程の闇が渦巻いていようとも。私の知っているジェームズはいつだって。私の為に己の命すら捧げてくれる。最高の執事だから。


 この事実は例えこの世界が終焉を迎えようとも、決して揺らぐ事は無い。


 そもそも『偽物』の私が此処に居る時点で、『本物』の運命なんて語るまでも無い事なのだ。ジェームズは誰よりも優秀で、完璧で、忠実な執事。守れなかった罪悪感を今でも心の奥底で、引き摺っているに違いない。


「無理しないでね、ジェームズ。辛い時は私がいっぱい甘やかしてあげるって、約束したでしょ?」

「……ありがとうございます。お嬢様の優しさに、私はいつも救われております」


 細めた双眸に穏やかな情愛を湛えたジェームズは。私の手を慈しむように、優しく包み込んでくれる。


 白手袋越しに伝わる体温は、まだ少しだけ冷たかったけれど。彼の美しい微笑みを見ているだけで。私の心は底無しの、幸福感に満たされていくから。


「さあ、お嬢様。夜も更けました。お部屋までご案内致します」

「ええ、お願いするわ」


 胸に抱いた母からの手紙と。私を守る為に戦ってくれる、頼もしい父の存在。そして私の全てを知りながらも隣に立とうとしてくれる、最愛の執事。


 こんなにも心強い味方が、私の傍にいてくれるのだ。過酷な運命が牙を剥こうとも、屈する事など有り得ない。そんな確かな信頼が、私の胸を焦がしていた。


 だからだろうか?


 私が背を向けた、その刹那。虚空を射抜く彼の瞳が。再び光の無い深淵の如く昏く澱んでいる事に。私は最後まで、気付けなかった──。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ