第三話 (3)
銀食器の触れ合う微かな音と共に、メインディッシュの皿が下げられる。反撃の指針が定まり室内に満ちていた峻烈な空気は、本来の穏やかさを取り戻していた。
「……ええ、お父様のお見立て通りです。立ち止まっている時間はありません」
椅子に深く座り直し。居住まいを正した私は。逃げる事無く公爵の眼差しを正面から受け止める。もう隠し立てはしない。ここから先は公爵家の全面的なバックアップが必要不可欠だから。
「セシリア様が情報を操作している『聖女様の定例茶会』。あの閉鎖的な空間の実態を掴む為には、内部事情を把握する必要があります。ですがご存知の通り私には、招待状がありません」
「だろうな。世間から大罪人と謗られているお前を神聖な茶会へ招き入れる程、奴らも寛容ではあるまい」
紅茶のカップを指先で弄び。琥珀色の水面を乱しながらも、公爵の瞳には二度と繰り返してはならない悲劇への強い戒めが刻まれていた。
「はい。なので私の代わりに、堂々と内部へ立ち入る事の出来る『協力者』を募りたいと考えているんです。フルール伯爵家のご令嬢レーニエ様は、定例茶会の参加資格を満たしている希少な人材。お茶会の内情を探る上で、彼女以上の適任はいないかと」
「……ほう。フルール伯爵家、か」
その名を聞いた途端。公爵は精緻な記憶を探るように、そっと瞼を伏せる。国の中枢を担う者が持つ圧倒的な情報群の中から、該当する家門の情報を選別しているのだろう。
「………」
常々思っている事なのだが。この世界に生きる人達は、どうしてこんなにも顔面偏差値が高いのだろうか。オルリック公爵の年齢は小説では明かされていなかったけれど、私の予想では恐らく四十代後半くらい。
それは重ねた歳月の全てが『色気』という名の凶器に変わる、最も危険な境界線。落ち着いた物腰の裏に潜む、酸いも甘いも噛み分けた男の余裕が其処には存在していた。
「軍部にも文官の派閥にも属さず、領地経営に専念して中立を貫いている穏健な家門だな。当主のフルール伯爵とは直接の面識は無いが、堅実な男だと聞き及んでいる」
そして引き出された情報も、やはり正確だった。顎に手を当てて思考に耽る金髪翠眼の眼鏡イケオジ。絵に成り過ぎる。……私はこんな上司が欲しかった。
「ご息女のレーニエ・フルール様は、王妃陛下主催のお茶会で、孤立していた私に唯一好意的な声を掛けて下さった方なんです。今回の訪問では彼女の婚約者である、子爵家の幼馴染をご紹介頂ける事になっております」
大切な親友を盤上の駒として巻き込んでしまう事への罪悪感は、勿論私にだってちゃんとある。でも、もしレーニエが私の為に、力を貸してくれるのなら。一緒に戦ってくれるのなら。
この腐敗した社交界の空気を、きっと変えられる筈。そう信じられるだけの強い意志を、確かに彼女から感じたから。
そんな不退転の決意を込めて私は、公爵の瞳を見詰め返した。
「……そうか。我が家に来てからというもの、お前は休む間も無く厳しい社交の場へ身を投じていたからな。年相応の令嬢らしい心安らぐ友人が出来たのなら、こんなに喜ばしい事は無い」
自然と綻んだ公爵の相貌には。娘の成長と健やかな交友関係を微笑ましく見守る、慈しみ深い父親の情が込められていた。噛み締めるように紡がれたその言葉に、不意に視界が潤んでしまう。
この人は本当に『イザベラ』の幸せを、心から願っていたのだろう。権力闘争の駒では無い。血の通った人間として。愛する一人の娘として。
『友』という名の甘い蜜を啜り、最後に致命的な牙を剥いたセシリア・マルケス。彼女が犯した裏切りの罪過は、例え時を遡ろうとも消滅する事など有り得ないから。
「だがお前はその清廉で無垢な友人を、泥沼の渦中へ引き込もうとしている。一歩間違えればフルール伯爵家をも破滅させかねない、危険な綱渡りだ」
「……っ…」
図星を突かれ、喉奥が引き攣れる。組んだ両手の上に顎を乗せた公爵は、冷徹な眼差しで此方を射抜く。それは権力の頂に立つ宰相の言葉であると同時に、理不尽な世界を生き抜いて来た先達としての明確な忠告だった。
「悪意に慣れていない者が、聖女派の巣食う毒沼で息をするのは容易では無い。協力を願うのであれば準備は万全にしろ。僅かでも危険が及ぶと判断した場合は、躊躇いなく盤上から降ろせ。それが友を戦場へ引き摺り込む者の、最低限の『責務』だ」
地を這う程の重い低声が、私の魂を震わせる。薄いレンズ越しに注がれる氷点下の眼差しは、かつてのイザベラには持ち得なかった『覚悟』の在り処を問うていた。
「……勿論です、お父様。必ず守り抜いてみせます。私の親友を悪意の犠牲にさせるつもりは毛頭ございません」
力強く頷き、誓いを立てる。それは悪役令嬢の皮を被った私が為すべき、唯一の矜持でもあるのだ。親友を都合の良い道具として使い捨てるだなんて、そんなのは絶対に許されない。
「公爵様。フルール伯爵令嬢の警護、及び情報漏洩を防ぐ為の布陣は、このジェームズが責任を持って構築致します。お嬢様とレーニエ様が安全な場所で語り合えるよう、私が万全の『盾』となりましょう」
揺るぎ無い意志を込めて断言すると。背後で影の如く控えていたジェームズが、滑らかな動作で一歩前へと進み出る。
それは寸分の隙も許さない、完璧な執事の宣誓だった。冷えた蒼の瞳には私への揺るぎない献身と。私の意志を阻む障害を塵一つ残さず抹消せんとする、凍て付く殺気が瞬いていた。
なんて恐ろし……いや、頼もしいのだろうか。こんなにも心強い味方は、世界中どこを探してもきっと存在しないだろう。
「ああ、頼んだぞジェームズ。お前がいれば私も安心だ。フルール家に関する工作は、お前達に任せよう」
満足気に口角を上げた公爵は。芳醇な香りを漂わせる紅茶のカップを僅かに掲げ、計画の承認を静かに告げる。
聖女派の深淵に広がる澱んだ濁り。慈愛を騙る偽りの楽園を暴き立て、灰燼に帰す算段は、着実に整いつつあった──。
※
対話に一つの区切りが付いて、場の空気は少しだけ緩む。冷めかけの紅茶で喉を潤した公爵は。不意に何事かを思い出したかのように、口元を綻ばせた。
「……それにしても。お前があの『アークライト卿』と踊り、しかも穏やかに別れたと報告を受けた時は、流石の私も早馬の文面を二度見してしまったな」
「!?」
あまりにも急過ぎる話題の転換に、思わず瞬きを繰り返す。組んでいた手を解き、カップの横に置かれていたナプキンで指先を軽く拭った公爵は。いっそ面白がるような。それこそ探るような眼差しで、此方を見据えていた。
それと同時に背後で控えているジェームズの気配が、一瞬にして冷え込んだのも伝わって来た。物理的な寒気を伴う無言の圧力が、私の身体をグサグサと突き刺している。
敢えて視線を向けずとも分かる。今、私の愛する専属執事は。極上の無表情の裏側で、『クリストファーをどうやって社会的に抹殺するか』という物騒な算段を立てているに違いない。
「あ、あれは……その、彼なりの『尋問』のようなものでしたわ。私が本当に記憶を失っているのか、何か良からぬ事を企んでいるのではないかと、警戒されていたようでして…」
淑女の笑みを必死に顔面へ張り付けながらも、背筋には冷たい汗が流れ落ちて行く。
昨夜向けられた途方も無い嫉妬と消毒の嵐を思い出してしまい。首筋に隠されている筈の秘密の痕跡が、熱を孕んだように感じたから。
「だろうな。あのアークライト卿が自ら女性を誘うなど、滅多にある事では無い。お前が無事で何よりだ。だがあの男とお前が互いに刃を向け合う事無く対話を成立させたというのは、私にとって非常に感慨深いものがあるのだよ」
「……?」
公爵の口から紡がれる『アークライト卿』という響きには。敵対派閥の人間に対する警戒心よりも、一人の優秀な若者へ向ける純粋な敬意が込められているようだった。
不思議に思い首を傾げていると。父は何処か懐かしむ様子で瞼を細め、遠い過去の情景を慈しむように語り始める。
「お前は知らないだろうが。あの子とアークライト卿は、顔を合わせる度に口喧嘩をしていてな。彼はフィリップ殿下の側近として、高潔な騎士として。殿下とお前の関係が少しでも良くなるようにと、随分と骨を折ってくれていたのだよ。
殿下の不誠実な態度を諌める一方で、あの子の感情的な振る舞いにも臆する事無く苦言を呈してくれていたんだ」
その話を、私は知らない。公爵の語る昔話は。私の知る小説の行間にすら記されていない。活字の裏側に秘められた、『空白』の物語だ。
小説の中ではイザベラが聖女を虐める度に、クリストファーが厳しい言葉を投げ掛けているシーンが印象的だった。でもその深奥には『王子の婚約者』としてのイザベラを正道へ引き戻そうとする、一人の騎士の真摯な努力が存在していたのだ。
なんて事だ。見捨ててしまえば楽なものを。わざわざ口煩く忠言して、嫌われ役を買って出てまで、二人の関係を修復しようとしてくれていたなんて。
「あの子は自分の非を指摘するアークライト卿に反発して、よく彼を怒鳴りつけていた。アークライト卿が理を説けば、あの子は感情的に喚き散らす。王宮の廊下で二人が言い争う姿は、名物のようになっていたらしいからな」
「そんなに……」
顔を覆いたくなるような黒歴史の開示に、私の口から乾いた息が溢れ出す。かつてのイザベラの暴走と。それに巻き込まれて胃を痛める真面目なクリストファーの姿が。脳裏で鮮明に思い浮かんでしまったから。
小説の構成を考えれば。確かに悪役令嬢という存在は、物語の中で孤立していくのがお約束の展開だけれど。
でも折角『推し』が親身になって、言葉を尽くしてくれていたのに。それを無慈悲に蹴り飛ばし、口喧嘩までしていたなんて。
そんなのは勿体無い。あまりにも勿体無さ過ぎる!
「だがな、イザベラ。私はアークライト卿の事を、個人的に好ましく思っているのだよ。
聖女派の重鎮であるマルケス侯爵家の息が掛かっていながらも、彼自身から悪い噂を聞いた事は一度も無い。不正を憎み、己の信じる正義と騎士の誇りを何よりも重んじる、高潔な若者だ」
公爵の言葉には、クリストファーに対する深い敬意と高い信頼が込められていた。泥に塗れた政界で生きるこの人にとって。打算無く己の正義を貫く若き騎士の存在は、とても眩しく映っているのかもしれない。
けれど。
「ですがお父様。いくらアークライト様が実直な騎士だとしても、その評価は少し……過大ではございませんか?」
オタクとしての私はむしろ、公爵の意見に首がもげるほど頷きたい。『推し』が手放しで褒めて貰えるのは、とても喜ばしい事だから。
でもクリストファーに対するオルリック公爵の評価は、私が知る限り最高水準のものだった。一国の宰相が対立派閥に属する若者を称賛するなど、普通に考えたら有り得ない。
慎重に言葉を選んで問い掛ければ、公爵はゆっくりと首を横に振る。胸奥に溜まった澱を吐き出す重い溜息と共に。翠の瞳は痛ましげな翳りを帯びて、緩く細められた。
「……あの子が断罪され、修道院へと護送されていく日の事を、私は今でも鮮明に覚えている」
唐突に転換された話題と共に、公爵の声は深い哀愁を孕んだ物へと切り替わる。
イザベラが修道院へ送られた日。それは小説において、悪役令嬢が完全に物語から退場した瞬間であり。ハッピーエンドの裏側で一行だけ語られた、『後日談』の始まりだった。
「誰もが遠巻きに非難の目を向け、かつての友すら冷笑を浮かべる中。アークライト卿だけが静かに、深く頭を下げて、お前を見送っていたのだよ」
静寂に支配されたダイニングルームへ、痛切な独白が響き渡る。語られる言葉が魂を伴い、かつての凄惨な情景が蘇る。
「それに気付いていたのは、遠くからその様子を見守る事しか出来なかった、無力な私だけだろう。彼は『大罪人』とされたあの子に対して、最後まで騎士としての礼節と、一人の人間としての敬意を忘れてはいなかった。
だからこそ私は『クリストファー・アークライト』という男を、心から信頼している」
そんな描写は、小説の何処にも存在していなかった。きっとイザベラ本人でさえも、気付いていなかった筈である。絶望という深い淵に沈んでいた彼女の瞳に。周囲の景色を映す余裕なんて、残っているわけが無いから。
「『イザベラ』が変わってしまった事を、アークライト卿は肌で感じ取ってくれたのだろうな。今のお前が彼と穏やかに言葉を交わせるようになった事を、父親として嬉しく思う」
「……はい、お父様。アークライト様は、とても立派な光の騎士でしたわ」
胸の奥で温かな灯りが、広がっていくのを感じる。どうやらクリストファーの掲げる騎士道精神は。物語を枠組みを踏み越えて尚、本物以上の輝きを放っているらしい。しかも対立する派閥のトップである公爵でさえ、彼の誠実さを認めてくれている。
嗚呼、なんて素晴らしいのだろうか。罪を憎んで人を憎まず。やっぱり私の『推し』はいつだって。最高に格好良くて、気高くて、そして何よりも美しい。
「イザベラ。マルケス侯爵家の不正を暴くこの戦いは、極めて危険な綱渡りとなる。私も宰相として持てる全ての力で、お前を守り抜くつもりだ。だが皮肉な事に政治の世界には、『絶対』など存在しない」
一切の妥協を許さぬ権力者の声で、公爵は私を凝視する。けれど翠の双眸には。自らの魂を削り託す遺訓にも似た、悲壮な決意が滲んでいた。
「もし今後私が、お前を守り切れないような事態が起きた時。或いは公爵家という後ろ盾が、機能しなくなる程の窮地に陥った時。お前は迷わずアークライト卿を頼りなさい。どんな状況であれ、彼は必ずお前を正しき道へと導き、守ってくれるだろう。
あの男になら私は、安心して『娘』を任せられる」
「お父様……」
それは娘を持つ父親としての、究極の信頼の証だった。自らの愛娘を繋ぎ止める『最後の一線』として。一人に騎士に命運を委ねるという、いっそ重過ぎる程の信託。
胸を焦がす高揚感を覚え、決然と頷こうとした。まさにその瞬間だった。
ピキッ──。
「──ッ!?」
背後から明確な、『凍結音』が聞こえた。
これは比喩でも何でも無い。ダイニングルームの温度が急激に数度下がったのを、肌を通してはっきりと実感してしまった。
死角から膨れ上がったのは。先程までの冷気とは比べ物にならない、心身を突き刺す絶対零度の重圧。銀の燭台で揺らめいていた橙色の炎が。見えない風で煽られたかのように激しく揺れ動き、今にも消え入りそうに萎縮している。
わざわざ振り向いて確認しなくても分かる。ジェームズだ。ジェームズが完全に、『キレて』いる。
「……………」
彼は沈黙を保ったまま、私の背後に控えていた。けれどその存在感は、先刻までの『完璧な影』から。今にも牙を剥き出しにして公爵の喉笛を喰い千切る、『獰猛な獣』へと変貌していた。
でも正直な感想を云わせて貰うと、ジェームズの怒りは至極当然の事である。『自分以外の男に私を任せる』と、目の前で堂々と公言されてしまったのだ。昨夜の接触すら許せなかった愛しい執事が、この宣告を穏やかに受け流せるわけが無い。
(……マズい。これは非常にマズいですよ、ジェームズくん。今の貴方、全然殺気を隠せて無いですね。敢えてオープンにしている可能性も捨て切れない所ではあるんですけど。でも今回ばかりは流石にですね? 相手が悪過ぎると思うんですよぉ〜ッ!?)
息を吸う事すら憚られる覇気の渦中。私は心の中で絶叫し、固まる事しか出来ていないというのに。放たれる牙を真っ向から受け止める公爵は。心地良い微風を浴びているかのように、泰然と構え続けていた。
流石は悪役令嬢のお父様。これしきの事では全く動じ無いらしい。
そして父は徐ろに、私から視線を外す。背後で濃密な殺気を放つ銀髪の執事へと、鋭敏な瞳を差し向ける。それは数多の政敵を冥府へと沈め、文官の頂に君臨し続ける男の。冷徹な支配者としての眼光だった。
「…………」
「…………」
交わされる言葉は微塵も無い。呼吸をしているのかどうかも定かでは無い。だがバチバチと火花を散らす程の凄まじい視線の迫り合いが、不可避の流れ弾となって私の心髄に刺さりまくっていた。……痛い。痛い。めちゃくちゃ痛い!
『弁えろ』
翠の瞳は雄弁に語る。
『お前の忠誠は高く買っている。だが娘の未来を憂う親の決定に、使用人が異を唱える事は許さん』
公爵の峻烈な眼力が、場の空気を震わせる。それは絶対的な主人としての、威厳に満ちた裁定だった。
『お断りします』
幻聴だろうか。いや、確実にそう言っている。
『お嬢様の盾となるのも、剣となるのも、この私一人で充分です。他の者が入り込む余地など、一寸たりとも残してはおりません』
迎え撃つジェームズの双眸には、些かの揺らぎすら存在していないようだった。彼は執事としての謙譲をかなぐり棄て。泥濘を映す昏い瞳で、傲然たる反論を突き返していた。
流石は悪役令嬢の専属執事。雇い主に対してあまりにも不敬過ぎる。
(いやいやいや! そもそもなんで目と目だけで会話が成立してるのよ!? イケオジ宰相とヤンデレ執事の無言の睨み合い、心臓に悪過ぎるッ!!)
権力と執着の頂点に立つ男二人が。私という『不可侵領土』を境界線として、剥き出しの覇気を衝突させ続けている。叛逆の意志が鋭い刃となって、公爵の喉元へと迫っていた。
己の信念を一歩も譲らない。束の間の平穏を切り裂く男達の、言葉無き牽制と苛烈な応酬。肌を刺す極寒の冷気と、臓腑を焼く重圧が交互に押し寄せて来て。私の胃は安息の地を奪われた小動物のように、悲鳴を上げ始めていた。
「〜〜〜〜ッ」
こんなの頭を抱えるしか無かった。譲れない信念を持っているのはとても素晴らしい事だし、見目麗しい男二人に愛されるのも物凄く名誉な事だとは思うけど。
でも今回ばかりは本当に! 私何も悪く無いからねッ!?
「……少し、部屋が冷えてきたな」
ほどなくして。公爵は意図的な含みを持って呟くと。張り詰めていた糸を切るように、ゆっくりと瞼を閉じる。
それは均衡を保っていた睨み合いを強制的に終わらせる、明確な『打ち切り』の合図だった。
「恐れ入ります。すぐに暖炉の火を強めさせましょう」
呼応するように。ジェームズもまた完璧な執事の仮面を被り直し、深々と一礼して引き下がる。
室内の温度を狂わせていた冷気は霧散したけれど。その沈黙が『承諾』を意味していない事は、誰の目にも明らかだった。
「…………はぁ~…」
逃げ場の無かった感情を吐き出すように。大きく深呼吸をする。新鮮な酸素が全身へと行き渡り、ホッと肩を撫で下ろす。
どうやら公爵が『イザベラ』へ向ける愛執は、私が思う以上に重厚らしい。
(……『愛』の証明って、本当に難しい議題よね。オルリック公爵の覚悟も、ジェームズの気持ちも。どっちも理解出来るからこそ、私からは何も言えないわ…)
私はイザベラの『替え玉』として、リリエンタール公爵邸へやって来たわけだけど。この屋敷に住む人達はどうしてこんなにも、愛情の伝え方がぎこちないのだろうか。
思春期の若者に、こういうのはむしろ逆効果である。イザベラが親の愛を信じられなかった理由が。なんとなく、解るような気がした。
「………………」
それはそれとして。
『推し』の良さを語り合える仲間が出来た喜びは、オタクとして最上の冥利ではあるので。『最推し』の怒りを引き起こさない安全な場所で。公爵様には再戦をお願いしたいと思います。
私の知らない『推し』について、私はもっと知りたい。
心の中で密やかな決意を固めつつ。完全に冷え切ってしまった食後の紅茶へ、私はそっと口を付けるのだった──。




