第三話 (2)
無事に謝罪と不退転の決意を告げた私は。背後に控えるジェームズへ向けて、そっと合図を送る。
己の影に溶け込ませていた鞄から、数枚の書面と漆黒の革張り手帳を取り出したジェームズは。衣擦れの音さえ置き去りにするような密やかな足取りで公爵の前へと至り、恭しく『戦果』を捧げ持つ。
それらはキルヒナーとシュミット、両家門の刻印が重々しく押された被害報告書と。ジェームズが執念で暴き出してくれた、マルケス侯爵家の常軌を逸した散財の記録だ。
「どうかご検分を。昨日の夜会で私とジェームズが入手した、『戦果』の全てです」
「……見させて貰おう」
白いナプキンで口元を拭った公爵は、迷い無く書類を引き寄せる。紙面を滑る翠の双眸は。記載されている文字を一つ残らず網膜へ焼き付けるように、凄絶な気迫を湛えていた。
「これはセシリア様が『聖女様への献上品』という大義名分を掲げ、下位貴族の令嬢達から金品を強制的に搾取していた確固たる証拠です。各家門の正式な印も押されております」
「……愚かな事だ。社交界での付き合いは、信頼の上に成り立つもの。それを恐怖と権威で縛り上げ、あまつさえ金銭を要求するなど。貴族の風上にも置けん」
「これまでのマルケス侯爵家は、聖女様の威光を盾にして不可侵の領域を貫いていました。ですが聖女様の名を騙って私腹を肥やしているとなれば、きっと状況は変わってくる筈です」
「ああ、違いない。奴らの外壁に、ようやく亀裂が入ったわけだ」
切々と語り継ぐ私の声を、公爵は微動だにせず聞き遂げる。驚嘆が一切浮かんでいない父の相貌には。散らばっていた情報の断片が本来あるべき場所へと収束していくのを冷徹に見届ける、裁定者の意志を強く感じさせた。
「……?」
その姿に、拭い切れない違和感が募る。もしかしなくともオルリック公爵は。私が行動を起こすよりもずっと以前から。マルケス侯爵家の不正を看破していたのではないだろうか。
全ての情報を掌握した上で。敢えて腐敗が極まり。最も鮮やかに刈り取れる瞬間を待ち構えていたのだとしたら。そんなのはもう物語の悪役にすら留まらない。黒幕の成せる御業でしかない。
(……うわぁぁぁ、なにそれめちゃくちゃカッコイイんだけど!? 流石は悪役令嬢のお父様ね! 王国の宰相閣下は格が違うッ!!)
「……随分と愉快な空想に耽っている様だが。私が掴んでいる札など、お前が持ち帰ったものと大差無いぞ」
「!?」
内心で歓喜の拳を振り上げていると。公爵は此方の思考を見透かすような悪戯な笑みを口元に浮かべ、傍らに置かれたワイングラスを指先で静かに絡め取る。
深いルビー色の液体が燭台の灯りを受けて、妖しく光り揺らめいていた。
社会人として。大人として。本音と建前は分けて考えるのが当たり前になっている私だけど。この人にとっては私の抱えるオタク的思想も、薄氷越しに覗く水底並に透けて見えているのかもしれない。なんとも恐ろしい観察眼である。
「……少し、気が急いていたようです。申し訳ありません」
冷や汗をそっと拭い、固く唇を引き結んだ私は。思考を一度白紙へ戻す為に、小さく咳払いをする。大事な会議の最中に妄想に耽って重要な話を聞き逃すなど、あってはならない事だから。
……でもお父様。敢えて一つだけ言わせて欲しいんですけど。その黒幕然とした顔はいけません。イケオジの悪い笑みはオタクを殺す立派な武器なので、出来れば前もってのアナウンスが欲しいです。私の心の平穏の為に。
「マルケスは傲慢で欲深い男だからな。何度も顔を突き合わせていれば、ある程度の察しは付く。
だが私は文官の長であり、奴は武官のトップ。扱う分野は完全な対極だ。明確な証拠が無い以上、他国との緊張状態が続く中で軍部に迂闊な口出しは出来ん」
公爵が吐露した窮状は、政治という盤上におけるもどかしい膠着状態そのものだった。いかに不実を確信し憎悪を募らせていようとも、『証拠』という名の剣がなければ振り下ろす事など許されない。
それが国の中枢を担う者達の、息が詰まる程の暗黙のルール。宰相という絶大な権力を持ってしても。いや、持っているからこそ。踏み越えられない一線もある。
権力者同士の牽制は。私が想像するよりもずっと繊細で。きっと断崖の縁を歩く程の、危うい均衡の上で成り立っているに違いない。
「……だからこそお父様は、ずっと静観を貫いておられたのですね。ドゥルカン帝国との不穏な情勢を前に、自国の守りを揺るがす火種を撒くわけにはいかないから」
「ああ、忌々しい事にな。だがお前達の持ち帰ったこの情報があれば話は別だ。これらは軍部の不可侵領域から外れた、弁解する余地の無い家門の不祥事。足場が崩れる時は得てして、こういう些細な綻びから始まる」
薄い唇に笑みを湛えたまま。無造作に置かれた『被害報告書』を、公爵は指先で軽く叩いてみせる。宰相としての怜悧な算盤を弾く音が、鋭い眼光の裏側で鳴り響いているのが見て取れた。
「恐喝については被害届がある以上、すぐにでも追及は可能だろう。だがその程度の瑕疵で崩れるほど、あの男の盤石は脆く無い。精々『監督不行き届き』という免罪符を盾に、痛くも無い腹を探らせる茶番で幕を引かれるのが関の山だ」
「……仰る通りです」
マルケス侯爵が張り巡らせた防衛網は、末恐ろしいまでに頑丈だ。現状の告発ではセシリアという『端石』を泥に沈めるだけで、肝心の侯爵夫妻は無傷のまま暗がりの奥へと逃げ仰せてしまう。それでは意味が無い。
私達が目指すのは剪定では無い。根刮ぎの排除なのだから。
(情報が不足しているのは紛れも無い事実だけど、この場で思考を停滞させるのは避けたいわ。お父様の意見を聞ける貴重な時間を、戦果報告だけで終わらせるのは勿体無いもの……)
口元に手を添えて、意識を研ぎ澄ます。脳裏へ鮮明に描き出されたのは。瞳の奥に隠し切れない疲労を湛えていた、愛すべき『推し』の姿だった。
「……お父様。もう一つ、どうしてもお伝えしておきたい事があります。これは証拠の無い、ただの私の『推測』に過ぎないのですが」
「構わん。言ってみなさい」
「ありがとうございます。マルケス侯爵家は、聖騎士団の最大の後援者です。物資の調達や輸送を一手に引き受け、国からの予算も、彼らの商会を経由しているのが現状であると聞き及んでおります。
ではもし仮に、彼らが私腹を肥やす為に、本来ならば聖騎士団へ送られるべき支援を意図的に削っているとしたら。お父様はどう思われますか?」
問いを投げ掛けた途端。室内の空気が急激に密度を増して、肌を刺す重圧へと変貌する。公爵の指先は石像の如く凝固し。グラスの中で奔放に揺らめいていた深紅の液体は、滑らかな鏡面のように静止した。
「昨夜お会いしたアークライト副団長様は、とてもお疲れのご様子でした。もしマルケス侯爵家が支援という名の首輪で騎士団の存続を人質に取り、彼らに理不尽な苦境を強いているのだとしたら。それは単なる不正では済まされない、国への反逆と同義ではないかと──」
ピシッ──。
言葉を全て言い終える前に。張り詰めた空気を断ち割る硬質な亀裂音が、私の意識を遮った。
「……っ…」
思わず息を呑み。恐る恐る音の鳴る方へ、視線を向けてみる。すると公爵の持つグラスの表面に、蜘蛛の巣状の細かな傷が這い回っているのが見えた。
「……国を守る剣を錆びさせ、聖女という国の宝を私物化し、あろう事か己の私欲と虚栄の為に食い物にするか。あの、愚物共が」
公爵の声は夜の湖畔を彷彿とさせる程に、不思議と穏やかだった。けれど緩く細められた瞳の奥には、一切の体温を排した絶対零度の殺意が瞬いており。それは激情を露にするよりも遥かに重い、『断罪』の宣告を孕んでいた。
……流石は私のお父様。怒り方まで最高にクールでいらっしゃる。
「失礼致します」
静寂の暇を縫うように。背後に控えていたジェームズが、影の如く滑り出る。彼は白手袋に包まれた掌で、亀裂の入った危険なグラスを恭しく、しかし速やかに回収すると。真新しいグラスを公爵の御前へと置き、深紅のワインを注ぎ直す。
一抹の雑音すら許さぬ無音の奉仕は。主人の怒りと思考を微塵も妨げない。至高の執事のみが到達し得る、精緻の境地であった。
……どうして公爵家の人達は、こんなにも立ち居振る舞いが優雅で美しいのだろうか。正直怖過ぎて直視出来ない。
「お前の推測は、極めて的を射ている可能性が高い。カッセルの報告にもあったのだ。マルケスの提出する軍事予算案の中に、使途が不明瞭な項目がいくつも紛れ込んでいるのだと。
だが奴らは『聖騎士団への緊急支援』だの『聖女様の警護費』だのと聖域を盾にして、詳細の開示を拒み続けている。カッセルが胃薬を手放せない最大の理由は、あの男が提出する出鱈目な数字と格闘しているからに他ならん」
微かに瞼を伏せた公爵は。吐息と共に激情を深淵へ沈めてから、再び揺るぎない為政者の相へと回帰する。
表面上は貴族的な静穏を保ってはいるけれど。恐らくオルリック公爵とマルケス侯爵は、互いに水面下で激しく牽制し合う犬猿の仲なのだろう。
イザベラの破滅の要因はセシリアの告発によるものだけど。それだけで親同士の関係がこんなにも壊滅的になるとは思えないので。きっと両家門の間には簡単には拭い去れない、積年の確執が横たわっているに違いない。
「……という事はつまり、お父様でも聖騎士団の内情を探るのは」
「いかに宰相の権限があろうと、外部から探りを入れるのは容易では無い。聖騎士団は王家直属の武力であると同時に、教会の影響下にもある特異な組織。故に証拠も無しに帳簿を直接改める事は、越権行為として激しい反発を招く。
特にマルケスが後援者として睨みを利かせている現状では、内部の人間も口を閉ざすだろうからな」
「……詰んでる」
正義へと至る軌跡は、決して平坦な一本道では無い。権力構造という底無しの迷宮が行く手を阻む現実を前に、己の無力を思い知らされつつも私は妙に納得してしまった。
カッセル伯爵夫人が敢えて『大罪人』の私を選び、庭の剪定を依頼した。その理由を。
(……うぅ、胃が痛い。これ失敗したら、物理的に首が飛ぶヤツじゃん。こんなのヒドイ、あんまりだ。私は推しと静かに暮らしてたいだけなのに!)
成功と失敗。それぞれが齎す結末には。比較する事すら躊躇われる程の。絶望的な乖離がある。悪役令嬢の抱える命の灯火はいつだって。書き手の気紛れで散る徒花のように、脆くて儚いのであった。
……理不尽だ。あまりにも理不尽過ぎる!
「だが、焦る必要は無い。金は必ず痕跡を残す。聖域の中に隠された数字を見る事は叶わなくとも、国庫からマルケスの商会へ支払われた金の流れと、実際に動いた物資の総量を外堀から照らし合わせる事は可能だからな」
「お父様……!」
胸奥で渦巻く微かな動揺を掬い上げるかのように。公爵の眼差しには娘を案じる親としての、深い慈しみが込められていた。
たとえ言葉として伝えなくとも、気付き支えてくれる人がいる。その事実に涙が出てしまいそうだった。
……イザベラさんや。もし私の声が届いても、返事はしなくて大丈夫です。貴女のお父様はとんでもなくスペックの高い、優しくて誠実な聖人君子でした。これはもう『推す』しか無い。
「まずは国庫の動きを徹底的に洗い直す。カッセルにも胃薬の追加と共に、極秘の指令を出すとしよう。
イザベラ、そしてジェームズ。よくやってくれた。カッセルの持つ監査の目と、お前達が持ち帰った戦果と仮説。これらを起点にすれば、反撃の狼煙を上げる事が出来る」
それは盤上を支配する至高の知略家が導き出した、最初の『結論』だった。外堀から確実に退路を断ち、逃げ場を失った敵の首を真綿で締めるが如く追い詰めていく。理性的で、非情で、そして最高に頼もしい、断頭台への布石。
「ありがとうございます、お父様。私も自分に出来る事を、引き続き探って参りますわ」
私とジェームズは視線を結び、公爵へ向けて深く、恭しく頭を垂れる。孤軍奮闘の時は過ぎ、今や一国の宰相が智略の全てを私の為に投じてくれる。これほど誇らしい事は無い。
「……さて。お堅い話は一旦、ここまでにしておこう。カッセル伯爵夫人の後ろ盾を得たのは見事だが、お前の今後の予定はどうなっている? しばらくは屋敷で大人しく……とは、いかないのだろう?」
その声音には。私を従順な小鳥として檻へと閉じ込めようとする、歪な執着は無くなっていた。代わりに浮かんでいたのは。危うい戦場へ踏み出してしまった娘の行く末を案ずる、剥き出しの父性だった──。




