第三話 (1)
公爵邸のダイニングルームには、いつにも増して静謐な空気が流れていた。
給仕達の下がった室内には。私と公爵、そして背後に控えるジェームズだけが残される。銀の燭台に灯る橙色の炎が張り詰めた糸を照らすように、重々しく揺らいでいた。
長いテーブルに並べられているのは。湯気を立てるコンソメスープ。彩り鮮やかな温野菜のテリーヌ。そしてメインディッシュの白身魚のポワレ。
本来ならば食欲をそそる芳醇な香りに、喉を鳴らすところなのだが。ナイフとフォークを手に取る資格など、今の私には無い。
膝に置かれているナプキンをテーブルへ戻した私は、意を決して椅子から立ち上がる。すると背後に控えていたジェームズが気配すら消した滑らかな所作で、そっと座席を引いてくれた。
「お父様。お食事の前に、どうしてもお伝えしなければならない事がございます」
呼び掛けに応じた公爵は。スープを口に運ぶ手を止めて、緩慢な動作で顔を持ち上げる。薄いレンズ越しに私を捉える翠の瞳は、凪いだ湖面のように静まり返っていた。
「……食事が口に合わなかったか?」
「いいえ。きっと、今日もとても美味しいと思います。ですが食べるよりも先に、まずは謝罪をさせて欲しいんです」
テーブルの脇へと移動し、背筋を伸ばして直立する。そして腰を直角に折り曲げる程の勢いと、社会人時代に培った最大級の謝罪の角度で。私は深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした、お父様」
「……………」
磨き上げられた床の木目が、視界の全てを占めている。言い訳はしない。まずは謝罪。事情の説明など後でも出来る。
それが社会人として。人として。過ちを犯した者が最初に為すべき手順だから。
「昨日、私はお父様のお言葉に背き、無断で屋敷を抜け出し、敵地である聖女派の夜会へ参加してしまいました。私の身を案じ、『心穏やかに過ごして欲しい』と願って下さったお父様の慈愛を、土足で踏み躙るような真似をしてしまいましたこと。弁解の余地もございません」
顔を上げる事は許されない。これは私が人としての、筋を通す為の儀式なのだ。かつて営業企画部の主任として、幾多のトラブルに見舞われた際。上司への報告・連絡・相談を怠った結果がどうなるのか、嫌というほど身に染みているから。
「私の軽率な行動が、お父様をどれほど心配させ、悲しませてしまったか。深く、反省しております。本当に、申し訳ございませんでした」
下げた頭を、更に低くする。昨日の行動には確かに私なりの理由があったし、正義もあった。けれど公爵との約束を破り。独断で危険な場所へ足を踏み入れた事実は。成果を並べ立てた所で消えはしない。
事後報告は最悪の手だ。普通の会社なら、始末書では済まないレベルの不祥事だ。でもこの場は会社では無く『家』であり、相手は上司である前に『父親』。
だからこそ、小手先の言い訳など通用しないのだ。
「………………」
永遠にも等しい沈黙が、室内の空気を凍らせる。程無くして耳に届いたのは。陶器の触れ合う硬質な音と。怒りよりもむしろ困惑に近い。頭を撫でるように降ってきた、重苦しい溜息だった。
「座りなさい、イザベラ」
「ですが、私は……」
「スープが冷めてしまう。料理長がお前の身体を気遣って作ったものを、無駄にするつもりか?」
「……っ」
許し、とは違うかもしれない。けれどそれは、『拒絶』では無かった。
恐る恐る、戸惑いながらも見上げた翠の双眸には。手に負えぬ娘への深い諦念と。無事を確かめた親としての慈愛が。複雑な地層のように重なり合っていた。
微かに下げられた眉尻と。柔らかく縁取られている瞼が。強張っていた私の背中を、そっと押し返してくれていた。
「……はい。いただきます、お父様」
忍ぶように腰を下ろし、温かな一匙を口に含む。喉を通る甘やかなポタージュは、張り詰めていた私の内側を柔らかな熱で満たしていった。
「ジェームズから聞いてはいたが。お前という娘は、一度決めたら梃子でも動かんのだな。あの子とは違う意味で、頑固になったものだ」
「……返す言葉もございません」
ワイングラスを揺らす規則的な動きとは裏腹に、公爵の口元には苦い自嘲が滲んでいた。銀縁眼鏡の奥で細められた瞳には。取り戻す事の出来ない過去の情景を、追い求めているようにも感じられた。
「お前が部屋の隅で震えているだけの無力な娘であったのなら、私はもっと楽に、ただ庇護するだけの、父親でいられただろうに。……全く、誰に似たのやら」
「……お父様に似たのかもしれませんわ」
「ああ、そうだな。その口が減らぬところは、あの子以上だ」
公爵はそっと眼鏡を外し。浅く息を吐き出しながら、眉間の皺を揉み解す。灯火の下で肩を落とすその姿は。手に負えぬ愛娘に翻弄される、不器用な父親の素顔だった。
「昨夜の件、責めはしない。お前が動かなければならなかった理由も、お前なりの『覚悟』も、ジェームズからの報告で概ね把握している」
「でしたら……」
「だがイザベラよ。お前は一つ、大きな勘違いをしている」
指先で定位置に眼鏡を戻すと。公爵の眼差しは一瞬にして、氷海のように研ぎ澄まされる。国を背負う者だけが持つ。退路を断つ静かな威圧感を前に、私は即座に姿勢を正した。
「お前は『敵地』へ潜入したつもりになっているのだろうが、元々あそこは敵地では無い」
「……どういう意味ですか?」
カッセル伯爵家は王家の遠縁にして、聖女派の勢力が集う中心地。公爵家と対立する者達がひしめくその場所は。私にとって、文字通りの死地でしか無い筈なのに。
困惑に染まる私の顔を、公爵は作為的な眼差しで捉えていた。銀縁眼鏡が切り取る翠の瞳は、いっそ愉しげに細められており。喉の奥からは押し殺したような、低い笑いが漏れ出ていた。
「カッセル伯爵は私の部下だ。正確には財務省における軍事費の『会計監査官』を務めている。地味で目立たん役職だが、数字の不正を見抜く目は国一番と言ってもいい。私が信頼を置いている、腹心の一人だ」
「ええっ!?」
軍事費の会計監査官。それは数字という名の凶器を手に、腐敗した貴族達を敵に回す『死神』の仕事だ。つまりカッセル伯爵は。国中で最も敵を作り易く、同時に最も替えの効かない。危うい天秤の上に立っている人物という事になる。
想定外過ぎる肩書きに、危うくスプーンを取り落とす所だった。聖女派の集まりを主催する家の当主が、公爵の部下だなんて思わない。
「あいつはな、とにかく気が小さいのだ。家庭内では元王族の夫人に頭が上がらず、登城すれば横暴なマルケスの不審な予算案に胃を焼かれ、私に報告を上げる際は『どうかお手柔らかに』と涙目で懇願してくる。常に胃薬を手放せず、青褪めた面で執務机に向かう。そんな男だ」
「……胃薬」
哀愁に満ちた部下の生き様を静かに語る公爵の面差しは、戦友の傷跡を憂うように柔らかい。
元王族の奥様と、宰相のオルリック公爵。そして軍部の巨頭であるマルケス侯爵。逃げ場の無い三権の狭間で、胃薬を片手に数字と戦うオジサマ。
想像しただけで、此方の胃まで痛くなってきそうだ。他人事とは思えない親近感が湧いてくる。
「だがそんな男だからこそ、私は信頼している。あいつは権力に靡かず、ただ実直に数字だけを見る。
聖女派の巣窟などと喧伝されてはいるが、当の本人は中立という言葉すら生ぬるい程の平和主義者だ。派閥争いに巻き込まれるのを、何よりも恐れている」
昨夜私に挨拶をしてくれた侍従達の、どこか気遣わしげなあの態度。優しげな伯爵邸の裏には。過酷な激務に耐える主人を支える者達故の、同病相憐れむ情愛があったのだ。物凄く納得出来る理由である。
「昨夜、お前が伯爵邸に足を踏み入れた直後。カッセルから1通目の早馬が届いた。『私の胃に穴が開く前に指示を下さい』とな」
「……そんなに」
「あいつの胃痛の種を増やしてしまったのは申し訳無いが、お陰で会場内での安全は保証されているも同然だった。今回私が黙認したのは、それが理由だ」
グラスの縁を傾けた公爵は、悪戯が成功した子供のように口元を綻ばせていた。そこには理不尽な重圧に耐え抜く腹心への深い同情と。長年荒波を共に渡ってきた男達だけが共有する、言葉を超えた信頼が滲んでいた。
つまり私は最初から、この人に守られていたという事になる。大人の世界の情報網は。私が思うよりもずっと早く。正確に機能しているらしい。
「……だからお父様は、私の行動を制限されなかったんですね。カッセル伯爵邸なら私の身に、危険が及ぶ事は無いと」
「あの夫人が目を光らせている限り、マルケスの娘ごとき赤子も同然だからな。それに今朝一番であいつは、私の執務室へ駆け込んで来た。顔面蒼白で、脂汗を垂らしながらな」
ポワレを無造作に食しながら、公爵は苦笑混じりの低声を漏らす。緩められた瞼の裏にはきっと、カッセル伯爵の狼狽する姿が思い返されているに違いない。
「詳細は知らぬが、昨夜のカッセル邸は随分と賑やかだったらしい。夫人は帰宅するや否や寝室に逃げ込んだ伯爵を捕縛し、お前の事を熱烈に語って聞かせたそうだ。しかも鼻歌を歌いながら、最高級のワインまで開けたと云う。……余程気に入られたようだな?」
「………………」
想像してしまった。寝間着姿で抗う術を失った伯爵が。歓喜に瞳を輝かせる夫人に詰め寄られ、ガクガクと震えている哀れな情景を。
口に含んだテリーヌの柔らかな甘みが。苦い後悔に苛まれている私の胃袋を、温かな慈しみで包み込んでくれる。……胃に優しいメニューをお願いしておいて、本当に良かった。
「夫人が乗り気である以上、伯爵に拒否権など存在しない。お前の結んだ同盟は、この私が保証する」
「お父様……」
「だからこそ、私はお前に問わねばならない」
食儀を中断した公爵は。規則正しく並べられたナイフとフォークを脇に退け、射抜くように視線を定める。向けられた翠の瞳に映るのは。未だ癒えぬ悔恨と。威厳という鎧の隙間から覗く、断絶の傷口。
「謝罪は済んだ。伯爵家の内情も話した。お前の掴んだ『戦果』がセシリア・マルケスに関わるものであるという事も、報告書には記されていた。
だが私は、お前があの娘と関わる事を、良しと思ってはいない」
「……っ…」
地を這う程の沈んだ声が、胸奥を圧迫する。呼気を吐き出す事さえ許されない峻烈な眼差しが、私の言葉を奪っていた。
「なぜ、マルケス侯爵家に関わった? あの家が、セシリアという娘が、かつてイザベラをどうしたか、お前は知っている筈だ」
ワイングラスの脚を握る公爵の指先に、容赦の無い力が込められる。凍て付く重い問い掛けが、場の空気を支配する。
血の気の失せた白い関節には。宰相としての冷静さを維持せんとする鋼の自制心と。それを食い破ろうとする父親としての苛烈な激情が。衝突しているようにも感じられた。
「イザベラが断罪されたあの日。私は王宮での公務に追われ、あの子の傍にいなかった。後から届いた報告書で、全てを知ったのだ。『公爵令嬢イザベラが、聖女への加害を認め、断罪された』と」
放たれた独白は、残響漂う空間に虚しく溶けていた。此方へ向けられる縋るような眼差しは。目の前の『私』を愛していると云うよりも。欠けた硝子細工を繋ぎ合わせる、祈りにも似た悲愴さを湛えているようだった。
「その断罪を主導したのが、セシリア・マルケスだ。あの子が信頼していた筈の友人が、あの子を地獄へ突き落とした」
脳裏に思い浮かぶのは、悪役令嬢の断罪劇。全ての罪を被せられ。絶望の中で叫ぶイザベラと。それを冷ややかに見下ろしている、セシリアの姿。
守るべき愛娘が。自らの手の届かぬ暗闇の底で。助けを呼ぶ術さえ奪われたまま、脆くも崩れ去っていく。無惨な現実を突き付けられた公爵の悔恨は、いかなる言葉を尽くしても測り知れない。
「お前は賢い。私などが口出しせずとも、上手く立ち回れるのかもしれない。だが相手は、あのマルケスだ。狡猾で、手段を選ばない古狸共だ。もしお前が策に溺れ、あの子と同じ末路を辿る事になったら……私は、今度こそ、耐えられんだろう…」
悲痛な響きを伴う声が。静寂に満ちていた室内の、重い空気を震わせる。信頼していた筈の穏やかな日常が、何の前触れもなく虚無へと変じる恐怖。
それこそが公爵の抱える、トラウマの正体だった。
「……お前には感謝している。この屋敷に来てくれたこと。私の娘として振る舞ってくれていること。
だからこそお前には、静かにしていて欲しかった。記憶を失った哀れな令嬢として、安全に生きていて欲しかった。私はもう二度とあんな報告書を、見たくは無いからな」
強く握られた白い拳が、震えながら額に沈み込む。祈るように組まれたその両手は。掌から零れ落ちた愛娘の温もりを必死に手繰り寄せようとする、傷付いた男の悲しい抵抗にしか思えなかった。
「…………」
瞼を閉じる。吐き出された言葉の数々が鉛のような質量を伴って、私の存在を根幹から押し潰そうとしている。
ここで私が引き下がれば。きっととても平穏な日々が。約束される事だろう。優しい父と有能な執事に守られた、健全で温かな鳥籠生活が送れる筈である。
でも。
(……やっぱりこの人も、ジェームズと『同じ』なのね……)
公爵のそれは、あまりにも切実な願いであると同時に。『私』という人間の意志を殺す、独善的な執着でしかなかった。
私が『私』である唯一を否定される事。それだけはやっぱり、誰であろうと許容出来ない。
椅子から立ち上がり、決然と床を蹴る。ただ庇護されるだけの存在でいる事は、今の私には許されない。だって私は『イザベラ』という高貴な皮を簒奪した、ただの偽物に過ぎないのだから。
「お父様。……いいえ、オルリック公爵様」
「……!」
敢えて形式的な呼称を選ぶと、公爵は弾かれたように顔を上げる。翠の瞳は驚愕に揺れ動き。組まれた両手はいっそ可哀想な程に、無防備に震え始めた。
私は迷い無く、彼の懐へと歩み寄る。芯まで凍て付く冷え切った拳を、己の体温で包み込む。
停滞を選び。動き出す勇気さえ失っているこの人に。生きた人間の確かな鼓動と熱を、もう一度感じて欲しいから。
「公爵様の仰る通り、私はイザベラ様ではありません。顔が似ているだけの、ただの『偽物』です」
『記憶喪失』という、公爵の用意してくれた都合の良い免罪符。それは私が過酷な社交界を生き残る為の隠れ蓑であると同時に、公爵の魂に深く刻まれた傷跡に蓋をするだけの薄っぺらい包帯に過ぎなかった。
「素性の知れぬ私を公爵様は受け入れ、娘として扱い、守って下さいました。貴方が私に費やして下さった慈悲の全ては、私の一生を掛けても返し切れないものです」
袋小路の真実を眼差しに込めて、公爵の瞳を真っ向から見据える。借り物の心臓が私の覚悟を受け入れ、一際大きく脈打ち始めていた。
「ですがただ守られているだけでは、公爵様のお心を、本当の意味で癒やす事など出来ません」
重ねた掌に力を込める。揺れ動く翠の瞳は、記憶の中の『イザベラ』を私に投影しようと足掻いていた。けれど私の伝える剥き出しの体温が、公爵を現実という戦場へ引き戻す。
「私は今、公爵様の目の前にいます。言葉を交わしています。私が持ち帰った情報をどう使うべきか、どうすれば勝てるのか。それを『相談』する為に、私は此処にいるのです」
かつてのイザベラには無くて、今の私に有るもの。それは孤独という矜持を捨ててでも他者を使い倒す図太さと。どんな泥濘に塗れても勝機を掴み取ろうとする、いっそ滑稽なまでの生存本能だ。
「私は公爵様を頼ります。ジェームズを頼ります。一人で抱え込み、勝手に自滅するような真似は、絶対に致しません」
「……イザ、ベラ」
偽りの無い明確な意志を、言葉に乗せて紡いで行く。たとえ血の繋がりは無くとも。魂で繋がった家族に成りたいと云う。私の本心からの決意表明。
公爵の大きな掌は。私の手を握り返そうと。微かに動いたように思えたけれど。ただただ痛切に、顔を歪ませるだけだった。
「貴方が私を守ろうとして下さるように、私も貴方を守りたい。貴方を縛り付ける過去の悪夢を、私の手で終わらせたい。理不尽に奪われた名誉を取り戻し、胸を張って、笑って頂きたい。
それが『偽物』の娘である私が公爵様に返せる、唯一の『愛』です」
私の宣誓が空気に溶けた後、室内には重厚な沈黙が降り積もる。交錯する翠の瞳に映し出されていたのは。右目の下に『泣きぼくろ』を湛える、偽りの悪役令嬢の姿だった。
「……そうか。お前は『相談』してくれるのか、私に」
「はい。何度でも。それこそ、しつこいくらいに」
「……ふっ、ククッ。そうか…それはまた、願ってもない事だな」
公爵は不甲斐無い自分を突き放すように。けれどどこか清冽に笑い。端正な貌から眼鏡を外す。
剥き出しになった目元を拭うその手付きからは、先程までの悲壮感は綺麗に消え失せており。代わりに春の陽光が差し込んでいるかのような、穏やかな静寂が満ちて行く。
「参ったな。……お前はあの子よりも、ずっと私を理解している」
小さく微笑んだ公爵は、軽やかに眼鏡を掛け直す。その無駄のない仕草には。魂を縛る鎖を自ら断ち切った者特有の。憑き物の落ちた晴れやかさが滲んでいた。
「認めよう。お前は私が思っている以上に、社交界という戦場に向いているのかもしれん」
「ありがとうございます、お父様。でも私の詰めが甘い事も、今回の件でよく分かりました」
「これから学べば良い。お前には私が厳選した、この上なく優秀な『家庭教師』がいるのだからな」
父の視線は私を通り過ぎ、背後で音も無く佇むジェームズを射抜く。ジェームズは深い礼節を以て恭しく一礼を捧げたが。やはりその顔はいつも通りの、無表情であった。
「恐れ入ります。ですがお嬢様の奔放な躍進は、私の想定を容易く踏み越えてゆかれますので。胃薬を必要とする犠牲者がカッセル伯爵様御一人で済みますよう、陰ながら精一杯の『軌道修正』に励む所存でございます」
「ああ、違いない。私も用意しておくとしよう」
「……………」
公爵と執事。立場の異なる二人の男が、奇妙な連帯感で頷き合っていた。その標的が自分である事に居心地の悪さを覚えた私は。赤らんだ頬を隠すべく、小さく咳払いをしてみせる。
全身を縛っていた緊張の糸が。雪解けのように緩んだのは。きっと気の所為では無いのだろう。
「今後は如何なる些細な事であろうと、動く前には必ず私を通せ。事後報告で心臓が止まるのは、公務だけで十分だ」
「はい、肝に銘じておきます。お父様」
静寂の中で膝を折り。深淵の底を見据えるように、私は深く頭を垂れる。後悔を贖う時間は終わりを迎え。此処から先は血縁を超えた新たな契約を結ぶ為の、取引の舞台が開幕する。
「……さて。食事をしながらで構わん。マルケス侯爵家について、もう少し詳しく話そう。
お前の持ち帰った『戦果』と、カッセルの掴んだ『数字』。これらを精緻に噛み合わせれば、奴らを破滅の淵へと突き落とす決定的な矢と成り得るやもしれん」
父の語り口は一瞬にして、国を動かす宰相としての厳格な響きへと切り替わる。私もまた公爵家の看板を背負う者として。甘えを許さぬ峻烈な意志を、この瞳に宿してみせる。
家族としての温かな食卓を囲みながら。私達は静かに。けれど確実に。腐敗した大樹を切り倒す為の、作戦会議を始めるのだった──。




