第ニ話 (4)
誰よりも信頼出来るパートナーとの絆を再確認し、進むべき道のりも定まった。これで心置き無く反撃の準備に取り掛かれる。と、意気込んではみたけれど。
「………………」
不意に重大な懸念事項が脳裏を過り、血の気が引いていくのを感じる。テーブルの上に広げられた証拠の数々を、私は重苦しい気持ちで見下ろしていた。
「あ、あのね、ジェームズ。ちょっと別件で…相談があるんだけど、聞いても良い…?」
「はい、何なりと」
額に掌を押し当てて、俯きながら思考を濁す。今私達の手元にあるのは、セシリア個人の暴走を抑え込む為の処方箋なんかじゃない。国の根幹を内側から揺るがしかねない、巨大な劇薬なのだ。
こんなのは一介の貴族令嬢と執事が抱え込んでいい問題の範疇を、とうに超えてしまっている。
「今回の……マルケス侯爵家の不正を、私達が暴こうとしている件について。流石にこれはお父様に、報告しなきゃダメ…だよね……?」
居心地の悪さを誤魔化すように、視線を泳がせながら問い掛ける。ジェームズの口から紡がれる答えなんて、わざわざ聞かなくても最初から分かっている。……いるんだけど。
どうにも少しだけ、躊躇してしまうのだ。だって私はつい数日前に、公爵から『危ない真似はしないで欲しい』と涙ながらに懇願されたばかりなのだ。
それなのに舌の根も乾かぬうちに敵の本拠地に乗り込んで、しかもこんな物騒な証拠まで持ち帰ってしまったのだ。この件を公爵に報告したら、今度こそ私は、屋敷に軟禁されてしまうかもしれないから。
「お嬢様の仰る通り、これはもはや一門の醜聞などという矮小な枠組みを逸脱しております。宰相である公爵様の判断に委ねるのが最善でしょう」
「うぅ……やっぱりそうよね。怒られるかなぁ……」
「むしろ悲鳴を上げるご自身の内臓を宥めるのに、必死でいらっしゃると思いますよ」
書類を鞄の闇へと仕舞い込みながら、ジェームズは淡々と言葉を紡いでいく。その端正な横顔には困惑を通り越した諦念と、隠し切れない溜息の残滓が混ざり合っているようだった。
「そもそもお嬢様がカッセル家の夜会へ参加されたこと自体、公爵様はとうにご存知でございます」
「ええっ!? う、嘘でしょ? 私、昨日は誰にも見付からないように、こっそりと」
「……ほう? 『こっそり』、ですか。聖騎士団の副団長殿と衆人環視の中で踊り、セシリア様と派手に舌戦を繰り広げ、会場中の注目を一身に集めておいて『こっそり』とは、随分と無理のある主張ですね?」
「うぐっ……!」
的確に急所を撃ち抜かれてしまい、張り詰めていた糸がふつりと切れる。私の身体は重力に従い、冷たい机上へ沈み込む。
昨夜は極力目立たないように、壁の花を決め込むつもりだった。でも蓋を開けて確認してみれば、主役級の立ち回りをしてしまった自覚しか無い。
それもこれも、全部セシリアが喧嘩を吹っ掛けてきたせいだ。絶対にあの女だけは許さない!
「お嬢様は、ご自身の影響力を甘く見過ぎです。リリエンタール公爵家の令嬢が動けば、その情報は瞬く間に王都中を駆け巡ります。昨晩の騒動が公爵様の耳に届いていないと考えるのは、あまりにも無謀な希望的観測です」
「……うぅ…、ごめんなさい、お父様……」
オルリック公爵は、グランヴェル王国の宰相。その情報網は私の想像を遥かに超えているだろうし。そもそも昨夜は公爵家の馬車を使って外出したのだから、主人に報告が上がっていないわけが無いのだ。
ムリ。ツラい。むしろ詰んでる。ジェームズの鳥籠を受け入れた方がマシだったかもしれない。こんなの完全に裏目だ!
私が机に顔を埋めて。現実から目を逸らしていると。ジェームズは少し呆れたような。それでいてどこか楽しげな響きで、吐息を漏らしていた。
「公爵様が昨晩の行動を黙認されていたのは、お嬢様の内に秘められた『覚悟』の真偽を見極めようとなさったからです。もしあの方が本気で制止に動けば、馬車の手配すら許されなかったでしょう」
「……それは…そうかも、しれないけど…」
「例え取り返しの付かない事後報告であったとしても。お嬢様ご自身の口から直接真実を語られる事を、公爵様は何よりも望んでおられる筈ですよ?」
ジェームズの鋭い指摘は。氷のように張り詰めていた私の心を。優しい熱で包んでくれた。凍て付いた思考が彼の想いに触れて、緩やかに溶け出していくのが分かった。
(……私の言葉、か……)
そっと瞼を閉じてみれば。記憶の扉は静かに開く。私を仕事のパートナーとして迎えてくれた時の。慈愛に満ちた公爵の顔が、鮮明に蘇る。
あの人は私の事を。本当の娘以上に、頼りにしてくれていた。一人の自立した人格として、対等に扱ってくれていた。あんなにも気高い信頼を受けておいて。逃避や隠蔽で応えるだなんて。それこそ、とんでもなく不誠実だ。
イザベラはきっと。公爵に何の相談も無いまま、破滅した筈である。今の私がイザベラと同じ道を選んだら。今度こそ公爵は、心を壊してしまうかもしれない。そんなのは絶対に、許されない事だから。
「……そうよね。私が今、何をしたいのか。何を思っているのか。それを何も伝えないままなのは、『お父様』が一番、悲しむ事だもの」
顔を上げ、決意を固める。私と公爵の間に、血の繋がりなんて無いけれど。それでもあの人は私の事を、確かに愛そうとしてくれたから。
私はもう逃げない。隠さない。あの人の『娘』として、生きると決めたから。
「ねぇジェームズ。今夜お父様と一緒に食事をしたいんだけど、調整出来そうかな?」
面と向かって話すのは、まだちょっとだけ怖い。でも逃げないと決めた以上、立ち止まってもいられない。時間は常に動いている。無駄になんて出来ない。
震える両手を握り締めながら。顔色を窺うように。そっとジェームズを見上げてみる。視線を向けたその先で。彼はただ静かに。微笑んでくれていた。
「賢明なご判断です。執務室で行う形式的な問答よりも、温かな食事を囲みながら紡がれる言葉の方が、公爵様の孤独なお心にも深く届く事でしょう」
「……ありがとう。あと胃に優しいメニューにして欲しいって、料理長にも伝えておいて」
「畏まりました。公爵様には私の方から、『娘からの謝罪の場を設けたい』と伝えておきましょうか?」
「それだけは絶対に言わないで! お願いだから!!」
口元に自嘲気味な笑みを浮かべながらも。私は父に捧げるべき弁明、ではなくて。所信表明演説の内容を、組み立て始めるのだった──。




