先輩蓮見健太郎 2
九時になりセミナー開始の合図があった。濃紺の細身のスーツに身を包んだ男が前に立った。
「立って、資料の①を音読したら」
周りの人達が一斉に立ち上がった。椅子の脚が床をする音がホール全体に響いている。
「座って二回目を読んでおきましょう」
男がそう言い終わるか終らないかのうちに会場一五〇名が読み始める。大介は遅れて立ち上がった。大人が一五〇人で音読するとかなりの迫力だった。五行程度の短文なので、すぐに座って読む人と立って読んでいる人に分かれる。大介は慌てて読み終えて座って読み始めた。
「そこまで! 次は隣の人と一文ずつ交代で読みます。はい、始め!」
「そこまでにしましょう」
聞き覚えのある声だったが、大介はすぐにはそれが誰の声であることが分からなかった。
長身で軽くカールした白髪交じりのメガネ。低音でよく通る声。
「髙橋先生!」
大介は驚いた眼で、隣の蓮見を見る。座高の関係で少し見上げる感じになった。
「知らなかったのか? 何にも知らねえな」
ぼそっと、捨てるように言われた。
「入りはいいでしょう。音読の指示もいいです。子どもに隙を与えないでタイミングよく指示を示す。音読の速い子も遅い子もそれぞれ自分のペースで読んでいける。加えて不必要な待ちの時間がない。空白の時間を与えてはいけません。そこからクラスが荒れ始めます」
一五〇人の教師たちがそれぞれ思い思いの反応をしている。ノートにメモを取るもの、頷くもの、髙橋を直視するもの。
「でもおしかったのは、二人で音読するところの指示です。どこがまずかったか、皆さんお隣の方と話し合ってください」
一気に緊張が解けざわざわと話し始める教師たち。
「お前、分かるか?」
「さっぱり」
「立って読むのか、座って読むのかの指示がなかった。だからたって読み始めた人が若干いただろ。見えなかったか?」
「それは見えました。ぼくも腰を浮かしかけましたから」
「はい、そこまでにしましょう。では聞いてみます。まずかったのはどこだと思います?」
髙橋は中央の通路を歩き、前から五列目の女性にマイクを向ける。
「速すぎたと思います」
「何がですか? 展開が? ペースが? 話し方が?」
「・・・・・・全体的に」
震えた声で女性は答えた。
「速さは調度良かったです。展開も、ペースも、話し方も、ゆっくりすれば分かるというものでもありません。逆に上手な人の速いペースを快く感じます。速く感じても分かりやすい。余計なことを考えなくてすむので逆に子どもは落ち着きます」
髙橋はさらに続ける。淡々とそしてにこやかに。
「人間には普遍的な型があります。黄金率とも呼ばれる。美の黄金率は7:3です。絵画にせよ建築にせよ、古今東西の名作といわれるものには、その比率が使われています。私たちがすすめているリズムは116。成功を収めたスポーツ選手、天才と呼ばれる発明家のスピーチなど、116だそうです。私の話すスピードを計った人がいて分かりましたが、私も一一六だそうです。メトロノームで皆さんご自分のペースを一一六に合わせてみてください。思った以上に速いはずです」
皆、ノートにメモをした。116。大介も周りに遅れまじと初めて今日ノートに書いた。
「二人での音読の前に立ったままか座ったままかの指示がないと、子どもは最初の音読の通り立つのか、それとも座って向き合うのか、迷います。軽度発達障害をもつ子どもは、そこでパニックを起こします。作業の前には短く適切な速さで的確な指示を出す。それが発達障害をもつ子も集中して落ち着いて学習に参加できるために必要なんです。続けてください」
慌てて男が途中から続けた。その後、髙橋は一度も口を挟まず、その男の与えられた七分間の模擬授業は終った。
その後も、髙橋は何人もの教師がする授業を解説し、良い点、悪い点を指摘し、時には途中で介入し代わりに授業をしてみせた。午前中の三時間。二回の休憩を挟んだものの、一時も緊張の糸が切れず、大介は覚醒した意識と脳を感じた。昼食の時間になった頃には、疲労しきっており久々に感じる空腹感を愉しんでいた。
午後は髙橋に代わり、女性のベテラン教師が講師役となり公開模擬授業が行われた。セミナーが終ったのは一七時だった。
東京駅の駅ビルで服を買うか蓮見に付き合って。東京など滅多に来ない大介は久々に訪れた首都の佇まいを感じるような気がして落ち着かない心持ちで各階を闊歩する蓮見の後を着いて歩いた。
「何を考えて歩いている?」
「え? なんにも考えてません」
「もったいない。センスをみがけ」
「なんのセンスですか!」
挑発的な蓮見の言い方に、大介は半ば呆れて、また半ば腹を立てて聞いた。
「自分にあった服を売っていそうな店を瞬時に見抜く」
「そんな、どんな気持ちで店を廻ろうが自由じゃないですか」
「俺ははじめて来た店でも、入って二秒で自分のアンテナにひっかかりそうな服を置いてる店かどうか分かる」
「どうでもいいです、そんなの。ほんとに」
そういう大介を尻目に、蓮見は紳士服の店に入っていった。ほとんど迷う風もなく、ジャケットを手にして腕を通した。
「どうだ? これ」
「いいんじゃないですか」
投げやりに答えた大介をまたも尻目に、店員を呼び何やら話している。どうやら商品にクレームを付けているようだ。
ワックスで不自然な形に髪を整えている若い店員は眉尻を下げている。少しすると店の奥に消え、代わりに店長らしき男が蓮見の話を聞きに出てきた。しばしの交渉の後、袖の糸が少しほつれているという理由で一〇%オフで黒いジャケットを手に入れた。
「髙橋先生ってなにものなんすか?」
「天才だな。天才教師であり、同時に人を組織し大きな動きを作ることにおいても天才だ」
「本も書いているんですよね」
「本書いている教師なんて五万といるよ。でもあの人は格が違う。今日の集まり見ただろ。高橋さんの後から出てきた講師役は全員髙橋さんの弟子みたいなもんだ」
「やばいっすね」
「髙橋さんは五年目くらいから自分が所属していた教え方サークルの代表になって自分のすすめる教え方を組織的に広め始めたんだ。そして四〇歳で、全国に百以上の高橋さん傘下のサークルがある。今はネットでもそれを広げてるよ」
「学校ではそんなに存在感ないですけどね」
髙橋は職員室にいることは少ないし、教員同士でもあまり話題に上ることはない。
「スケールが違いすぎて分からないんだよ。それにうちの校内研究ともそりが合わない。授業には全国的にいくつかの流れがあって、うちの学校は教師が子どもに教えるという構図を崩そうという流れをもつグループの末端で、子どもたちの“学びあい”を重視するだろ。で、髙橋さんはそれを批判しているんだよ、雑誌であからさまに“学びあい”を咎めている」
「ぜんぜん知らなかったっす」
「だから管理職は、要職に髙橋さんを就けない。もちろん髙橋さんはそんなことなんの気にも留めてないだろうけどな」
蓮見は空いている電車の座席に腰を下ろすと、すぐに寝息を立てて寝始めた。
そんな蓮見を横目に大介は柚絵に今から帰るとメールを送った。
つづく




