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麒麟の森  作者: 冨永 真一
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職員室を飛び出す

 休み時間こそ、やんちゃ坊主たちと遊ぶことで一分の子達とは関係が築けてきた。しかし、どうも授業がうまくいかないのである。算数はとくにひどかった。四年生の算数では、割り算の筆算を習う。大人になってしまっては簡単に感じられる商を「たてる」→「かける」→「ひく」→「下ろす」などというフレーズを繰り返すアルゴリズムを正しく繰り返せないと答えは出せないのだ。大介のクラスの半分以上の子が、その習得ができなかった。


できないだけならまだよい、しかしできない子供達の言動が荒れていくのが大介を困らせた。授業中に消しゴムを投げる子、紙くずに鉛筆で友達に手紙に書いて、授業中に回す子、尿意を訴えてトイレに出て行っても、何十分も教室に戻ってこない子。算数のみならず、他の教科の授業も似たようなものだった。理科の実験では火を使う。マッチ棒で遊ぶ子がいたり、アルコールランプのアルコールを机の上にこぼす子がいた。どれをとっても大きな事故に繫がらなかったから良かったものの、大介は精神的に疲弊していった。いくら髙橋の授業を見せてもらっても、即自分の授業が改善されるわけではなかった。大介に悪態をつく子どもも徐々に増え、子ども達同士の喧嘩やトラブルも後を絶たなくなった。放課後は保護者への謝罪や弁解の電話に時間を費やすようになっていた。


 管理職からは、学級経営改善計画書の提出を急がされていた。それは学級崩壊を招いた担任が善後策を考えて書くものだった。無論、書き方など分からない。そもそも原因の分からない問題を解決したり、事態を改善させたりするなど魔法使いにしかできない仕業だろうと大介は馬鹿馬鹿しくなっている。いや、魔法使いだって無理だ。計画書の提出と同時に、管理職は寮休取得をほのめかしてきている。また栗原をはじめ同学年の教師達からは相変わらず冷遇を受けている。何か聞いても素っ気ない応対が返ってくるだけ。時折事務的な会話こそあれ、大介だけは楽しそうな話題で盛り上がっている会話には入れない。彼らの一挙手一投足が早く辞めろと言っている。


大介のどこかに、引くのは負けを意味するという思いがある。寮休は負けだ。という意地である。かと言って、打開策など今の自分のどこを探ってもあるはずはない。四十人近い小学生の子供達をどうやって静かに座らせて一斉授業をしていいのか分からない。もうどんなことをしても無駄だろうというところまできている気がする。自分はほとんど諦めている。しかしまだ諦めの境地には行っていない? どうして自分は辞めないのか。自分に問うてみても、その疑問に自分自身が揺れている。これまで持っていたプライドなどとっくに捨てている。いや子供達に剥ぎ取られるように奪われた。今までのプライドなど、実体のない空想から上がった湯気のようなものだったのだ。蜃気楼のように本当にはそこに存在しない幻。そんな幻は、岩のように硬く氷のように冷たい現実に、易々と霧散した。もはや自分にプライドがあったことなど大介は覚えていない。


「教育」「愛」「優しさ」など、教育の現場に溢れていると思ってきたものは、自分の居場所には少しも感じることができないし、今後もその欠片すら見出すことはできないかもしれない。自分が甘かったのか、この現場が辛すぎるのか、その両方なのか。どちらにせよ、この事態を収束させるには、今の自分では無理だ。自分の本音を探れば、明日にでも寮休を申し出て楽になりたかった。理想と現実では、現実のほうが圧倒的に頑丈だ。理想だけではびくとも動かない。今は大介の本音とプライドが綱引きをしている。


「はーあ」


職員室には、教頭がパソコンを大袈裟な音を出しながら仕事をしている。わざと意識を引くような溜息が聞こえた。

彼女はいったい何時まで仕事をするんだ。先週の土日も彼女は職員室で仕事をしていた。つくづく教師という仕事は報われない仕事だという気がしてくる。現場にいる時は、子供達に奉仕し、何をやっても保護者からは批判の矢を浴び、昇進して管理職になれば給料を下げられて、深夜残業に休日出勤。他の公務員と違って教員には残業代は出ない。


「津村さん、まだ帰らないの?」


「あ、はい」


「電気がもったいないから、まだ仕事するなら、こっちに来て。そっちの半分電気消しちゃってよ。市から節電をうるさく言われてるのよ」


 大介はスイッチを押した。ぱちりとスイッチが音を立てて辺りが暗くなった。

前方の四分の一を残して、職員室が暗くなった。大介は暗闇に包まれた途端、柚絵のことが頭に浮かんだ。教頭が席を立って廊下に出て行った。しんと空気が職員室に漂う。昼間の喧騒が嘘のように。

以前なら柚絵のことは脳裏にべとりと張り付くようにして、意識のどこかにあった。ここへ来てからは、彼女のことを考えることは徐々に少なくなくなってきて、そして消えた。職場にいる時は、それどころでなない、と言ったら彼女は何と言うだろうか。あんたにとってわたしはその程度の存在なのか、いつもの調子で責め立てるだろうか。


しかし、闘い方を知らず、猛獣たちが跋扈する無法地帯に送り込まれた自分は、防衛本能を頼りに自分を守りながら一日を過ごすことで精一杯なのだ。傷付くところがもう残っていないくらい自分は頭の先から足の先まで傷だらけだ。傷が治癒する前にそこに牙を立てられ、爪で引っかかれる。


デスクが並んだ暗闇に柚絵の姿を浮かべてみた。彼女は暗闇に生きているのだと改めて思う。

彼女の世界はどれほどが闇に支配されているのだろう。この部屋より多くを光のない空間に覆われているのかもしれない。今の彼女に唯一の光があるとすれば、それは自分だ。いや自分の存在など光と彼女は呼ばないかもしれない。しかし、自分にも光のある方向を指し示すことくらいはできるはずだ。かりにそれができなくても、微かに温もりのある肌で触れてやることくらいはできるはずなんだ。

柚絵との生活に馴染むために着いた教職。この仕事は柚絵のためにも手放すわけにはいかない。次の職をあたるにしても、こんなに早く辞めたら彼女の希望を奪うことになる。


「津村さんさ」


いつの間にかデスクに戻っていた教頭からいつになく温かみのある声色で声がかかった。誰もいない職員室では隅から隅まで、声を張らなくてもしっかり声が通る。

「はい」


 大介は、教頭のほうを向きなおす。


「あなた、無理だと思ったらいいのよ。これ以上無理しないで」


足の裏が床に固定されたように、全身が重くなった。

「この仕事、向き不向きあるから」


蛍光灯の白い光に照らされた教頭の姿が眩しく滲む。だから表情は窺えない。


「ち、きしょう」

堪えていたものが堰を破り、激しい濁流となって体を流れ出した。その濁流に自分が流されてしまいそうな恐怖を覚え、大介は教頭に背を向けて、そこにあったデスクを拳で思い切り何度か叩いた。振動で、立て掛けてあった書類が散らばる。


「ちくしょー、ちくしょー」

「ちくしょう。どいつもこいつも!」


気がつくと大介は学校の正門の前にいた。門を止めてあるチェーンを剥ぎ取って後ろに放り投げた。ガラガラと音を立ててそれは開いた。飛び出した大介にクラクションがけたたましく鳴る。走っていた。


 言葉にならない言葉を吐き出して走る。その言葉は奇声になって、夜の空に跳び散らかされている。


俺は悪くない。

誰が悪い?


恐ろしく憎たらしい子供達の顔が浮かぶ。柚絵の顔が夜空に浮かぶ。大介は首を振った。

首筋がぬるい涙で濡れている。風があたって冷える。遠くに見える青信号がキラキラときれいに見える。深夜徘徊した柚絵を追いかけた夜を思い出す。いつからか始まった柚絵の深夜徘徊は不定期だがいまだ繰り返されている。柚絵も涙で滲んだこんな景色を見ているのか。大介はくるりと歩みの向きを変えた。


しばらくして戻った校門は鍵が閉められていた。校舎の時計を見上げると十二時半を過ぎていた。門を乗り越えて、大介は職員玄関を入った。自分のデスクに戻り引き出しから付箋を取り出した。


―お願いしたいことがあります。今日の放課後お時間を頂けますでしょうか。

大介はそう書いた付箋をある教師の机の上に貼った。


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