大介と柚絵
「ねえ、最近わたしのこと嫌いになったの?」
柚絵はいつになく力を感じさせる目つきで大介に語りかけてきた。何かが彼女の中で燃えているように見えるときがある。ただし、目に力があっても、心身の調子がいいとは限らない。
「いや、なんで?」
自分でも力のない声だと思う。が、今は柚絵に答えるのが精一杯で声の調子まで気を回せない。
「いっしょにいても全然はなしてくれないじゃない」
「疲れてるんだ」
「そんなの分かってる」
「それどころじゃないんだよ」
「学校はどうなの? 教師になるのが夢だったんでしょ?」
柚絵にそんなこと話した覚えはなかった。もしかすると、柚絵を喜ばせるために軽口を叩いたのかもしれない。
「え?」
「学校の子供達のことを話してよ」
修羅場と化した職場でのことをきれいな飾りを施して、柚絵を満足させることのできる美談に作り変えて話して聞かせる余力など残っているはずもなかった。
「大変だよ。楽しいけどね」
「その大変で楽しいことを話して欲しいの。夢が叶ったんだから」
柚絵の嘆願を拒むように、くたくたになった体を横に向け、網戸から入ってくる生ぬるい風に顔を晒した。窓には赤信号の色が反射して部屋の壁が真っ赤に染まっている。排気ガスの臭いに気分が悪くなりそうだ。
「窓閉めて、エアコンつけよう」
大介は立ち上がって窓を閉めて、カーテンを閉めた。エアコンのリモコンを探しに布団に戻るまで、横座りして蝋人形のように固まった柚絵の視線が自分に向けられているのに気がつかなかった。眼球も不自然に見開かれ、瞬きもしない。視線も固まっている。嘆願に背を向けた大介の行為が彼女を追い詰めてしまったのだろうか。
もはや尋常ではない、そんなことには気付いていた。刻々と進む柚絵の症状の悪化を、手招きして放置してきたわけではなかった。
「あんたもわたしのこと嫌いになったのよ!」
「違うって」
慌てて、柚絵の元に歩み寄って顔を近づけ、大介は柚絵を労わるように精一杯優しく言った。
どうやって柚絵を宥めていいのか分からなかった。以前なら、彼女の症状の変化を食い止める様々な方法が、浮かんだ。言葉で慰めてみたり、気分転換に買い物に出かけたり、一緒に料理を作ったりしたこともあった。柚絵のペースに飲まれずに、適切な距離感を保って自分のペースに持ち込むことが肝心だった。柚絵は惑い苦しんでいる。怒りや悲しみをぶちまけている時の柚絵は、舵を失って荒波を漂う船のようだった。自分をどの方向に進めていいのか分からない。ただ我武者羅に助けを叫ぶだけだ。そんな船に大介は乗ってはならないと分かっていた。だから、柚絵が矢継ぎ早に放ってくる言葉を巧みにかわしながら、自分の言葉で彼女の荒くれた波を沈め、心に一時の安寧をもたらさなければならない。これもまた大介にとっては闘いに他ならなかった。
「最近の大介は、家に帰ってきたら部屋に篭るし、お風呂から出たらすぐに寝ちゃうじゃない!」
時々奇声のような吐息を交えながら、しかしいつもより滑らかに大介を責める。
「だから、仕事が大変なんだ。今の子は昔のこと違うんだ」
上手く今の彼女を宥められるような言葉が、見つからなかった。
「わたしはどうすればいいの?」
「どうすればって! おれだって精一杯やってるんだ! どうしてそれを分かってくれないんだ!」
「分かるわけないじゃない! わたしのこと愛してるって、いつも示してよ!」
柚絵は両目から涙を流している。流しながらも拭いもせず、その二つの目は大介を離すものかと掴んで離そうとはしない。重罪を犯した犯罪人に有罪を告げる裁判官のような揺るがない意志を感じた。彼女の良心に触れるような行いがあったというが如き剣幕であった。
「赤ちゃんをつくろうよ」
「・・・・・・」
「ね! お願い」
「大介とわたしの揺るがない愛の印じゃない!」
こんな悲壮感を感じたまま、そんなことをして何が得られるというのだ。大介は思う。しかし、そんな質問に柚絵が答えられるはずもない。彼女は、追い立ててくる何かから逃げ惑うように、暗闇をさ迷っているのだ。自分の要求が、正しいか否かなどの判断はつかない。羅針盤を失って沈没の恐怖に慄く難破船なのだ。
「わかったよ! 柚絵がそれでおれの愛を信じてくれるんなら易いもんだ」
大介は嫌な予感があった。ここのところしばらく柚絵と寝ていなかった。そんな気すら湧かないほどに、芯から疲れていた。柚絵を見ても欲情しない自分を認めていた。
にわかに大介の胸に入道雲のように焦りが立ち込めた。
柚絵の唇をわざと乱暴に吸う。自分の下腹部に神経を集中する。更に荒々しく下着を剥ぎ取って胸をまさぐる。柚絵は目を閉じている。頬には涙に引かれた線がはっきりと残っている。柚絵の顔が信号の光を受けて、緑から黄色、すぐに赤に染まる。まだ大介の下腹部は反応しない。豊潤だったはずの柚絵の胸は貧しく肉が落ち、自分の掌に簡単に収まってしまうことに大介は驚いた。きっと食事も喉が通らない日もあるのだろう。痩せた喉元を見ると、喉仏が浮かび上がっている。柚絵の変化に、目を背けてきた自分を悔やむ。乱暴な愛撫にでも柚絵の体は反応し、乳首を舌先で転がすたびに、体を反らせて応えている。
大介の携帯電話の着信音が鳴る。着信の時に発光する光が壁を青くした。
大介は、柚絵の陰部に顔を埋めた。久しぶりに吸い込む柚絵の匂いだった。大介は、愛撫し続けた。
携帯がまた鳴った。信号が何度も変わった。その度に、小さな暗い部屋が赤や緑や黄色、そして青い光に照らされた。
「もう、いいよ」
柚絵が何をいいと言っているのか、大介は分からず一瞬たじろいだ。もう行為を終わらせろということか。米神から汗が落ちた。
「もういいから、はやく」
柚絵の高調した声が小さく漏れた。大介は狼狽した。いまだに大介の性器は屹立するどころか、ほとんど反応すらしていなかった。
柚絵の苛立つ様子が感じられる。
大介に柚絵は不能を意味する言葉を放った。何という言葉だったか大介には聞き取れなかった。
部屋を出て行った柚絵を追いかけていく考えはなかった。追いかけて呼び止めて、それでどうする? 荒れ狂った海の波間に、小さな船が見えなくなった。
つづく




