《ゆづ、異界に立つ》7/20 ゆづ、皇女を泣かす
三人寄ってたかっていじめなんて、お前ら最低だ!─────『無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜』
パーティー会場を背にしてしばらく走っても、車内は重い空気に満たされたままだった。
目の細かい石畳の道をゴリゴリゴリ、とタイヤが踏みしめる心地の良い振動音だけが車内に響いている。
「(…………)」「(…………)」「(…………)」「(…………)」
振り返ってガラス越しに見るパーティー会場は、やっと西洋風の城としての像を結び始めていた。
遠目に見ると高層マンション並みに高いいくつかの棟が寄り集まって一つの城を構成している作りがよく分かる。
「(…………)」「(…………)」「(………もう、)」「(二度と行くこともないんだろうな………)」
と思うと少し名残惜しいものがあった。
夢の中でたまたま素敵な場所・印象的な場所に行けてどれだけそこにもう一度行きたいと願っても、その後見る夢でそれが実現することはまずない。
どんなに望もうともあの城にもこの世界にももう二度と戻って来られないのは確実で、やっぱりそれは少し悲しいことだった。
「(…………)」「(…………)」「(…………)」「(…………)」
場所以上に、夢で会えた素敵な人にもその後の夢で再会出来たためしはない。
つまり、
私はこのお三方にももう二度と会えない。
親しげに私にゆづ、と呼びかけまるで四人目のさんかしこかのように扱って下さる、
現実世界とはあまりにかけ離れたこのお三方に。
「(…………)」「(…………)」「(…………)」「(…………)」
それはどう考えても、あまりにも悲しいことだった。
正直、そこだけにフォーカスして考えると現実世界には全く戻りたくなかった。
特に、
ジル様が得難い。
あんなに私に夢中で、ゼロ距離で、エッチで、攻撃的で、支配的なジル様は………
「(…………)」「(…………)」「(…………)」「(…………)」
支配欲に狂ったようなお姿もこの短い時間で何度かお見掛けしたけど
あれだって正直嬉しい限りだった。
だって、
その狂っている理由がわたくしへの執着心から
なんですもの。
驚いてる風を装って抵抗して見せはすれど、
内心ではどうしたって唇を舐めてしまう。
「…………」「…………」「…………」「………はぁ、」
「…………」「…………」「…………」「………ウッウン、」
何とか今一度この夢に戻って来て、このお三方ともう一度再会したい。
それが無理でも
このジル様とベッドインする流れだけは何に代えても作りたい。
…………………何とか、
何とか今からでもジル様とそういうことをする流れにシナリオを持って行けないものか………
「…………しかし、」「あれだな。」
「…………」「………うん?」
「年々、創国祭もショボくなってくな」
「………あそう?」
「展示とか、明らかに貧相だった」
「………うん?」
「金も明らかにかかってなくて、スケールダウンしてたし………」
「うん………」「まあね?」
「食い物がマジ」
「…………」「…………」「うん?」
「食い物がマジショボくなってた」
「あそう?シキちゃん」
「うん………」「無かった、あれ」「生ハム」「メロンが………」
「あー………」
「それは分かんないけど、新鮮で手がかかるような料理、根こそぎ無くなってたよな」
「うん………」「正直あれだけが、一番の楽しみやった………」
「生ハムメロン?」
「うん………」
「…………」「………ゆぢゅー?」
「?」「はい、」
「ゆぢゅは、何してたのー?」「みんなでバラけて、行動してた時………」
「…………」「…………」「あー、」
「…………」「…………」「…………」「…………」
どうやらさっきのあのパーティーは〝創国祭〟という名の催し事だったようで、お三方と合流する前のそこでの私の行動内容をジル様はお尋ねになっているようだった。
「えっと………」「…………」「あの、」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………えー、」「…………」「と、…………」「ですね、笑」
「…………」「…………」「…………」「…………」
空気感で分かった。浮気を疑っていてその鎌かけに来ていることが。
他のお二方は純粋に私の行動内容が聞きたくて黙っているようだけど、
この方だけは(この方の中ではほぼ確定している)浮気に対して私がどう言い訳するかだけに注目している。
「…………」「………あ、」「あの」「…………」
「…………」「………うん?」
「………あ、」「あれで、」「あの………」「…………」
「…………」「………うん?」
「あれで、ショボく、なってるん」「ですっ、」「ね?」「あの、お祭り………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「わ、わたくしほんと最初見た時、」「あの」「びびっくりしちゃったから、あんな」「大規模な」
「…………」「ゆづ?」
「パーティー?初めて、で」
「ゆづ。」
「………あっ、」「はい」
「…………」「…………」「私達と、合流する前は」「何を」「していたの?」
「あああの、」「はい、」「はいそうでした」「へへ、」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
私は、別にやましいことは何もしていない。
していないのは確かだけど、その事実をどう説明しても
このジル様には通用しない気がした。
何を言っても全部悪い方に受け取られ、最悪の結果しか招かないような、そんな気が………
「…………」「…………」「………あの、」「…………」
「…………」「…………」「………うん?」
「シ、シキさん」
「…………」「えっ?」「うん、」
「な、」「生ハムメロンっていうのは」「一体どういう………」
「…………あー」「あれはな?普通とはちょっと違うオレンジの色味の上等なメロンに、」
「ゆづ?」
「は、」「はいっ、」
私は右の後部座席に座っていて、ジル様はその前の助手席に座っているので
顔が見えない。
ミラー越しに顔色を窺うことも、角度的に出来ない。
背筋のしゃんと伸びた綺麗な背中だけをこちらに向けた上での落ち着いた態度で行われる詰問は、
それ自体が精神を激しく責め立てる拷問だった。
「ダメだぞー、ゆづ」「一番ダメな逃げ方だそれは」
「そうだそうだー」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「………うん。」「だって?」「ゆづ………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「ゆづ?」
「はい………」
「…………」「もう一回、聞きたい?」「質問………」
「…………」「いえ………」
私が覚えてることは一つしかなかったし、それは本当に、別にやましいことでも何でもなかった。
でも、
この方がさっきそれを偶発的に口に出して当ててしまっていたことで、言うのが憚られてならなかった。
もう、
正直分かっていた。
これを口に出した途端話が悪い方向に転がっていくのは。
「………あの、」「…………」
「…………」「………うん?」
「トイレに、」「行って」「いました………」
「…………」「………トイレに?」
「あの、」「はい。」「シンプルに、それだけ、と」「言うか………」
「…………」「………三時間も?」
「…………」「………えっ?」
「三時間も、」「トイレに籠ってたの?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「それも、」「一人で?」
………………やっぱり。
どうしてもそういう方向に持って行きたいんだ。
「いえ、あの」「最初にまず行った後に、色々」「会場を、見て、回って………」
「…………」「ふぅん………?」
「どこのトイレ?あたしも一回行ったけど」
「え、」「………えーと、」「あの」「ソラさんの絵画が、かけてあった所の」
「うん?」
「奥の奥、の」「バックヤードみたいな所、と」「言うか………」
「あー。あれだ?」「ちゃんと〝王家側の人間は裏のトイレを使え〟って決まり、守ってたんだ?」
「………えっ?」
「何かあったん?そんな決まり」
「うん。一応お触れがあったよ、事前に。あの」「一般の方が会場のトイレをつつがなく使えるように、って」
「へぇー………」
「まああたしは、」「普通に会場の使ったけど………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「………なんやほんなら」「何も悪いことしてへんやん、ゆづは」
「…………」「………だなぁ?」「寧ろなんか、王家側のルールなんかもちゃんと守って、」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「みたいだけど、」「どうですか?皇女」
「…………」「…………」「…………」「…………」
その通り、わたくしは何もやましいことなどしていない。
ただ、
ただ先刻この方が〝トイレで何かしてたんならガチで殺す〟みたいなことを仰ったから
〝トイレ〟のワードを発することを躊躇してしまっていただけで………
「…………」「………うちは、」「信じとったで………?」
と言ってシキさんが、おもむろに私の左手をとった。
「…………」「………えっ?」
「お前はええ子やもん。」「うちの皇女を傷つけるようなこと」「するわけ、」「ないもんな………」
と言いながら手の甲をさらさらと撫でる。
「…………」「………シキさん、」
「これからも身を粉にして、働いてくれ」「あたしの、皇室のために………」
「…………」「………シ」「シキ、さん………」
「…………」「お前の皇室では、」「絶対にない」
とアニカさんが言うのに合わせて、
シキさんは身を屈めて私の手の、今まで撫でていた部分に大口を開けてがぶり、と嚙みついた。
「!!!」「痛ったい!!!」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「え………」「い、」「痛い、」「シキさん………」
「…………」「…………」「…………」「………ジュルリ、」
「…………」「………えぇ?」「何………?」
まばらな街灯を頼りに噛まれた部分に顔を近づけて確認してみると血は出ていなかったし、どうやら痣にもなっていないようだった。そこに至らないギリギリの力で噛まれたようだったけど、それでも犬の犬歯の尖った歯型だけはしっかりと刻まれていた。
シキさんは口元を手の甲で拭いながら
「…………お前、」「最近あんまり食べてへんやろ………?」
と言った。
「…………」「え?」「た、食べて………?」
「食事をな?」「あんまろくにとってへんやろって」
「………あ、」「そういう………」
「…………」「うん………」
「そういうことが、分かるんですか、」「噛むと………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「そういう、」「けも耳の」「方って………」
さっき、シキさんはパーティー会場でジル様に言われて、私に何か異常がないか確かめるべく体の匂いをお嗅ぎになっていた。
噛むことでも、何かこう
体の表面に表れる何かしらのシグナルを感じ取ることが、出来たりするのかも知れない。
「…………」「え、」「どういうこと………?」
「え、だから………」「体を噛むと、何か」「健康状態とかが、分かるのかな、って………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「なんか、肉質、とか分泌物、とか」「そういうので………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「………え?」「シ、シキさん………?」
「…………」「いや、」「分からへんけど………」
「…………」「…………」「………は?」
「いやシンプルに、」「あまりにも痩せてるからろくに食べてへんのちゃうかな、って」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「思って、」「さ………」
と言って、シキさんはまた私の手を掴みさっきと同じ位置をがぶりと噛んだ。
「あ゛ぁ痛っだい!」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「え、もう………」「え、何?」「何なんですか………?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「ちょっとジ、」「ジルアニさん助けて?」「お、襲われてますぅ、後部」「座席で………」
「…………」「…………」「………ちょっと待って?」
と言ってまたシキさんが左手を触ろうとしたので引っ込めると
「いやいや、違うねん」「まじまじ、これはほんまに」「マジなやつ」
と何やら深刻そうな面持ちで詰め寄ってきて譲らない。
「いやだ、もう」「やめてください」
「いやでもこれはもうほんまに、」「マジなやつやねん」
「嫌ですもう」「心閉ざしました」
「いやでももうほんまに、」「痛くせえへん」
「…………」「…………」「………ほんとですか?」
「うんほんまに」「て言うか、匂いが嗅ぎたいだけ」
「…………」「ほんとですか………?」
「うん。もうほんまに」「それはほんまにそう」
「…………」「………わたくしこう見えて、」「痛いのは、好きではありません」
「うん。」「…………」「………こう見えて?」
「はい。」「もしやるにしても、」「あれくらいに留めてください。」
「うん………?」
「先程ジル様がパーティー会場でわたくしの耳を」「噛んだあの力、程度に………」
「うん………」
「約束、」「出来ますか………?」
「うん出来る。見とったから」
「ほんとにですよ………?」
「うん。任せて」
「…………」「あの………」
「うん………?」
「痛くなるギリギリ手前の力加減で、」
「うん………」
「きゅ、ってやられてびくってなった後に、」「遅れて胸がどんどこいい始める感じが好きなんです、わたくし」
「…………」「うん………?」
「分かります?あの」「例えば噛むのではなく、その尖った歯の上か下かのどちらかだけで擦る様に、引っ掛けるように………」
「もういいから早くやれ、犬」
渋々左手を差し出すとシキさんは今度は本当に噛まず、爪の先や指と指の間に重点を置いて丹念に匂いをお嗅ぎになられた。
「…………」「…………」「あの、」「ジルちゃん………」
「………?」「………うん、」「どしたの?シキちゃん………」
「あの、」「………女の匂いが、」「します」
「…………」「…………」「…………」「んっ?」
ずっと前を、
前だけを向いていたジル様が
真後ろから見て左のこめかみだけが見える程度にこちらを振り向いた。
「…………」「………何?」「何シキちゃん」「何だって………?」
「こんガキの左手から」「他所のメスの匂いがする」「言ウとるん、」「ですぁ………」
左手をどんなにがむしゃらに引っ張っても、シキさんの手からは逃れられなかった。
もの凄いピンチ力を感じたけど、痛くはなかった。
ただ絶対に外れない力加減で挟み込まれていて、どう引っ張っても逃れられなかった。
「ち、違う」「説明させて………」
「シキ」
「はい」
「違います、ジル様」「説明出来ます、わたくし………」
「シキ」
「はい」
「ジル様………」
「シキ、」「suchen!」
「あぁっ、」「ジル様………」
多分〝嗅げ〟という意味のその号令を受けて、シキさんは私を後部座席の端、ドアに跨る位置にどん、と押し倒しその上に覆いかぶさるようにして体の匂いを嗅ぎ回り始めた。パーティー会場でやられたのとは違い、今度は鼻を肌や衣服に押し付けるように、隅の隅、溝の溝も見逃さないように…………
「あぁっ、ちょっと」「シキさん………」
「スンスン………」「うん、」「この辺は、特に」「何もない………」
「シ、シキさん………!」
「スンスン………」
「あぁ、ちょ」「あぁっ………/////」
前回嗅いだ柚子の香水の香りがまたふわりと香った後、今度は髪や頭皮、顔や首回りの肌等のシキさん自体の匂いが鼻をかすめた。
「(………あぁ、)」「(あぁなんて………なんて)」「(エッロい)」「(匂いなんだ………!!!!!!)」
私の下肢の上にうつ伏せに寝転び腹に顔をめり込ませるようにしてずぅ、ずずと息を吸い込むシキさんの、この場にいる誰より遥かに大きなおっ〇いがずりずりと膝~腿に擦り付けられ、時折ずん、と上から落とされた。
「(お、おぉ)」「(重い………)」「(重い、重、い………)」「(砂を詰めた枕で、)」「(殴られているようだ………)」
私の体に顔をめり込ませながら〝ふぅーん……〟〝ふ、ぅーん……〟と時折小さく漏らす、甘い声がたまらない。
「(………は、反応、)」「(反、応)」「(するなぁ………ぁ、)」「(な、何故、ならばぁ、………)」「(ついさっきそれで、ジル様、に殺され……)」「(怒られたばかり、)」「(なの、だからぁ………)」
「…………あー、これ」「だいぶ近い距離で、話し込んどりますなぁ………」
「…………え、」「近い距離………?」
「うーん………」「あのぉ、」「何て言うんでっしゃろ、」「あの」
とシキさんが、人の下半身の上にうつ伏せに寝たまま尻尾を軽くパタつかせている。
私の小振りで可愛らしいものより、遥かに長くて大きくて、立派な尻尾を…………
「和式の女が使う………」
「…………」「ん、何?」「和式………?」
「あのー、」「あたしみたいなことよ」
「あー、」「和服を着た女性か」
「そう、それ」
「うん………」「が?」
「が使うお粉みたいなやつが」
「お粉………?」
「ファンデーション」
「あぁ、」「じゃあ」「白粉か」
「そう………」「の匂いがこいつの上半身の前側の全体から、」「満遍なくする………」
「…………」「………えぇ?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「だいぶ近う寄って喋らな」「こんな満遍のう全体からは匂いせえへん………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
その匂いの主は、分かっていた。
M.E.K.A.舞子先輩だった。
あの小顔に大きなお目々のエッチなお顔で
やたらと近くに寄ってお話しになる癖のある…………
今の今まで忘れていたM.E.K.A.舞子先輩との絡みによって付いた匂いの微かな残り香を、シキさんが犬の嗅覚で探り当てた状況だった。
「スンスン………」「うん、あぁ、」「これは」
「うん………?」「何?シキちゃん」
「抱きかかえられとりますなぁ」
「はっ!?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「うん………」「間違いない。背中と腰と尻の辺りにグルっと一周してますから」「強めの匂いが」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「これは、密着して、こう………」「体ごとべたーっと」「いっとる状況ですわ」
「…………」「………うん、」「どういうこと?」
「違うんです、ジル様本当にわたくしあの」「あ、」「あぁっ、シキさん………」
「手とか腕とかで触ったら線状とか、もしくは点状に残る筈ですやんか?匂いの跡っちゅうのは」
「………」「うん………」
「こやつの体の前面に、その女の匂いが板状にべたー付いてますから」
「………うん、」
「こら体ごと来とるんですわ」「向こうも向こうで自分の体板みたいにして」「べたーっと擦り付けて来とるっちゅうわけですな、こやつの体に」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「お前はそれ、」「今誰になってんだよ………」
「あぁ、嫌っ、」「シキ、さん………」
私はトイレでM.E.K.A.舞子先輩に、一度抱きかかえて起こしてもらっている。
自分で自分の尻尾を掴んで、腰を抜かしてしまったから………
背中とか腰とかお尻の辺りに手は回っていただろうし、私の体を起こすための支えとしてご自身の体をつっかえ棒のようにして、私の体に押し当てられていたのもはっきりと覚えている。
弁解しようと思って
「ち、」「違うんです、」「ほんと」
と言ったところで、シキさんがうつ伏せのまま上半身をもたげ、ボタンで留めてある私のシャツの襟首の内側に鼻面を突っ込もうとした。
「…………ちょ、」「ちょっと!」
「…………ん?」「何?」
「何、じゃない!」「何すんですか、本当に」
「…………」「………あれ?」「ほんまに、嫌な感じ………?」
「だめに決まってるじゃないですか」「どうするんですか、ボタン切れたり服破れたりしたら………」
「…………」「…………」「…………あそう、」
「もう………」「せっかくの良い服なのに………」
「…………」「…………」「…………うん、」「ごめんね?」
「…………」「………もう、」「…………」「やるならせめて、」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「ボタンを外してからに、」「してください………!」
「うん、分かった」
肉食系の困ったちゃんな先輩がわたくしのシャツのボタンを上から丁寧に外し始めるのを待って、
「…………」「…………」「うん、それで」「何?ゆづ」
とジル様が説明を求められた。
「いや、」「それについてはわたくし、明確に説明出来るんです」
「………うん、」「いいよ?」「してみて?」
「はい、あの………」「わ、わたくし抱き起こしてもらったんです、トイレで」
「…………」「うん」
「その、方に………」
「………」「うん………」
「何?抱き起こすって」「どしたの、トイレで」
「え………?」
「こけたの?」
「あ、それはちょっと」「あの、」「………腰を、」
「うん………?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「腰を、」「抜かしてしまって………」
「…………」「え、何?」「何だって?」
「その、」「………腰を抜かしてしまったんです、トイレで」
「え、」「…………」「その女性と、」「いる時に………?」
「はい」
「え………」「トイレで二人で、」「いる、時に………?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「………?」「はい………」
「…………」「………え?」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
車内の空気が、一気に重くなったのを感じた。
シキさんがすんすんと、はだけた私の胸元の匂いを嗅いでいる音だけが聞こえている。
「…………」「…………」「…………」「…………」
「え、」「その理由って、き」「聞いて、」「いいの………?」
「…………」「はい?」
「そのー、」「腰を抜かした、直接的な」「理由………?」
「………?」「はい………」
「あ、あぁ良かった………」「何?何だったの?」
「あの………」「その、」
「うん………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「初めての、」「感覚を………」
「…………」「………んっ?」
「あの、初めての」「感覚を、」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「味わって、しまって」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
上半身の匂いを嗅ぎ終えたシキさんが〝留めとこか………?〟と小声で言ったので〝あ、大丈夫………〟と言って自分で自分の胸元のボタンを留め始めると、シキさんは続いて私の首回りの匂いを、円を描くようにすんすんと嗅ぎ始めた。
「(…………)」「(…………)」「(…………)」「(…………)」
大丈夫。どれだけ嗅がれてもこれ以上の匂いはもう出ない筈。
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「………は、初めての」「感覚、」「とは………?」
「…………」「えっ?」
「いや、い」「いいんだよ?具体的に細部まで言いたくなければぼかしても」「ただその、」
「………?」「はい………?」
「ど、」「どういう、」「どういう類の、」「感覚………?」
「…………」「え、」「それは、もう………」
「…………」「うん………?」
「ビリビリと」
「…………」「び、びりびりっ、」「と………?」
「はい………」「体の奥の、」
「…………」「…………」「うん………?」
「奥の奥の、芯の部分を」「突き刺すような………」
「…………」「か、」「体の、奥の………」「…………」
「はい、その結果」「思わず声も出ちゃうぐらいの………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「そういう感覚、」「です………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
ジル様が、顔を横に向けほくそ笑んだような表情で、アニカさんの横顔を真っ直ぐに見ている。
アニカさんはルームミラーでちらちらと私を見ていて、時折目が合った。
「…………」「………で、」「その結果」「腰が抜けたって、」「こと………?」
「はい………」「そうです。」
「誰?」
「…………」「え?」
「誰なの?その女」
「え、」「…………」
「そのトイレにいて、あなたの初めてに立ち会った女」「どこの、誰?」
「…………」「………え、」「…………」「い、言えません………」
「…………」「はっ?」「何で………?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「お、」「お相手の方に迷惑がかかって」「しまうから………」
「…………」「…………」「………え、」「えぇ………?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「言えません、いくらお二人にでも」「ごめん、なさい………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
ジル様は先程確かに〝お前と相手の女、マジで処刑だからね?〟と仰った。
だから言えない、M.E.K.A.舞子先輩の名前は。
短時間しか関わらなかったけど、芯のある素敵な女性だって、分かったから。
だから言えない。
例えジル様のご命令でも、あの方のお命を少しでも危険に晒すなんて、私にはとても出来ない。
「…………」「…………」「………だ、」
「…………」「………?」「はい」
「だ、」「大事、」「なのか、その」
「はい」
「お相手の、方」「って」「いう、のは………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「い、」「いいぞ?答えられる」「範囲で、」
「大事です。」
「ファッ!?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「だ、」「大事な方、」「です………」「お会いしたのは、今日が初めて、でしたけど………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「………い、」「いやいや、大事」「つっても、なぁ………?」
同意を求めるように一度ジル様を振り返って、慌てて視線を前に戻す。
「…………」「…………」「…………」「…………」
「あ、あれだろ………?」「そんな、所詮一夜限りの相手に………」
「…………」「…………」「一夜、」「限り………?」
「…………」「?」「違うのか?」「連絡先とか交換して、また会う約束とかした感じ………?」
「い、いえ………」「そうでは、」「ありませんけど………」
「ほ、ほらぁー」「だろう?」「じゃあお前大事っつっても………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「なぁ?」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
悲しい一言だった。
M.E.K.A.舞子先輩のみならず、ジル様とも、アニカさんとも、シキさんとも、私は今夜限りで終わらせたくはなかった。
M.E.K.A.舞子先輩やジル様のみならず、アニカさんだってこんなに真摯に向き合って話を聞いてくれる素敵な人だし、シキさんだってこんなに無邪気で、こんなに可愛らしい。
私はこの夢の世界で出会った人達と、明確にお別れしたくなくなっていた。
今夜限りでさよならで、それ以降もう二度と会えないなんて、考えただけで胸が張り裂けそうだった。
「…………」「まあ、何だろう………」「…………」「なぁ?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「今日は一回この話はやめて、」「双方一旦頭を冷やして、」「また、また後日改めて今後のことを話し合う、ということで………」
「…………わ、」「分からないじゃ、ないですか………」
「…………」「えっ?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「い、一夜限りでお、」「終わりかどうかなんて、そんなの………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「も、もしかしたら、忘れずにいて」「つ、」「強く念じてれば、」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「また、会えるかも知れないし」「そしたら、またみんなで、こうやって、集まって」
「…………」「…………」「もういい。」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「だ、大体、」「思いません、わたくし」「会ったばかりだからって、一緒に過ごした時間が短いからって」「イコール大事じゃない、なんて」
「…………」「…………」「………ハァ、」「もう………」
「…………」「…………」「…………」「…………」
「一緒に過ごした時間が濃密で、気持ちが、」「通じ合っていれば………」
「もういいもういい、」「…………」「もう、」「いい………」
「…………」「…………」「ジル様………?」
再度アニカさんを見たジル様の横顔が、立て向きに圧縮されるようにくしゃり、と潰れた。
「…………」「………ねぇ、アニカ」「もうさぁ………」
「ま、」「まぁまぁまぁまぁまぁ、」「まぁ、そうだな………」
「もう無理、」「あたし………」
「いやいやいや、まぁ、」「………分かる、分かるけど、」「な?」
「…………」「…………」「え、ジル様………?」
「一番最悪じゃん、こんなのさぁ」「もう………」
「いやいやいやいやいや、」「こっからだから。」「なっ?」「こっからどう持っていくかって、いう」
「…………」「…………」「…………」「えぇ?」
「いやもういい………」「もういいもん私、もう………」
「いや頑張れ頑張れ」「もったいないって、ここで諦めたら」
「…………」「は?」「………いや、」「何が………?」
「大丈夫だぞ、ゆづ」「誰もお前を責めたりしないからな」
「う゛ーっ、う゛っ、う゛っ、う゛っ、………」「う゛ーっ、………」「う゛っう゛っ…………」
「何も心配しなくていいから」「あたしが、味方だからな」
「う゛ーっ、う゛、」「う゛、う゛ー、」「う゛っう゛っう゛っ、」
「…………」「…………」「………え、マジ」「何………?」
「ちょっと悲しいだけだから、お前の皇女様は」「な?」
「…………」「…………」「…………」「…………」
今の話のどこにジル様を取り乱す要素があったのか全然分からず呆然とする私の横で、とっくに匂いを嗅ぎ終えて足を組み窓の外を見ていたシキさんが、口に手を添えて〝ふわぁーあぁ、〟と小さくあくびをした。
【登場人物・用語】
白河ゆづ…………今年21歳になる若者。若いので相手が受け取り易いワードを選ぶのが下手で結果から逆算して話を進めていくことも出来ない。シキから激し目のスキンシップを受けて急速に心を傾けつつある。
ジル・スレイトアール…………今年27歳になる年で、ゆづよりは少し大人。少し大人なだけなのでゆづの至らなさを受け止めるべくどんと構えるには足りない。特殊な育ちをしているせいでまともな恋愛歴がなく、見るからにもてそうなゆづの動向にビビり散らかしている。
アニカ・サンドルート…………今年29歳になる年。恋愛歴は豊富で、それだけにゆづの若さ故の過ちを包括してやろうという気概がある。ゆづに対して遠慮がちに構え過ぎているせいで話を詰め切ることが出来ず、今回それが二次被害・三次被害を生み出し続けている。ゆづぐらいの歳の頃に好き放題やり過ぎていたせいでゆづも同じようなことを必ずやるし、ジルもそれによって何度かは必ず傷付けられる、と思い過ぎている。最近真面目な恋愛はとんとお留守だが、特に気になる女性がスレイトアール王国に一人いる。
犬神シキ…………御年2700と飛んで12歳の大長老。少なくともここ数百年色恋沙汰とは無縁で、遥か昔のそういった経験についてもほとんど覚えていない。恋愛話に興味はないしゆづが誰と何をしようが、ジルがそれによって傷付こうが心底興味はないがゆづにじゃれ付けることと場を搔き乱すことだけが楽しくて、今回ジルに協力している。犬の嗅覚と人間の洞察力を用いた調査能力は一級品。肉食の犬にメロンのような果物は無用に思えても水分やビタミン、食物繊維など吸収出来る要素は意外と多い。
京家M.E.K.A.舞子…………今年29歳になる年頃の女性。ファンデーションの代わりに白粉を使う本格派の〝和式の女〟だが、そうするのは冠婚葬祭のような特別な場でだけ。ゆづの心証通りストレートにいい女で、恋愛はそれなりにしている。特に気になる女性がスレイトアール王国に一人いる。
月咬ソラ…………今年24歳のうら若き女性。年齢的に恋愛はもちろん重要事項だがまともな経験はほとんどない。他人からの恋愛相談をやたらと受けたがる。
創国祭…………スレイトアール7000年の歴史を祝う年一回のお祭り。現在はスレイトアール古城跡で毎年行われる習わしになっている。財政難の中断行されるこの豪華絢爛な催しを疑問視する声は国内に多い。
お相手の方&大事な人…………浮気した側がされた側に対して釈明する際、浮気相手に関して説明する時に絶対に用いてはならない言葉。どんな人物でどんな事情があろうとも敬意を表して立てたり思い入れがあるような言い回しを用いることは絶対にしてはならない。〝相手は何の特徴も意味も持たない人形のごとき存在なのですが私の至らなさがその人形に自身を引き寄せ間違いを犯させました〟という方向で話を進めるのが被害者を最も傷付けず可及的速やかに事を収める方法。これは本当のライフハック。




