4.経験と記述
コーヒーを飲んでリラックスしたのか、窓の向こうに広がる田圃の風景に不知火が「すごいですね、わたしこんなに広い田んぼを見るのは初めてです」と言った。
「そうなのか?」と僕が尋ねると、不知火はこくりと頷いて「わたしの家は門倉駅に近いマンションにあるので、遠くに見えることはあってもこんなに近くで見ることはあまりなくって」と話した。
なるほど、あのタワーマンションの聳えるあたりかと僕が見当をつけて、駅前の風景の変遷などたわいもない雑談に花を咲かせるのかなと思っていると、「あの、もうひとつ、考えていたことがあるんですが……、話してみてもいいでしょうか」と切り出した。
(こいつは、ほんとうにいつでも何かを考えているんだな……)
僕は内心でそう呟きつつ頷いてコーヒーを啜った。一方春名は「もちろんだよ!」と声に出しながら肘をテーブルにつけてぜひ聞きたいと姿勢を前に乗り出す。
そこで不知火はいくらか安堵の表情を見せて、いつものごとく真剣に話し始めた。
「先ほど、はーちゃんとお兄さんとのやりとりでもおっしゃられていたように、生きやすい状況は創られているけれど行動に移すことを回避しているという意味合いでの、怠惰や怠慢という事態は確かにあるのかもしれないと感じました。
ですがこうした怠惰や怠慢とは逆に、確かに生き続ける意欲も生き続ける選択もできる生きやすい状況ではあっても、生きる意味が次々に失われていく状況もあるんじゃないか、と考えていたんです」
「……? それって具体的にはどんな状況だ?」
「たとえばよく、『心が弾む』『心が折れる』といいますよね。先ほどわたしは意欲をガソリンのようなものと喩えましたが、仮に心が耐久度も弾力も違う結晶のようなものだとしたら、それは心のいわば『硬さ』や『柔らかさ』、『しなやかさ』に応じて生き続ける選択のむずかしさも変わるかもしれないと考えたんです。
もしそうだとしたら、心の『脆さ』──他のひとにとっては生き続けられる選択を無理なく持続できる状況だったとしても、その人にとっては人知れず次々に生きる意味が失われていくような内面の状況を抱えているときにはどう生きていけばいいのだろう……。こんな問いが、頭のなかに浮かんできたんです」
「それって……、いわゆる鬱みたいなことか?」
「いえ、鬱というより……、なんと言えばいいのか、わたしにもわからないのですけれど……」
不知火はそう呟きながら、少なくとも目の前の僕たちというよりも、記憶のなかの誰かを傷つけないよう自分の言葉を丁寧に選り分けている様子で、じっとコーヒーを覗き込みながら考えている。対して春名は存外ポジティブに、不知火の考えている事態について話し始めた。
「でも、確かに『心が折れる』ときってそんな感じかも。なんかもう、全部どうでもいいや、みたいな。諦めたいわけでもないし、だからある程度意欲は残ってて諦めてるわけでもないんだけど、もう何も考えたくないし実際考えられない感じ」
「ああ……! そう、そうなの。そんなイメージ」
「だよね、あたしもちょっとずつむーちゃんの言いたいこと、わかってきた気がする。
そのケースの場合、まだ一応意欲も残ってる感じあるし、生き続ける選択はまだできるかも知れないんだよね。でも、何かに向かっていく意味とか目的がどんどん薄くなっていくっていうか、剥がれてくっていうか」
二人して頷き合い、何か共通の事態について話し合えているようだという確信を深めていくなか、僕は正直置いてきぼりを食っていた。
そのまま置いていかれてもよかったのだけれど、不意にまたこちらに意見を問われたときに即座に答えられないのは格好悪い。聞くは一時の恥と、二人に尋ねてみた。
「悪い、ちょっと待ってくれ。なんとなくはわかるんだが、比喩が多すぎて追いつけない」
「おっとと、兄貴的にはどのあたりがわかってきそうな感じ?」
「『全部どうでもいい』のあたりはなんとなくわかる。だけど意味や目的が薄れたり剥がれたりしていくっていうのは、具体的にはどういうことだ?」
「うーん、丁寧に言葉にしていくの、まだむずかしいなあ。すごく直観的に『わかる!』って思っただけだから。むーちゃんはどう?」
「そうですね……、わたしのイメージでは、生きる意味を支えていた何か、たとえば学ぶ目的ですとか、誰かとの関わりですとか、そうしたものを信じる心がどんどん薄れていってしまう、いわば何かを信じる意志がゼロになっていくイメージかも知れません。
信じる意志というとどこか宗教的な意味合いに聞こえるかも知れないのですけれど、たとえば実際には成果も効果もそれほどあがっていなくても、このことについて頑張ればこんな成果がいつかきっと出て、こんな効果も上がるはずと信じているから何かを頑張り続けられるということって、あると思うんです。
科学の実験でも、アートの制作でも、哲学の研究でも、誰にとっても成果が出るとわかっているわけではないリスクの高い場所で頑張っていればこそ、いろんな努力が必要で、その努力がそうした信じる意志によって成り立っていて。
でもその意志に、いろんな事情からだとは思うのですけれど、段々とヒビが入って、割れて、剥がれ落ちていってしまうことがあると思うんです。
そのことを多分、いまのわたしは問題に感じているんじゃないかと……」
「ヒビが入ってっていうのは、信じる気持ちが薄れていくってことか?」
「ええと、それともちょっと違う気がするんです。信じたい気持ちは残っているんですが、信じることがもうできなくなってしまっているというか……」
「ああ〜、わかる。わかるけど上手く言えないや。でも心をガソリンみたいなものじゃなくて、結晶みたいなものに喩えることで見えてくるものが結構ありそうだよ。心に意欲を灯し続けるために必要なものがガソリン的なものだったとしてもさ、単にガソリンを足せばすぐやる気が漲って前に進めたり行動に移せたりするわけじゃないじゃん」
「言わんとするところはなんとなくわかるが、そこでいうガソリンっていうのは具体的にいうとなんなんだ?」
「んー、なんだろう。たとえば自分にとってのご褒美とか、誰かから褒めてもらえたりとかかなあ。別にそれがもらえたとしても嬉しくないときってあるし、たくさんもらえていても虚しくなるときだってあるだろうし。そんなとき、もっとガソリンっていうか、ご褒美もらってもそんなに嬉しくないし、むしろちょっと気分が下がる感じしない?」
「ああ、なるほど。ちょっとずつわかってきたかもしれん。結晶の比喩はそういう、意欲だけじゃない心の部分について考えるために使ってるわけか」
「あたしはそんなイメージだったけど、むーちゃんはどう?」
「わたしも近いと言えば近いんですが、どちらかというと意欲も含めているというか、意欲が長い時間をかけて沈澱して、固まったものとして見ている気がします。
心にはそんなふうに知らず知らずのうちに織り重なって、降り積もって、自分でもどうすることもできないくらい凝り固まった意欲というか、意志みたいなものがたくさんある気がするんです。そしてその凝り固まったものがいろんな事情で、ぱきんとヒビが入って、剥がれ落ちてしまうというか、そんな出来事があるように思うんです」
「???」
この不知火の言葉には、僕も春名もクエスチョンマークを浮かばせてしまった。その様子を察してか、不知火は少し気まずそうにちょっと冷めたコーヒーを啜った。
「あ、いえ、すみません。まだわたしも直観の段階でよくわかっていないんですが、でも……」
「ううん、大丈夫、大丈夫。自分でもまだわからないから人と話すんだし、書くんでしょ? むーちゃんが教えてくれた哲学者さんもそう言ってたって、教えてくれたじゃない」
「……はーちゃん」
僕など存在しないかのように二人の世界を一瞬にして作り上げるくらいに男前な妹の姿を目の当たりにするのはなかなか気恥ずかしい。僕は咳をひとつして提案した。
「ともかく、その不知火の『心=結晶』っていう比喩にどんな可能性があるかまた想像して、命題をつくって、その論理を確かめていけばいいんじゃないか? あるいは、さっき不知火が作った『生きやすい社会』についての命題に戻って考えてみてもいいとは思うが」
「そう、ですね。どうしましょう」
「むーちゃんはどうしたい?」
「ううん……ううーん」と言ったまま不知火は身体を真横に曲げていき、眉根を寄せて真剣に悩み始めた。どちらを議題にするかでこんなに悩むやつも初めて見るが、あんなに自分の考えを展開できるのにと僕は意外な感じがして、ぷはっ、と思わず笑ってしまった。
「こら、兄貴笑うな」
「すまん、あまりに長く悩むものだから」
「まあ気持ちはわかるけど。でもあたしだけのむーちゃんだったのになんか悔しいな」
「勝手に人を所有物扱いするな」
兄妹でどうでもいいやり取りをしていると、今度はそれを見ていた不知火がくすくすとこっそり笑い始めていた。
「不知火、お前も笑ってないでどんな風に議論を進めたいか決めてくれ。これはお前の哲学だろう」
「あれ、兄貴も哲学って言葉を使うのに衒いがなくなってきたね。いい傾向、いい傾向」
「違う、僕はただ……」
「僕はただ?」と僕の横で尋ねる春名の疑問に、今度は僕がしばらく黙ってしまった。正直、なんと言い返せばいいのかわからなかったのだ。言い返す内容もなければ、言い返したい欲求があるわけでもない。自分のなかに哲学に対する抵抗感が確かになくなってきていることに、自分自身少し呆れたほどだ。
「あっはっは! なんだかこの時間、むーちゃんの哲学しながら、あたしの哲学もだけど、兄貴の哲学も一緒に相談乗ってるみたいなところあるよね」
「し、失礼な。僕は別段哲学なんぞ必要としていないぞ」
「わかってるって。兄貴はもう虚無主義者として悟りを開いてるもんね」
「お前馬鹿にしているだろう。世界の虚無主義者に謝れ」
「違う違う、虚無主義者の考え方じゃないとわからなかったところだってたくさんあったじゃん。昨日のゼロとマイナスだってそうだったんだし。あたしはかなり感謝してますよ」
「そ、そうか。ならいい」
(やれやれ兄貴、相変わらずちょろいな)
と思われていそうなニヤついた顔を実の妹にされても、完全にスルーすることにだんだん慣れてきてしまった。しかしスルーしようとすると、目の前に座っている不知火が僕たちのやりとりをほのぼのとした顔で見つめている表情が視界に入ってしまう。
「……そんなことより不知火、結論は出たか」
「あっ、いえ。すみません、わたし一人っ子なので、きょうだいがいたらどんな感じなんだろうってずっと憧れを持っていたんですが、やっぱり羨ましいなあって思ってしまって」
「いやいやいやいや」と兄妹二人で手を振って全否定する。
「何をみていたんだ不知火、兄を馬鹿にする愚かな妹の体たらくを見ていなかったのか」
「むーちゃん、いまの全部聞き流していいからね」
「いえ、やっぱりお二人の関係性、とても素敵です。兄妹っていいですね」
くすくすくすと品よく笑い続ける不知火に、僕たち兄妹は二人してわざとらしく呆れかえっていた。「一人っ子はみんなそう言うんだ」と。
ともあれ方向性の結論の出ない不知火が考えあぐねている時間に既視感を覚えて、これは昨日の夕方にあれこれノートに考え尽くしても何もアイデアがまとまらなかったときと同じ状況、つまり『命題をつくる』という方法にのっとっていなかった状況に陥っているんじゃないかと思い、その疑問を伝えてみると不知火からこんな応えが帰ってきた。
「確かに、昨日のようにまずひとつ命題をつくってみたときよりもかなり自由にお話していましたけれど、こんな風に自由に想像していく時間があると後々つくることのできる命題のバリエーションが増やせるようになると思うんです。
少なくともわたしは、みなさんと命題をつくる前にたくさん話すことができていたからあの後の命題が単なる抽象的なものではなくてより具体的なものについて考える命題として考えられたので、とてもありがたい時間でした」
なるほど、と僕は頷いてみる。振り返ってみれば僕も、あれだけああだこうだといろんな想像を膨らませていく二人に付き合っていったから、あの後の命題の鋭さや使い勝手の良さを価値づけることができていた気がする。
さっきも生き続ける意欲や心なんていう素人には手も足も出ないような概念に対して、ガソリンや結晶といった直観的な比喩を使うことで少なくとも不知火がどんな経験について語り合いたいかは探れていた。ないよりはあったほうがいい、とは言えそうだ。
「わたしは今回、まだきちんと言葉にできていないので申し訳ないのですけれど、自分なりに経験してきた心の経験について、ちゃんと経験の『記述』として書き上げてみたいと思えました。
わたしのなかにあるその剥落の感覚や降り積もっていく感覚について書いて、お二人にも是非読んでいただきながら、よければまた一緒に命題をつくって相談してみたいです」
「もっちろん! また一緒に哲学しよーね。第二回はいつにしようか、兄貴」
「当たり前に僕を勘定に入れるな。第一、不知火が書き上がるまで時間がかかるだろう」
「うーん。それもそっか。むーちゃん、どれぐらい書くのにはかかるほう?」
「ええと、実はこれまでにも経験の記述をやってみようと思ったときはあったんだけど、わたしはとても書くことが苦手で。文章の主題があっちに行ったりこっちに行ったりして、ひとつのことについて書くということが難しくって。いつも詩のような、散文のような、エッセイのような論文のような、よくわからない文章になってしまうんです」
「そうなの? むーちゃん、すっごく素敵な文章書くし、字も綺麗なのに」
「書は書家のおばあちゃんに厳しく教えてもらって、小さい頃からすごく気をつけて書いていたんだけれど、自分の、うまく言葉にならない経験について文章を書いてみるっていう経験がとても少なくて。だからいま、もっと哲学書を読みたい気持ちです」
「! 哲学書ってそういうふうに読むのか」てっきり参考書の例題と解法みたいに、哲学者の主張とその論理を丸暗記するレベルで読み込むのかと思っていた。
「いろんな専門的な読み方があると思うんですが、わたしが好きな哲学書が、自分の経験についてまるでひとつひとつ大切に宝石箱に入れるみたいに矯めつ眇めつしていく文章で構成されていて。そんな風にわたしも書いてみたいなと、ずっと思っていたんです。
そのときにも、今回みたいに心のなかの意欲という、触れられもしないけれど確かにわたしの感じているこの心の意欲についての経験をいろんな対象に喩えてみたり、いろんなあり方に変化させてみたりして考えてみたいと考えています」
聞けば、この自分の経験したことを記述するのに使う抽象的な概念(今回でいえば心や意欲)と、自分の経験した具体的な体験(今回でいえば意欲が薄れていく感覚や、不知火の経験していた意欲が剥がれ落ちていく感覚)について、想像を膨らませて比喩を作り出したり(ガソリンや結晶)して、いろんなあり方や形に変更してみたりすることで命題をつくっていく哲学の方法の一つを自然と試していたかもしれない、と不知火は述懐した。
「わたしはこの『自由変更』という方法を知ったとき、ああ、普段わたしがしていることと似てると感じたこともあって比較的得意だと思うんですが、自分の経験を記述すること、そこからひとつの命題を抽出して想像的に広げたり、その論理的な真偽を判断したりすることがとても苦手で……。
ですから、お二人と一緒に昨日今日と哲学ができて、わたし自身哲学する方法についてとても多くを学ぶことができましたし、自分の問いについても前進できたと思っています。本当にありがとうございます」
そう言って不知火は朝食を終えて片付けられたダイニングテーブル越しに、深々と頭を下げて春名と僕にそれぞれ謝意を示した。春名は照れながらも「むーちゃんのお役に立てたならあたしはとっても嬉しいよ、恩返しでもあるしね!」と胸を張った。
一方僕はただそっぽを向きながら「感謝するのはお門違いだろう、僕はお前たちに巻き込まれてるだけだ」と告げた。
再び僕の言葉の裏にある感情を春名が勝手に推測してにやついていたことだけ豪腹だったが、不知火はまたあの部室棟で見せたような静かな笑みをたたえて僕を見つめていた。
結局、この日はたくさん話したからという身も蓋もない理由で、夕方から夜更けまで、そしてその早朝まで続いた第一回哲学同好会はひとまずお開きという形になった。不知火と春名は昨晩話し合った二人で行きたいところの候補の一つとして挙がったショッピングモールで買い物をして、一緒に休日を楽しむという手筈にしたらしい。
春名はいつものジャージと同じブランドのピンクのラインの入った白のナイロンジャケットと、グレーのキャミソールと黒のスウェットという出立ちで、不知火に色違いのおそろいがあるからペアにしようよと勧めていた。その服装を身に纏った不知火も似合いそうで見てみたいとは思ったが、不知火はペアを恥ずかしがって否定した。
僕は二人を玄関口から見送るとそのまま自室に戻りギルメンたちとのクエストに精を出すことにした。なんて素晴らしい青春の一日だ。重苦しい話題だけで青春を無駄にしてはならない。
しかし話し始めてわかってきたが、不知火無題はなんのことはない、普通の人間だ。
普通という言葉は良かれあしかれひとをなんらかの枠のなかに入れがちだが、ここで言いたい「普通さ」というのは、人間として自分の話したいことを話し、喋りたいことを喋り、試したいことを試して、達成したいことや避けたいことを自分なりに定めてその通りにできるよう自分につけられる力をつけていく「人間らしさ」というべきものだ。
だから世間で話そうとするとたとえテレビ番組のなかでもネットの個人チャンネルのなかでも放映・配信されないような重苦しい哲学の話をしていても、どこかぽかんと間の抜けた日常の話と地続きに喋ることができるのだろうと思う。
逆に言えば、普段の学校や教室、テレビやネットのなかがどれだけ「普通」じゃないのかということにすら気付かされて、僕は薄ら寒い気すらしてきたほどだった。




