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不知火無題のドキュメント  作者: 人見 吾空
第二章 不知火無題との宿泊

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3.ガソリンと結晶

 僕の住む家は首都圏の一角を担う郊外都市の、辺鄙な田園地域にぽつんと立っている。この都市はかつてこの辺り一帯を統治していた城のあった場所でいまもそれなりに栄えてはいるのだが、同じ市でも地区が変わると周囲の風景はがらりと変貌してしまう。

 駅のある都市部は半径五キロほどにわたって大小さまざまなビルが立ち並び、寂れていた南口にもコンコースができて以来再開発の波が押し寄せている。一方駅から十数キロ離れると辺りは一面田圃か畑しかなく、雨後の筍のように生えた都市部のビルと近場のショッピングモールを中景に、他の県との境をつくり出している山脈が遠景として見張らせるほどには何もない。初夏の頃となると辺りは田おこしの季節で、トラクターの行き交う音が遠くでも近くでも折に触れ聞こえてくる。

 そんなサウンドスケープも含めた田園風景がうちからはそのダイニングに面した窓からもよく見えるのだけれど、そんなわが家での朝食の間も、朝食の後も、不知火と春名から矢継ぎ早に繰り出される「生き続ける選択のむずかしさ」についての問いを、誰あろう、僕は一緒に考えていた。

 奇特なやつだと、自分でも思う。

 僕は不知火が自分で洗いますといった提案を退けてシンクに運んだ三人分の食器を食洗機に入れながら、二人がダイニングテーブルでマグカップに注がれた白湯を飲みつつ、互いに問い続ける言葉に耳を傾けていた。


「きのうの晩から、少し考えていたことがあるの」と不知火が春名に切り出すと、「ふむふむ。なになに?」と春名は鷹揚として応える。

「えっとね。生き続ける選択を行うということは、選択というからにはどちらかを選ぶ瞬間があるんだと思うんだけれど、ではその選択はいつも瞬間的なものなのかなって」

「? 瞬間的なものって?」

「たとえば、こう生きたい、あるいは生き続けることをやめたいと思うとき、その選択はいつも瞬間的になされている気がするの。

 でも、その瞬間が訪れるまでの間、何も選択がなされていないかというとそうではないんじゃないかという思いもあるの。あっちを選んだら、こっちを選んだらと行き来している気がして」

「ああ! なるほどね。選択って何かピンポイントなものだと思われてるけど、実際はすごくあっち行ったりこっち行ったり、想像のなかでいろんな選択をしてみているんじゃないかってことね」

 そう言いながら春名は、自分が飲み干したマグカップに改めて白湯を注ぐ。不知火はその春名の言葉を受け取りながら、逐一相槌を打って応えている。

「そうなの、しかもその瞬間にある選択を心のなかで選んだとしても、実際にその選択を具体的に行動に移すまでの時間がある。心のなかで選択はしたんだけれど、行動には踏み込めないことってたくさんある。そうなると、選択ってたとえいつも瞬間的だったとしても、実際にはとても長い時間をかけて持続的になされていく営みなんじゃないかな」

「確かにそうだね。ダイエットするぞって心で選択しても、明日から頑張ろうかなって思っちゃったりね」

(それは選択したと言うのではなくて、怠惰と言うんじゃないだろうか)

「だから心のなかでの選択が瞬間的に移ろうものだとしても、常にその行動に移すときまでの時間も含めてとても持続的なものだとしたら、ここにおそらく生き続ける『意欲』が関係しているんじゃないかって考えてたんだ。

 心の選択をし続けることも、行動に移すために準備することも並大抵のことではないから。たとえば心のガソリンのようなものがないと、そんなふうに持続的になれないんじゃないかなって」

「うーん、ガソリンかあ。生き続ける意欲がガソリンに似ているかっていうと、あたしはちょっと違うイメージを持ってるかも」

「! それはどんなイメージ?」

 マグカップで自分の手を温めながらつぶやいた春名の言葉に、同じくマグを手に持った不知火が身を乗り出して反応する。こいつは誰にでも顔を近づける癖があるようだ。

(そして不知火、いちいち顔を輝かせるな、見ているこっちまで疲れる。それにしてもなんでこいつは自分と違う意見をこんなに喜ぶんだ?)

「うーんとね、なんだろう、うまく言えないかもしれないけど、心のなかの考えでも身体での行動でも、一つひとつのその選択に意欲が必要だとするよ。

 それでその意欲がもしゼロとかマイナスになったら、何も考えられないし行動に移せなくなっちゃうんじゃない?

 つまり選択がそもそもできなくなっちゃう。でも生き続ける意欲が失われてマイナスになっても、そこからプラスにしていこうって選択もし続けられると思うんだよ」

「そう、かなあ。マイナスになってしまったからこそ何も考えられず動き出せなくなって、プラスにしていこうとする選択ができなくなることもあるんじゃないかな」

「でも意欲も意味もどんなにマイナスになっても、たとえばすっごく落ち込んだり、絶望したり、最悪戦争状態のなかに放り込まれたりしてもさ、なんとか自分の生きる意味をプラスにしていきたいって思って生きることを選択してる人はいると思うよ」

「あっ、そうだね。うーん……、でも、その極限と言える状況のなかで、そもそも生きる意味も生き続ける意欲も選択できないほどに絶望に打ちのめされてしまう孤独な状況というのもあるんじゃないかな」

 春名がテーブルの上のお菓子に手を伸ばしながら提案すると、不知火はマグカップをテーブルに置いて小首を傾げ始めた。だんだんと二人が自分なりの推論を通じて歩んでいる筋道、見据えている風景の姿が変わってきているのに気づく。

(なるほど、二人の観点の違いっていうのはこういうところか? どちらかといえば春名は楽観的に物事を見るけれど、不知火は悲観的に物事を見る)

「そう考えるとさ、正直生きる意味と生き続ける意欲って、『生きる』って行動を取るためにどんな内容のものが、どれくらいあればいいんだろう。いい意欲も悪い意欲も、悲しい意味も嬉しい意味もありそうだし。

 他にも、意味がなくても意欲があれば生き続けられるのか、意欲はなくても意味だけで生き続けられるのか。ぶっちゃけ、少ない意味や意欲でもみんな生きやすい社会の状況とか、意味や意欲がたっくさんあってもみんな生きづらい状況もありうる気がしてきた」

「! そうだね、社会状況が許すなら少ない意欲でも生きやすくなるかもしれない。どれほど旺盛な意欲を持っていてもそれを打ちのめしてしまうほどの社会状況があるみたいに」

「じゃあ、生きやすい社会とか生きづらい社会について考えて、なるべく生きやすい社会が具体的にかたちになってると、一人ひとりが感じてる生き続ける選択のむずかしさっていうか重さがちょっと軽くなるんかな。

 命題にするなら、《ある人がどれだけの生きる意味や生きる意欲を持っていようと、ある社会がその人に生きやすい状況を創り出せるなら、その状況を創り出せる社会は生きやすい社会だ》ってことかも」

「! でもじゃあ……、生きやすい状況ってなんだろう……?」

 そう、不知火がしばらく黙って考えていると、不意に僕の方を見つめてきた。

 僕はといえば二人が社会状況について考え始めたあたりから食器洗いを終えて、シンクの掃除も終えて、キッチンカウンターに自分のマグを置いて自分のためのホットコーヒーを淹れて一服していたところだったのでちょっとどきりというか、ぎくりとしてしまった。

 案の定というか、不知火の視線を追った春名が僕のコーヒーブレイク状況を見つめて憤慨してきた。

「あ! 兄貴自分だけコーヒー飲んでる! あたしたちにもちょうだいよ」

「不知火は客だから淹れるが、春名は自分で淹れろ」

「不公平だ! あたしここから立ちたくないもん」

「それを怠惰と言うんだ。それにさっきからお前たちの話を聞いていたけれど、生き続ける選択に意欲と意味が必要だとしてだ、状況がそれを塞ぎ込んだりする場合もあるが、いまみたいに怠惰で選択しない場合だってあるんじゃないか?

 ほんとうは状況が許しているのに、自分はそんな労力まで使ってその選択肢を選択したくないと思って行動に移さなかったり」

 そう言いながら、僕は不知火の分のコーヒーを淹れるために再びインスタントコーヒーの入った瓶を取り出しにキッチンに向かっていた。背中越しに、春名の追求の手が伸びる。

「む。それはそうだけど、兄貴があたしにコーヒーを淹れてくれないのだって兄貴の怠慢なんじゃない? 状況は許してるよ? インスタントコーヒーとマグをあたしのために一杯分用意するだけでいいんだよ?」

(哲学の話題に振ってスルーしようとしたのにまたコーヒーの話題に戻された……)

「ほら、むーちゃんもあたしのためにお願いをして!」

「えっ、ええ?」

「むーちゃんが頼めばきっと兄貴は折れるから、ほら!」

「え、あ、あの、お兄さん。ぜひはーちゃんにコーヒーを……、お願いできますか?」

 振り返ると、そう遠慮がちに尋ねる不知火の姿がそこにあった。なんだその髪の艶めきは。……いかん、シニカルに否定するつもりが単なる賛辞を告げてしまう。

 そんな内心を見透かしてか、満足げな春名がこちらを自慢するように見つめていた。どうだ、むーちゃんは可愛いだろう、とでも言うように。

 しかし僕は知っている。これに同意すれば僕を待ち受けているのは「キモい」という一語と妹の兄を侮蔑するような表情だ。だから僕は平静を取り戻し、「お前は友人になんてお願いをさせるんだ」と告げて渋々と戸棚の中からマグをひとつ多く取り出した。

 妹とその友人と三人で、しかも自宅で朝方にコーヒーを飲みつつ哲学談義をする休日が僕の人生のなかで訪れるなんて全く思っても見なかった。けれど、これはこれで僕の数少ない青春の一ページとして、後々バックアップされ保存どころか保護されるべきシーンなのかもしれない。


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