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不知火無題のドキュメント  作者: 人見 吾空
第三章 不知火無題の記述

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10/15

1.上下前後左右

 不知火と休日を満喫してきたらしい春名が帰ってきたのは、その日の夕方のことだった。

 僕がギルメンとたわいもない会話をしつつ次週発表されるクエストへの準備とその進捗を語り合っているとインターホンが鳴ったので、階下に降りてインターホンの通話のボタンを押すと「開けてー」とのだらけた声とともに疲れた様子の春名が画像のウィンドウに現れた。

「鍵持ってるだろ、自分で開けろ」

「手がふさがってるんだよー」

 仕方ないとばかりに僕がドアの取手の上部と下部にある鍵をそれぞれ解錠してドアを開けると、「たくさん歩いたあ」と言うなり玄関先になだれ込んできて、自分たちの買った戦利品の買い物袋と、身体に馴染んでるしたくさん入るからという理由で買い物の時にすら愛用している中学バスケ部時代のナイロンバッグを、どっさりと置いた。よく見ると、そのバッグからもしまいきれないほどの小さな買い物袋がのぞいている。

「お前、こんなに何買ったんだ」

「ああ、大丈夫、大丈夫。ぜんぶセール品の古着と雑貨だから」

「にしてもすごい量じゃないか」

 僕の咎める声をするりとかわすように、ジャンパーのジッパーを開けていくらか汗ばんだ身体に風を送るように上着を波うたせながら、

「むーちゃん、自分の服を買うのにまだあんまり自信がなかったんだよね。自分にはそうしたセンスがないからって。でもむーちゃんあんなに可愛いのに勿体無い! って思ったらさ、気づいてみればたっくさんコーディネートしてたの」とおかしそうに笑って応えた。

「じゃあこれはぜんぶ不知火の服なのか?」

「いや、あたしの。コーディネートしてたら、あたしも欲しくなっちゃって。でも一万円は超えてないよ、すごくない? あたし買い物上手じゃない?」

「特にほら、これとかさ」と戦利品のなかからいくつかの古着を出して、玄関先のフローリングに出して重ね合わせてみては、「千円だったんだけど、これ一つでこんなに着回せる」だの「こんなに可愛いインナーなのにカッコいいジャケットにも合わせられる」だのと、春名は自分の目利きぶりを熱くプレゼンテーションしてきた。

 古着で玄関口を埋め尽くさんばかりに勢いに僕が少し辟易としてきたのが伝わったのか、「ごめんごめん」と言いながら春名は衣服を巨大な袋に詰め込み始めた。

「むーちゃんもね、どんな服が似合うかなって思ってたんだけど結構なんでも似合っちゃうなと。だから難しかったよ」春名はそう語りながら腕を組み、誰に向けるでもない頷きをうんうんと繰り返していた。

 僕はこの熱量をずっと受け続けてきた不知火に同情を覚えつつ、「じゃあ不知火にもこれだけの衣服を買わせたのか?」と心配するように告げると、春名は「流石にそんなことしないよ」と告げて、

「むーちゃんは結局、服は大人っぽい若草色のワンピースとね、今日話していた書き物のための便箋と、ポップな万年筆を買ってたよ。服も文具も同じお店のなかにあったから、ちょうどいいじゃんってあたしがお薦めしたんだ」と応えた。

 わが妹ながらバイヤーというか、ショップ店員の才があるんじゃないだろうかと思うほどだ。合わせ買いへのレコメンド力が高そう。

「いやあ、でもむーちゃんの書いたもの、めっちゃ楽しみだよ。むーちゃんの字って本当に綺麗で、文章も素敵なんだ。あたしが最初にむーちゃんに惚れたのは、そこからだからね」

「不知火の文章……、国語の時間か何かで読んだのか?」

「その通り。実は最初の国語の授業でね……」と言いながら、春名は自分の買い物袋たちを玄関先から延びる廊下に置きつつ、一旦休憩だとばかりにそのままリビングを通りダイニングに向かっていった。そしてカウンターの上にあるグラスにキッチンの蛇口から浄水を捻り出して注いで、一息に飲み干した。ぷはあ、という酒飲みがビールを飲んだ後に吐き出す息のような音が聞こえた気がするが、気のせいだとしておこう。

「先生がお薦めしてる三つのエッセーのうちひとつを読んで、自分なりに返答のエッセーを書いてみようっていう時間があったんだ。あたしは最初、どれも興味ある内容にあんまり思えなくてさ。最初からちょっとだるいなあと思ってたんだけど、そのなかでひとつだけ面白いなと思えたのがあって。

 宇宙飛行士の人が言うには、宇宙では東西南北がなくなって、自分の身体を中心にした上下前後左右しかなくなるんだそうです。そして『宇宙』という言葉は紀元前二世紀の中国の言葉で、この上下・前後・左右の三次元空間全体っていう意味の『宇』と、過去・現在・未来の時間の流れっていう意味の『宙』って漢字が合わさってできたものなんですって続くんだ」

「へえ。ちょっと面白いな」

「でしょ?」

 そう言って微笑むと、春名はダイニングテーブルに腰掛けて、テーブルの真ん中にあるお菓子のボウルを自分に引き寄せてその中にあるチョコやらクッキーやらを摘みながら続きを話し始めた。

「あたしは最初、上下前後左右しか無くなった宇宙空間のなかに放り出されてみたらどんな気持ちがするものなんだろうって思って、自分が宇宙飛行士みたいに宇宙遊泳したらって想像してそこから見える風景を書いて提出したんだ。その授業だとみんなが提出したものをタブレットで読むことができたんだけど、そんなかですごく人目を引いてたのがむーちゃんの書いたものだったんだよ。あ、そうだ」

 そう何かを思いついた春名はすっくと立ち上がりどかどかと階段を登って、自室を開けたのちまたどかどかと降りてきた。その手には学校から配布されたタブレットがあり、階段を降りながら操作していたのだろう、すでにその授業の画面が表示されていた。他の生徒たちがタブレットの書字アプリケーションで打鍵して制作した文章を提出していたのに対し、不知火は自分のノートに手書きで認めたものをタブレットで撮影して提出していた。

 そうして僕は初めて、文章のなかの不知火と出会ったのだった。


 *


 上下前後左右

 不知火 無題


 エレベーターが昇降するとき、下降するとき。エスカレーターの上に足をかけるとき、エスカレーターから降りるとき。階段を登り、降りるとき。

 わたしの身体の重心は前後に、左右に、上下に引っ張られていく。

 エレベーターでもエスカレーターでも階段でも、わたしの身体は重心の移動に引きずられて時折よろけそうになったり、うまく乗れなくてこけたりして周囲の人の目が気になってしまう。とても、恥ずかしくなる。

 そんなとき、わたしは自分の身体が誰かの前にあること、誰かの視界の前にいることを恥じている。だから、こけるならどうか誰もみていない場所でと願うのだけれど、この誰かの視界の後ろにいたいと思うこの気持ちも、おそらく前と後ろという「(つい)」のおかげで生じているのだろうと思うと不思議だ。


 前と後ろ、左と右。合わせて斜めの席の隣の友人から話しかけられて、その友人の方を振り向くとき。初めて訪れる場所で、足の向く先、目の向かう先を至るところに向けるとき。わたしは自分がいまどんな場所にいるのかを確かめたり、いま誰と関わりを持っているのかを確かめたりするときにも、身体は向かうべき方向をいつも探している。

 向かうべき方向がわからないときは、自ずと「対」を探している気がする。少なくとも、たぶん、こっちの方向ではないのだけれどと、向かうべきではない方向ばかり目にしてうろうろとさまよってしまうのは、わたしが初めて訪れる場所でよくしてしまう悪癖だ。

 そんなふうに迷子になる時でさえ、わたしはこの方向の矢印がいくつもつながり合った「対」のなかにいつも居て、会うべき誰か、触れるべき何か、向かうべき方向と向かうべきでない方向すらが、この「対」の先に存在し続けている。そう思うと「対」は、人の生きる道のりにたまたま付随しているような付属物ではなく、いつでも見えないところでわたしの生き方を文字通り左右しているほど大切なものなのだろう。

 それなのに、「対」は標識ではない。速度制限を設けるものでもなければ、目的地を指し示すものでもない。ただわたしの生きる時間と空間を、ばく然と広げてくれているだけだ。


 生きるということがもし時間と空間の間の「移動」なのだとしたら、わたしの生きる道筋をかたどるものこそこの上、下、前、後ろ、左、右、なのかもしれない。時間はどちらに流れているのだろう? 上から下か、下から上か。前から後ろへ、後ろから前へ、それとも目には見えない左側に、右側に、流れているのだろうか。


 限られた時間の流れのなかで、「対」を頼りに自分の向かうべきでない場所を辿っていく時間が与えられたおかげで、かろうじて向かうべき方向がわかったとしても、そこがわたしの生きるべき場所、居るべき場所かどうかはまだきっとわからない。「対」はいつも、どちらか、しか与えてくれないからだ。

 どちらにも行けない、向かうべき方向はどちらでもないと感じたとき、わたしはいつもいまいる場所に佇むしかない。

 そんな状況でも、多くの人、多くの物事、多くの出来事が、もしかしたら時間すらが、その「対」を通してわたしのいる場所にやってくる。たとえそれが夢のなかの出来事だったとしても、宇宙空間のなかだったとしても、幻想や幻覚の類だったとしても、きっとわたしに向かってくる。

 前から、後ろから、左から、右から、上から、下から。


 *


 一読し終えて、なぜだろう、僕はひどく感傷的になっていた。涙袋に、なぜか知らないが涙が次から次へと供給されてしまう。瞳の潤みを悟られまいと目をしぱしぱと瞬かせる。

 うまく言葉にできないが、僕はここに書かれていることを知っている、しかもすごくプライベートに触れる場所で、誰にも話したことのないような場所について話している。そんな気がしたのだ。

 春名は僕が読み終えたとわかるや、「もうすごいでしょ〜? あたし、ひと目でファンになっちゃったもん」と自信たっぷりに話しかけてくる。僕は僕のなかで起きていた感情をそのまま伝えることはしないで、極めて冷静に応えようとした。

「……すごいのは、わかった。でも確かに不知火が言うように詩みたいなのに散文的なところもある、わかるようでわからないところを残す不思議な文章だな」

「そこがいいんじゃん! あたし、こんなふうに言葉を書く人初めて会ったから、わくわくしちゃったもん」

「しかしこれを提出された教諭もクラスメイトたちも大変だったろうな。ここに書いてあること全て理解できたんだろうか?」とつぶやくと、春名は当然と言わんばかりに首を振った。

「ポエムっぽいよねとか、文は達意だとか、ほんと残念な感想しかなかったよ。でもあたしはこれを読んだときすっごくいろんなイメージが湧いてきて、感動してたんだけどなあ。

 時間がいろんな方向からこっちに流れてくるイメージも素敵だし、何より時間の間の移動が『生きる』ということならって喩え、本当にそうだなって思っちゃったもん」

 そう語りながら春名は、ダイニングテーブルに腕を突っ伏しながら、両手を立てて一つの幅を作ってみせた。おそらくその幅は、人生の時間の長さ、なんだろう。その長さの始点から終点までをすでに終えた人を、春名は痛いほど知っている。

 そして僕はその見えない幅の間を少なくともいま、進んでいる。進んでいるけれどどちらに向かっているのかも、その流れがどんなふうに流れるのかも知らないままでいる。光陰矢のごとしとはよくいうけれど、光の速さよりは時間は遅く流れるはずだ。少なくとも嫌なことを経験している間は、特に。


 僕はその日、春名が買ってきたコンビニ弁当と惣菜でしつらえられた夕飯を一緒に食べながら、来週の半ばにそろそろ両親が帰ってくるぞと思いいくらか恐怖を覚えていた。まだ春名の部屋に山と積まれた哲学書の本棚をどう説明するかの戦術も、戦略も思いつかないままだ。両親の帰ってくるまでの数日の間にどうにかいい案を考えつかないといけないと思っていた矢先、インターホンが鳴った。

(やれやれこんな時間に。春名のやつが何か買っておいたんだろうか?)

 そう思ってインターホンに出てみると、

「あ、舜。開けてくれ」

 そう端的な要求を告げてくる、僕たちの父親がそこに立っていた。

 不知火、こんな経験を「斜め上から来る」というんだ。ぜひ書き留めておいてくれと、心のなかで現実逃避でもするみたいに僕は彼女にテレパシーを送っていた。


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