1.お泊まり
不知火との哲学相談を妹の部屋で続けたその日、春名が不知火にせっかくだから夕飯も食べて泊まっていきなよと勧めてきた。対して、僕は両親のいない友人宅でしかも異性がいるような状況なのだから不知火の親御さんもいい顔をしないだろうと制したのだが、不知火からわたしの両親は豪放磊落な方なので大丈夫だと思います、それにお兄さんは(今度は春名の言った意味で)紳士な方ですから、などと言われてしまった。
既視感のある流れだけれど、僕はまた春名に押し切られ不知火に外堀を埋められて、彼女が泊まっていくことを許す羽目になった。
不知火はこの日夕食当番だった僕の作ったご飯を食べ(不知火も美味しいと言ってくれたがお世辞として受け取った)、お風呂当番だった春名の沸かした風呂を借り、寝巻きとして春名が自分の使っている寝巻き用のジャージを借りて着ることになった。
しかしここで問題が浮上する。夕飯時の相席はまだ僕が空気になればいいとして、一つ下とはいえ家族以外の女子の使った風呂に入るなど僕の繊細な自意識が保たない。どぎまぎとそのことを指摘するのも気色悪い。
ここはもう二人の自然な流れに乗る他はないかと思っていると、早々に春名がお風呂当番として「まずは兄貴、次があたし、最後にむーちゃんね。兄貴が使った後のお風呂をしっかりあたしが洗って綺麗にしておいてあげるから、安心して」と割り振りつつ仕切った。
いつもはその仕切り癖に腹を立てているけれど、この時ばかりは正直すごく助かってしまった。ありがとう春名、と心のなかで礼をする。
そして僕は風呂に入った後は早々に自室に引きこもった。そろそろ寝る頃合いかというときに、パジャマならぬジャージパーティーで哲学相談をやろうと僕の部屋のドア越しに春名が提案してきたのだが、体力も知力も底無しどころか底抜けの春名とは違って虚弱な僕は流石に疲れ切っていたので断った。陰の気を持つ僕があんな明るい空間にこれ以上いたら、吸血鬼のように灰になってしまうぞ。
隣室から文字通りの黄色い声が響くなか、僕はいつものようにヘッドホンをつけてオンラインゲームを立ち上げ、オンラインゲームのギルメンに挨拶をしてモンスター討伐のクエストをいくつか達成したのち、二時近くを指していたPC上のクロックを見て、「そろそろ寝ます」とチャットでギルメンに断りを入れた。「乙」「おやすみー」「お疲れー!」などの返信チャットを見守って、ログアウトする。
一息ついて自室を見回す。僕の部屋は勉強机の上に設置した自作PCの他、ただ勉強のための参考書や辞書の類が机に備え付けの本棚に並んでいるだけの質素な部屋だ。
自分でいうのも悲しくなるけれど、友人と撮った写真やらメッセージカードやら、そういった思い出の品など一つもないし、一眼見て趣味や特技の話のネタになりそうな楽器や道具など一つも見当たらない。
僕が小学校のときにこの部屋を割り当てられて以来そのままの、白い壁紙とフローリングが蛍光灯と窓に程近い街灯の灯りを照り返すだけの何もない部屋だ。
久しぶりに入った妹の部屋は、実に対照的というか、予想以上に陽気な部屋だった。ドアを開けてまず目に入ったコルクボードの上には、九〇年代のインスタントカメラで撮影した風に印刷できるアプリを使ったのだろう、友人たちとの少しピンボケした写真がたくさん飾ってあった。
中学時代をこんなふうに楽しんでいたのかと兄としては心を撫で下ろす瞬間でもあったのだけれど、翻ってじゃあ僕はどんな中学時代を過ごしていただろうと思い出すと、頭が痛くなるどころか心が苦しくなってしまう。そんな僕の生態を知ってか知らずか、妹の部屋からは時折笑い声が響いてくる。
(あいつら、まだ喋ってるのか……)
僕は一人、カーボンチェアの背もたれに体を預け、呆けた様子で天井を見上げた。蛍光灯の明かりにつきものの、低周波のような微かなざわめきのような音が聞こえる。
天井をしばらく見上げた後、階下に降りて台所で炭酸飲料でも飲もうとドアを開けた途端、ジャージ姿の不知火が気まずいことに僕とほぼ同時に春名の部屋のドアを開けていた。目が合うなり不知火はぺこりと軽くお辞儀をした。
「あっ、こんばんは。すみません、うるさくしてしまっていましたか」
「いや、ぜ、全然。僕はずっとヘッドフォンかけてゲームをしていたし」
そう答えた僕の言葉が春名にも届いたようで、ドアの隙間から春名の声が聞こえてきた。
「なんだ、まだ起きてたんだったら哲学しに乗り込めばよかった」
「やめろ、人のプライバシーをなんだと思っているんだ。というか二人してずっと話してたんじゃないのか?」
僕が素朴な疑問を呈すると、不知火はいくらか困ったような、でもどこか嬉しいような表情を見せて、頷いた。
「最初は哲学もしていたんですけれど、だんだんわたしとはーちゃんって正反対だねという話になって。お互いの観点の違いについて考える意味合いでも、いろんなことを話し合っていたんです」
「好きなご飯とか、一緒に行ってみたい場所とかね」
「それは至極真っ当な青春の一ページだな。ぜひそのまま良い夜を過ごしてくれ」
僕がそう言って階段を降りていくと、不知火が後からついてきたようだった。
不知火も喉が渇いたのかと思って「何か飲むか?」と尋ねると「あ、いえおトイレをお借りしたくって」と言わせてしまい、思わず僕は「あ、そう」と答えつつ内心壁に自分の頭を打ち付けたくなった。が、それよりも最悪の事態に思い至って冷や汗をかき出した。
(仮に僕が飲み物を取ってリビングに居座っていようものなら、トイレから出てくるところをダイニングテーブルで待ち構えているような事態になってしまう……!)
そこで僕は階段を降りて左手のキッチンに移動すると、冷蔵庫から目当ての炭酸飲料のペットボトルをつかみすぐ階段を登ろうとした。しかしなぜか目の前に不知火がゆらりと佇んでいて、僕は昨日に引き続き「うおっ⁉︎」という情けない声をあげてしまった。
「ど、どうした不知火。トイレなら階段からまっすぐ行ったところに……」
そう僕が告げると不知火は沈黙を守ったままこちらを向いて、小声で話し始めた。
「あの、一つ、気づいてしまったことがあって……」
その真剣な声音に、うわずった僕の態度も自ずと修正された。
「……? どうした、何かまずいことか」そう尋ねると、不知火はこくりと頷いた。
「また哲学の話で恐縮なんですけれど」
「……いいよ、流石に慣れてきた」
あはは、と不知火は照れ隠しなのか苦笑なのかわからない笑いをしたのち、再び僕に向き合った。ジャージ姿でする話ではなさそうだが、仕方ない。
「……お兄さんは先ほど、はーちゃんの《生きる意味には生まれる可能性と失われていく可能性の両方がある》という、生きる意味に変化の幅をもたらしてくれた考え方に対して、《失われ続ければゼロ、ひいてはマイナスになる可能性すらあり得る》という、量的な考え方を提案してくださいました。
その考えを伺ったとき、その量的な変化の観点からいろんなことが考えられそうだと、わたし自身とてもワクワクしました。波のように移ろうプラスとマイナスの間で、生きる意味がわたしの命の生きる過程のなかにどんな風に現れていくだろうかと、自分の人生の変化に応じてより厳密に考えられそうだって。
ですがこの量的な変化について考えていく方向性だと、わたしが追求したい問いにとっては悲しい結果も同時に招いてしまうかもしれないって、はーちゃんと一緒に考えていた間に気づいてしまったんです」
「それは、どういう……?」
そう尋ねた僕を見つめながら、不知火は言葉を紡ぎ出した。
「はーちゃんもさっき考えていてくれていたように、《人間の人生での生きる意味の総量が過剰にマイナスになる場合、ある人間は生きる意欲を失う可能性がある》として、お兄さんみたいに生きる意味の減少のカウントを止めなかった場合のことです。
つまり、《人間の人生での生きる意味の総量が過剰にマイナスになる場合、ある人間は生き続ける意欲すら失う可能性がある》。しかも、そのような可能性が産まれる前から見込まれるなら……」
「……!」
それは、流石に僕でもまずい、と判断できるような可能性だった。
そんな可能性があるなら、その人は産まれてこない方がよかった、つまり産まれない方がプラスになるという考え方にもなる。つまり不知火が直面していた出生前診断の出来事とその判断を肯定することになる。
そしてその判断の肯定こそ、不知火が直面して、問いを抱き始めた事態そのものであるから尚更だ。僕は押し黙ってしまった。
しかしこのとき僕は、不知火のためだけに沈黙していたのではなかった。何より僕自身がずっと生きる意味のカウントを止めることで避け続けようとしてきた事態は、不知火が直面していた事態と観点は違えど同じものだったんだと、ふと自覚してしまったからだった。
そうだ、僕は僕なりにその事態に直面していた。ずっと直面していたといっていい。
子どもらしくないと言われる冷めた目線、冷めた考え方。
大人になろうと身につけた、大人びた言葉遣い。
みんな一緒に、みんなで楽しく、活発にと訴えてくる教師や学校の空気が嫌いで、クラスメイトたちも本当はそこまで仲良くもないのに、「あいつ冷たいよね」という言葉で自分たちは暖かい人間で仲間を大事にする人間だという空気を醸し出していく、その姿勢の裏側にある欺瞞や馴れ合いや甘えが苦手だった。
でも、僕だって友達が欲しくないわけじゃない。遊びたくないわけじゃない。
ただ、グループの一員としてでもクラスの一員としてでも、学校の児童の一人としてでもなく、自分として、自分が遊びたい人と一緒に遊びたかっただけだ。
わがままな願いだと人は切り捨てるかもしれないが、子どもにしてみれば学校と遊びが世界の全てだ。幼稚園のときは満たされていたそれが、この場所で満たされるだけでもどれだけ居心地がいいか……。そんなことを席に座りながら窓の外を見て考えてしまう、地方に暮らす一年生にだってふと、こんな問いが浮かんでもおかしくはないんだ。
(なんで僕はここにいるんだろう? もしここじゃないところに生まれていたら……)
「……お兄さん?」
不知火の心配そうに僕の顔を覗き込む姿に、我に返る。いけない、いけない。自分で勝手に過去の黒歴史の扉をパンドラよろしく壮大に開けるところだった。
「ああ、ごめん、大丈夫だ。その……、生き続ける意欲が失われる、産まれる前から見込まれる可能性があるっていうのは、確かにそうだな」
「はい……。なので、先ほどはーちゃんと一緒に考えていた間も、この可能性に二人して行き着いてしまって。でも、そこから先へ向かう答えが見つけられなかったんです。
そんなときに、はーちゃんが一旦休憩しようと言ってくれて。どんなご飯が好きか、どんなところに行ってみたいかなど、楽しいお話をしてくれました。ですが、わたし、この生き続けることを選択する難しさについてずっと考えていて……。
でも、お兄さんの観点が間違っているという話ではないと思うんです。わたしが追求したかった結末の一側面を見えるようにしてくれたのは、お兄さんの考え方でしたから。ですからまた、ご一緒に考えたいと思っていると、お伝えしたくって」
「そう、か……」
不知火はそう言ってくれているが、しかし良かれと思って提案してみた僕の考えが、不知火の悩みをさらに深めてしまったのかもしれない。
僕はどうするべきだったんだろうか。そもそも彼女たちの問いに、答えない方がよかったんじゃないかとすら、このときの僕は考えていた。
僕がしばし沈黙していると、階段越しに「むーちゃん、大丈夫? トイレの場所わかる?」と春名が不知火を気遣う声が聞こえてきた。不知火は「だ、大丈夫! さっき教えてもらったから」と応えて、僕に「では、おやすみなさい」と告げつつお辞儀をして、玄関近くのトイレへと向かった。
そして僕は泡の立ち上る炭酸飲料を持ったまま、夜の自宅の階段を登り自室へ戻っていった。眠るまでいつもより時間がかかった、気がする。




