3.哲学する方法
気付くと、なぜか僕は妹の部屋で横になっていた。あれ……なぜだ、なぜこんなに疲れているのだ。頭も体も全部、限界まで使い切ってしまったように感じる。自分の部屋と似た天井から顔を横に向き直ると、急に視界が遮られた。
「………………」
「…………すー、すー」
「………………?」
「…………すー、すー」
「うわぁ⁉︎」
思わず飛び起きた。なぜ不知火が僕の目の前で寝ているんだ。
異性の友人もいない僕には刺激が強すぎる。心臓が早鐘のように鳴り響いてうるさいことこの上ないなか、背後から呆れた声がした。
「なにしてんの、兄貴」
「うおっ⁉︎」
おやつを運んできた妹による背後からの下段蹴りに、ちゃぶ台を挟んで不知火と相対して寝転んでいた僕は見事に狼狽えた。
「せっかくの哲学同好会最初の日なのに。変なことしてないでしょうね!」
「していない、していない、決してしていない! 兄の清廉潔白さを今おまえに見せてやりたいくらいだ。いや悔しいな、なんでこの心の清らかさをお前に直接つたえられないのか」
「別にそこまで弁舌してもらわなくてもいいよ……。それより、何か前に進める手がかりとか、切り口とか思いついた?」
「あ? 一体なんの……。あぁ、そうか、記憶が蘇えってきた」妹が小さなちゃぶ台の上の木製のボウルにビスケットにクッキー、チョコレートなどの大量の菓子を投入していくのを眺めながら、僕のなかで回想シーンが始まっていた。
いま横で寝ている不知火無題が、僕の意見を聴いて創部を取り止める代わりに交換条件を提示してきたのだった。
つまり、哲学相談部の創部改め、哲学同好会の不定期開催である。
聞いてみると、不知火は別段、部としての形態にこだわってはいないようだった。むしろ創部はこの県下から集まる多地域の生徒たち、教諭たちのなかに自分と似た関心を持つ哲学好きがいないかを探そうとしていただけらしい。要は同好の士探しだ。
それ自体は別段悪いことでも何でもないけれど、ひとの悩みやら生きる意味やらのことを勝手に掘り下げるような相談を承るというのは頂けないだろうと僕が諭すと、不知火は呆気ないほど「そう、ですよね」と苦笑して取りやめた。
詳しく聞いてみると、哲学相談という名称にしたのは妹らしい。不知火と話して自分の悩みが解消されたものだから、みんなに不知火ともっと話してほしい! というはた迷惑なプロデューサー根性を発揮して、そのように命名したのだったそうだ。その顛末を聞き、僕は平身低頭謝罪した。
ともあれ、不知火としては問いをともに考えてくれ、そして哲学をともに愉しんでくれる人が居ればそれで十二分らしい。そんなシンプルな願いだったのかと驚いていると、更に驚くことに不知火は先ほどの僕との会話をきっかけに、僕と一緒に考えてみたいと思ったのだそうだ。
別段特別なことを話した覚えもないのだが、不知火としてはきちんと自分の主張を持っているという風に映ったらしい。そんなに自分の意見なんかが大事かと僕は訝っていたのだが、ともあれ不知火は僕に一緒に『命の意味』について考えてみてほしいと詰め寄ってきたのだった。
そして僕は、その詰め寄りに何と言うことはない。負けてしまった。
不知火の悩み自体は言うまでもなくどんなミステリーよりも謎めいたもので、手のつけようがないどころか手を触れずに済ませたい類のものだったが、迷惑をかけたくはないという以上節介を焼くのも一興かと考えてしまったのだ。
さて、大変だったのはここからだ。このやり取りのあと部室に闖入してきた春名は、僕と不知火が部室にいることを観て当初は喜ぶも、しかし創部を取り止めるという意見を不知火から聞いて「むーちゃん、どうしたの⁉︎」と困惑、のちに「兄貴が何か言ったのね」と僕に怒りの矛先を向けありもしないこと(脅迫したのかセクハラしたのか等々)に想像をたくましくしたのちに糾弾。
その糾弾のすべてを不知火が「ううん。はーちゃん、違うの」と留め、僕との会話をこれまた的確に要約し、自分の意見も載せて、「お兄さんがわたしの命の意味について、一緒に考えてくれたらと思ったの」とまとめた。
妹の毛髪が着陸後のジャンボジェットのエンジンのように徐々に落ち着きを取り戻していく様を観て胸をなで下ろしていると、この感情直観型の妹はこんなことを宣った。
「じゃあこれからむーちゃんの哲学相談やろうよ‼︎ もちろん、兄貴と一緒にさ」
果たして、僕はそんな風に第一回哲学同好会に巻き込まれてしまったのだった。入学以来ずっと帰宅部だった僕が初めて耳にした下校時刻の鐘が鳴るまで巻き込まれるにいたって、僕は正味なところ辟易としていた。学校での議論では決着がつかず、僕たちは妹の部屋で、つまるところ僕たちの家で延長戦と相成ったわけだった。
僕は別段急ぐ事案でもないから明日以降でもいいじゃないか、ゆっくり考えていけばいいと断固反対したのだが、気分が盛り上がってしまっている春名と友人宅に泊まることなど初めてだという不知火に、あいなく押し切られてしまった。
やってみたことがない人が大半だろうから伝わるかわからないが、「命の意味」「生きる意味」そのものについて考えれば考えるほど、訳がわからなくなる。
そもそも生きるということがどういうことか、考えてみると意外によくわからないことばかりだということにあきれた。
いのちはどこから生まれたといえるのか(受精卵に意識はあるのか? わからない!)、どうなると死んだことになるのか(脳死は死なのか? それもわからない!)。
そもそも『命の意味』や『生きる意味』が何を問うているのか、生き方なのか生まれ方なのか死に方なのかその全てなのかなど、ひとつひとつ考えてみると「生きる」という言葉も「意味」という言葉もかなりあいまいなものだった。
曖昧なものを四角四面に仕上げようとするから変なことになるんじゃないか、わからないことをわからないものとそっとしておくのも一つの知恵じゃないだろうかとこれまでの議論のちゃぶ台返しを僕がしてみると、不知火はこう宣う。
「だからこそ、わたしたちにわかることはきちんとその理由から分かりたいし、わたしたちにわからないことの理由もきちんと考えたいんです」
一見純情可憐な哲学少女の訴えのようにも思えるが、こいつの出してくる問いが押し並べてラジカルで激重であることを考えると、むしろ体育会系的な臭いがその主張に漂ってくる気がするから不思議だ。
以上、回想終わり。
「むにゃ……あれ……? はっ、あっ、ご、ごめんね、はーちゃん。わたし、すっかり寝ちゃってたみたい……」
「いいよ、いいよ。あたしも無理やり連れ込んじゃったし。むしろごめんね、こんな痩せ狼と一緒に居させて」
「そんな……大丈夫だよ、お兄さんは真摯な人だよ」
「そんなジェントルマンには見えないけど、まあいいや。お菓子食べてまた哲学やろ!」
同音異義語で微妙に混線しているのを横目に、僕は妹が持ってきた夕飯を咀嚼しながら、不知火がこれまでの相談のなかで話してきたテーマについてまとめたノートを眺めていた。
どれどれ。「生きようとすることと、ただ生きていることとの違いはあるのか」「命は選ぶものか、与えられるものか」「体は生きているけど、心が死んでいたり脳が死んでいるときは死んでいることになるのか」「生きる意味はどんな時に満たされるのか、失われるのか。そもそも満たされたり失われたりするものなのか、ずっと持続するものなのか」云々。
僕はこんなことを何時間もぐるぐると考えていたのかと思うとひどく憂鬱になる。労苦を永遠に繰り返すシジフォスに激しく共感することこの上無しだ。
「にひてもは、やっはりひひるほほにふいへはんはへふほ、むふはひーへ~」
「ちゃんと飲み込んでから喋れ」
「ふふ」
「なにがおかしい」
「あ、いえ、素敵だなぁって」
「へんへんふへひひゃないよ」
「だから飲み込めって」
「ごめん、ごめん。でも『生きること』って凄いね、一見当たり前のことだけどじつはぜんぜん当たり前じゃないし、考えれば考えるほどよくわからないよ」
「だからそんなこと考えなくともいいと何度も言ってるだろう、ただ生きてりゃいい」
「だから、そのふつうに生きることの『生きる』ってことがわからないんじゃない」
「ぬああ、面倒くさいなぁ……!」
「難しい、ですよね……」
もはや僕たちだけで考えるのには無理がある。こうなれば……。
「仕方ない、最終兵器だ」
「……最終兵器って、それ?」
「そうだ、先人の知恵を辿るのは後裔たるわれわれの義務であってだな」
「ググってるだけじゃん」妹はにべもなく僕の操るスマートフォンを見遣りながら呟く。
「何を言う、先人の知恵を現代に遺さんと懸命に活動しているひとの成果をだな」
「ユーチューバーからパクろうとしてるだけじゃん……」
「なんだと! お前なあ、哲学というからには学問なんだろ? 参考になる知見を頂こうとする僕の振る舞いのどこが悪い」
「悪くはないのですが……」不知火までも何か可哀想な人を見る眼で僕を見つめる。
「そこに挙がってるの、ほとんどなんか怪しげなページか、悩みぶちまけページか、知恵袋的なものしかないんだけど」
「むむう」確かに、生きる意味などと検索してみたり人工知能に相談してみた結果のまとめを探してみたりしたが、なかなか不知火を納得させられそうないい知識がない。
「兄貴、やっぱりグーグル先生に聴いてもわからないって」
「じゃあ、ちゃんと哲学の仕方を教えてくれよ! 数学とか科学みたいに、なんかしらの方法はあるんじゃないのか?」
そう言ってから、僕は少々しまった、と思った。不知火と春名が顔を見合わせ、隅田川の花火もかくやと思われるほどの笑顔で僕に迫り、同時に発言してきた。
「それだ‼︎」
「それです!」
二人はいきなり立ち上がると、周りにある本をペラペラと捲り始めた。
「なーんで忘れてたんだろう!」
「ほんとうに!」
「兄貴、ナイスアシスト! 明日の朝刊にデカデカと見出しになるレベルだよ!」
「そんなことで衆人の耳目を驚かせたくはないが、哲学の方法ってそもそもあるのか? 実際どんなものがあるんだ?」
「方法っていうか、うーん、どうしよう。前にむーちゃんからいろいろあるよとは聞いていたけれど、何がいいのかな」
腕組みをして唸りながら考えたふりをしつつ不知火にパスを渡した春名を横目に、不知火が不意に僕の方に視線を寄越しながら、教室のなかで教師に当てられない程度の高さで挙手するときのようにゆっくりと、こちらに手を挙げた。
「あ、あの実は……」
「ん、どうした」
「知ったときにはうまくできなかったんですけれど、ぜひ一度誰かと実践してみたいな、と思っていた方法があるんですが……」
それを聞いた僕は、昭和のデフォルメ漫画もかくやといういうほどのリアクションでがくっとずっこけた。
「そんなもんがあるならはやく言ってくれ!」




