2.空き部室の邂逅
「はい」
「えー、僕は齋藤というもので。春名の兄です。ここは哲学相談同好会……、で合ってますか」
「はい、合っています。どうぞお入り下さい」
僕はそのか細い声に促されて、その薄暗い部屋のドアを開いた。その中では妹の部屋に置かれたものと同程度にぎっしりと本が積み込まれた本棚が壁を埋め尽くしていたが、むしろ一番印象を引くのは、おそらくこの部室棟に不似合いな古びた赤いソファである。さらに、そのソファの上にひとりの女子生徒が腰掛けているとなればなおさらだ。
チェック地のブレザーが似合いすぎる、灰色の長髪。
背は僕と同じくらいだが、その纏う気品が段違いだ。
前髪も背中に流れる毛束も同様に毛先がすこしばかり柔らかく波打っていて、まるでアール・ヌーヴォー時代のポスターから出て来たんじゃないかと思うくらいの出で立ちだ。
黒いタイツを履いていて新品の上履きとどうにも不似合いな気がするが、それでも品の良さを感じさせるのは、この女子生徒がいまソファに腰掛けながらこの世代の生徒の大部分がおそらく見たことも聞いたこともないような分厚い単行本を読んでいるからなのだろうか。
不知火らしき女子生徒が、本から僕へと視線を移し、音も無くソファから腰を上げる。
「……あなたが、はーちゃんのお兄さん?」
はーちゃんというのは、小学校時代からの春名のあだ名だ。
「あ、ああ。えっと、不知火……無題さん?」
「はい。わたしが不知火無題です」
はじめまして、はーちゃんのお兄さん。と、その女子生徒は楚々とした笑顔を浮かべながら僕に告げて、軽く会釈した。
その様子を見ながら、ほんとうに「無題」という酔狂な名前を付ける親がいるのだなと内心驚いていた。しかも一見実に無害そうで、図書館や図書室に通い詰めてこの青春時代を過ごし切りそうな穏やかな女子生徒という印象だ。
そんな心象に心を持っていかれそうになったので頭を振り、心中にある雄の心を改めて握り締めながら僕も軽く会釈して続けた。
「どうも。春名が世話になったみたいで」
「いえ、お世話なんて。むしろわたしの方がお世話になっています」
不知火はソファの前に佇んだままぺこりと会釈をした。会釈を終えた後には、少女漫画もかくやというほどの花々が周囲に咲き誇りそうなほどの笑顔を、楚々とこちらに向けた。
「……」
「……何か?」
「いや、想像していたのとちょっと違っていたから。悪いけど、じっとりと暗めの人間を想定していて」
「そう、なんですか?」
「うん、哲学とかやってるって聞いていたから」
この、刃の鋒を向けるような言葉に不知火は一瞬戸惑いながら、しかしその刃を収めるよう諫めるような苦笑で応えた。「……それは、哲学には暗いというイメージがあるから、わたしも暗いひとなんだろう、と想像していたということですか?」
「まあ、そうかな。生とか死とか、じめじめしたことをうじうじ考えているような、暗いやつなんじゃないかと思ってた」
僕は少し、邪険にするように強めに言った。僕はこの辺鄙な部屋に、妹と我が家の将来を救うために来ているのだ。哲学相談などという営みに齋藤家を巻き込まないで頂くために来ているのだ。しかし。
「ふふ、そうでしたか」
……今度は苦笑でなく、笑った。不知火はまるで友人の軽い天然ボケかなにかに直面したときのように、くすりと明るく、笑った。
「確かに哲学は、じめじめしたことを、うじうじ考えているところもあります。それこそ人生全てをかけて、うじうじ考えていた人もいました。でも、それ以外の面も、またさまざまあるのです。そうした面についても知って頂けたら、わたしはとても嬉しいです」
不知火は小首を傾げ苦笑しながら、僕にそう告げた。
おそらく、この高校のほとんどの男子生徒は、こんな風に言われたら哲学など微塵も興味が無くとも入部してしまいたくなる欲求に駆られることだろう。しかし僕は踏みとどまった。
「申し訳ないけど、僕はその哲学とかに興味はないんだ。考え事なんて、何の役にも立たないどころかむしろ人を迷わせたり狂わせたりするじゃないか。要らないことを考え込むより、日常的なこととか社会的に役に立つことをやってる方が、良いと思うけどな」
不知火は、きょとんとした顔で僕を見つめている。
「哲学は、日常的なことや社会的なこととは関係ない、ということですか?」
「ああ、僕も詳しいわけじゃあないけど、なぜ生きるのかとか、生きる意味は何かとか、考えるんだろ? それで人が救われるわけでなし、医療のように救命したり福祉のように支援したりするわけでなし。そんなことを考えてるくらいなら、世間の役に立つことを考えてる方が何十倍も良いと思うよ」
不知火はちょっと考えて、告げた。こういうことをノータイムで言えるところに、末恐ろしさを感じる。
「お兄さんは……赤ちゃんを見たこと、ありますか?」
「へ?」
急に何を言い出したんだ? 赤ちゃんを見たことがあるか? それが哲学となんの関係があるんだ。しかし一応乗っておいた。
「いや、全くといってない。身近で出産をするような親戚もいなかったから。あんたはあるのか?」
「わたしも、まだないんです。けれど、わたしが小学生のころ、年の離れた姉が妊娠して。わたし、はやくもおばさんになるところだったんです」
「へぇ。……なるところ……だった?」
「…………」
不知火は黙ったまま、俯いている。
「……まさか、亡くなった、とか」
「……ええ。姉は……堕胎したんです」
僕は、絶句してしまった。その様子を見ながら、不知火は続けた。
「先天性の障がいを持って生まれる確率が高いと、分かったからでした。いまは調べれば、そうしたことが分かるみたいなんですね。それで姉とそのパートナーさんは、すごくすごく、小さいわたしでもわかるくらい悩まれていましたが、結局、堕胎することを決意されました」
「…………」
聞いたことは、ある。そうした選択ができるようになったとか、それを選ぶ人も出てくるようになったとか。確か国営放送の特集かなんかでやっていた。しかし、そういう話が哲学となんの関係が……。
「涙を流している姉にわたしからは、何も言えませんでした。でもわたし、生まれ育った母方の実家の山中でとても親しかった子の一人が、生まれつきのハンディキャップを持つ子で。いまでもメールでやりとりしたり、実家にかえるお盆のときは仲良く一緒に沢に生えた菜の花をとったりして遊ぶこともあるんですが」
「……」
「……小さいながらに、なんでだろう? って、わたし、思ったんです。生まれて良い命をひとが選ぶことって、確かにそれまでの歴史でもたくさんあったと思います。姉を責めたいわけでもないし、いまは社会を責めたいわけでもないんです。
でも、どうしたらよかったんだろう、そもそも生まれなくていい命なんてあるのかな、選択されなきゃいけない命なんてあるのかな、選ばれた命しか生き残れないのかなっていうこの問いが、……頭から離れなかったんです。
それでわたしはいろいろと調べました。読んだことがないような本とか、小学生でも分かるようなものがないか、色々さがしてみたり、総合の時間で好きなことを調べていいと言われたので、先生に頼んでお医者さんに連れて行ってもらったり、いろいろとしました。
それでも、答えは出ませんでした。なぜなら、誰も、答えを持っていなかったから……」
「……」
「わたしはびっくりしました。大人って、みんな正しい答えを持ってるものだと思っていました。けれど、そうじゃなかった。それなのに、どんどん、いろんなことが進んでいく。そのことに、小学生のときのわたしはとても恐くなったんです。
その恐怖を、わたしはお医者さんに打ち明けました。するとお医者さんは、きみがやろうとしているのは、哲学かもしれないねと話してくれました。そして紹介してくれたご本のことをわかりやすく解説してくれて、確信しました。
そうか、わたしは『命の意味』について、考えたかったんだって」
「…………」
僕は何を言えるのだろう。この内言が反語であることは言うまでもない。
「お兄さんは、哲学って暗い、とおっしゃりました。確かに暗いところ、たくさんあります。たとえば死のような、ひとが逃げたり、見ないふりしたり、考えないようにしたりすることだったりしても、哲学者たちは正面からなぜと問いかけていくので、わたしたちも一緒にそうした暗く深いところに進んで行きます。
まるで、誰も踏み入れたことのない洞窟の暗闇のなかを進んでいくかのように。
有名な哲学者が見つけた答えでも、そのあといろんな哲学者たちがそれぞれいろんな立場や考え方を持ち寄って分析して、批判しあっていくなかで、その答えのメリットやデメリットがわかってくると、おいそれとこれが真理だ、これが答えだとみんなに手渡せるものではないって、わかってきます。
それがずうっと昔から、絶えることなく続いてきている……みんな手探りなんです。……誰も、答えを知らないから。みんな、答えを知りたいから」
不知火は、おそらくその手でずっと読み進めていったのであろうさまざまな本のことを思い浮かべつつ、自分がソファの上に置いていた書籍の方に近寄って手に取り、その背表紙を愛おしそうに撫でた。そしてその本の頁をぱらぱらと広げながら、続けた。
「でも、哲学が考えることは、死のことだけじゃありません。たとえば恋愛のことも、社会の未来のことも、これからの自分のことも、すべてその深く暗いところから、考えていくんです。だから、やっぱり暗いことや、ひとが見たくないところやタブーとされているところにも足を踏みいれたりもします。
もちろん、そうして足を踏み入れて手にしたもののすべてが、日常的なことや社会的なことの役に立つわけでもありません。けれど、哲学は少なくとも、答えのない欠落をなんとか埋めようともがく、ひとの営みの一つなんだろうと思うんです」
僕は、沈黙を守りながら腕組みをしつつ、不知火の長演説をしっかりと聴いていた。
内心では、「いきなり会ったやつにこんなこと語られても重いよ!」と叫んでいたのだけれど、しかし彼女がどんな意図であれ、いや、思い切り率直に、彼女が大事にしてきた哲学についての、彼女なりの考えを伝えたかったのだろうと思うと、こいつは本当に凄まじいやつなのだと感じた。
僕の小中高と続く学校生活で出会った誰よりも、真剣に生きてるんじゃないか?
だが、だからこそ。
すごいと同時に、危うい。
とても、非常に、これ以上ないほどに危うい。うまくいえないながらも、その危険信号の示すものについては全僕の同意が得られたため、僕は心が痛みながらも、こう切り出した。
「……不知火さん。不知火さんは本当に哲学が好きなんだな。
しかも、ただの好きじゃない。それで生き延びてきたんだろうな。
その問いにすがって、これを考えることができなければ生きていけないってくらいに。
それくらい本気で考えてくれるひとがいるっていうのは、社会にとってもすごく大事なことだろうと僕は思うよ」
不知火は、僕の方をじっと見つめながら、僕の「大事だ」という言葉を聴いて、すこし、いやかなり驚いたようだった。その様子に逆に僕が驚いていたのを察してか、不知火は少し照れながら手櫛で髪を整え、そして、ありがとうございますといって微笑んだ。不知火のなかで、すこし心が緩んだようだった。
しかし僕は、伝えなければいけない。
「でも、悪いけど……春名も僕も、この部活には入らない。というより、少なくとも春名は入れてはならないと思う」
「……なぜ、です?」
不知火は、僕の言葉に多少傷付いたようだった。その様子で、僕はすこし邪推した。この子は、やはり仲間が欲しいのかもしれない。哲学相談といいつつ、自分のなかの悩みを一緒に考えてくれるような仲間を。ならば一層、伝えなければいけない。
「あいつは口は立つし論も立つけど、相談などできる柄じゃない。相談に来たやつを、親身になって話を聞くという体でそいつの一番触れて貰いたくないところに触り、突き刺し、解剖台の上に載せてしまうような、まあそんな無粋なやつなんだ。
もし不知火さんが哲学相談をするのなら、悪いことはいわない、あいつを部に引き入れるのはよした方がいい。おそらく怪我人がでる。身体的にも、精神的にも」
「……」
再び、きょとんとした顔で僕を見つめる不知火。
「……反論があれば言ってもらった方が、僕も気持ちがいいんだけれど」
「いえ、ほんとうにはーちゃんの言うとおりの方だなあ、って」
また、ふふ、と笑って、少し切れ長の眼が緩む。あいつ、何をいいやがった。
「お兄さんは、とても優しい方だって。方向性が明後日の方向に間違っていることもあるけれど、家族みんなのことを気遣っている方なんだと」
……聴いたこと無いな、そんな評価。しかも褒めているようでなかなかに失礼だ。
しかしともあれ。
「……気持ち悪いことを言うなあいつは」
「気持ち悪いですか?」
「気持ち悪いだろ、兄妹で兄に対して妹がそんなこと言ってたら……兄妹は互いに蔑み合ってなんぼだ」
ふふ、とまた不知火は笑った。意外に笑いやすい子なのか?
「何がおかしい」
「だって、いまお兄さんがはーちゃんについて話して下さったことも、形は違えど、はーちゃんと似た心遣いの気持ちがこもっているように、わたしには感じられましたが」
「考えすぎ、かつ買いかぶりすぎだ。僕は我が家の平穏のため、なにより僕の平穏のために、ここに直談判に来たのだから」
「……? わたしに御用ということでしょうか」
「察しが早くて助かる。いろいろ迂遠なことを言って悪かったが、率直に言う。春名をあんたの活動に巻き込むのは辞めてくれ」
その言葉を聴いて不知火は、真剣な顔つきになった。軽く怯んだが、僕は続けた。
「……あいつはおかしなとこもあるが、あんたとは違う、普通の人間だ。あいつが普通に生きて普通の幸せを享受できれば、うちの家族は万々歳なんだ。
うちの両親は特にそうした願いが強くてな、思想や宗教めいたことに嵌まって生活や人間関係が崩壊して人生がめちゃくちゃになった実例が親類にいるもんで、けっこう敏感になってるんだ。言わずもがな、僕もそうしたことに敏感になってるんだと思う。
また更に言えばだが、うちの学校のほとんどの生徒や先生方にも、進路選択に当たっては世間一般のお決まりのライフプランしか頭のなかにないだろう。
そんななかに哲学的な問いを提案でもしたら、おそらくいろいろ傷付くことになる。そこにもし妹が巻き込まれでもしていたら、僕も迷惑を被ることになる。
つまりあんたの活動によって、僕は家でも学校でも迷惑を被ることになるんだ。
僕は平穏無事に暮らしたい、ただそれだけの人間だ。
僕は僕のために、この活動にストップをかけるためにここに来た。
悪いけど、こうした活動は少なくとも学外でやるかしてくれ。僕も……あんたのことすべてを非難したいわけじゃないんだ」
不知火は僕の陳述を、真摯に受け止めていた。ずっと、僕への目線を外さない。僕は不知火に話しながら思わず、「こんなに、僕の言葉を真剣に受け止めたやつが、他にいただろうか」と悲しい言葉が不意に心の中に浮かんだが、いまはこいつを説得しなければいけないとその想いを密かに鎮めた。
「……とりあえず、僕の陳述は以上だ。何か意見があれば聞く」
僕はじっと、不知火を見つめた。叶から聴いたことを思い出しながら、どんな弁舌が襲ってくるのかと、軽く身構えていた。
「……つまりは、わたしの活動で、お兄さんのご家族やご学友に、公的にも私的にもご迷惑がかからなければよい、ということでしょうか」
「ま、まあ、そういうことだ」
敵視も弁解も無く、あっさり要旨をまとめられてしまった。
「……承知しました、では……」
そう言って、不知火は僕の方に近付いてきた。僕の目の前までつかつかと歩いてきて、本当に目の前で止まった。
か、か、か、顔が近い!
女子が自分に対してこんなに接近した経験なんてない!
かなり慌てふためいてしまい思わず後ずさったのだが、この狭い部室の煤けた壁にぶつかった僕の踵が、もう僕に逃げ場の無いことを告げていた。
今この場に全く事情の知らないやつが来たら、不実で軽薄そうな男子が清純で潔白な女子にとある過失を咎められ、その責任を追及されているのではないかと思うことだろう。
一見そんな状況と見られかねない態勢にあることなどお構いなしに、不知火は僕に向き合い何の衒いも無く真剣に、しっかりとした声音だが小さな声でこう尋ねた。
「お兄さんは、わたしと探してくれますか?」
「な、なにを」
「……わたしの、命の生きる意味を、です」




