1.幼なじみは化学教師
不知火無題。
聞けば、妹が哲学にはまりこむきっかけを与えたのはそんな巫山戯た名前のやつだった。
ただでさえ胆力も熱量も地頭もある妹だ、これまでは反抗心と敵愾心故の言葉の暴力だったけれど、人生の意味などという厄介なテーマで家族を詰問し人生の理想を語り尽されては大仰でなく家庭崩壊だ。
父も母もこう言っては悪いが、僕や妹の件もあり世間の声や社会の厳しさということに敏感なことにかけては群を抜いている。
哲学みたいな世間でも社会のなかでも意味があるんだかないんだかわからないようなことに取り組むイメージなど、二人の心中にあるわれら兄妹の未来予想図のなかにはミジンコほども描かれてはいないだろう。
もし妹が哲学にかぶれていることをわかられでもしたら、昭和の時代から抜け出すことのできない父親はそれで就職は有利になるのか、いまだに封建社会を生きている母親はお嫁に行けるのかという質問を彼女に遠慮しつつも回りくどく質問してくることだろう。
そしてその質問を取って返して射るような豪胆な感性と知性をあの妹は持っている。
一度戦火が切って落とされるなら、ただでさえ幼児期にしか実現されたことのない家族団欒が大戦下のノーマンズランド、あるいは天下分け目の関ヶ原かと見間違うほどの悲しき我が家になることは火を見るより明らかだ。
究極的にはどちらも風の前の塵に同じ、と虚無を決め込んでもそれこそ意味のない問題というものが確実にこの世には存在する。
なんとしてでも感情的な危機に我が家を落とし込むわけにはいかないのであると、義侠心たっぷりに鉄砲玉よろしくこれから不知火何某というやつのいる部室へと踏み込もうとしている我が身の献身ぶりを僕はひっそりと賞賛した。
別にいいじゃないか、こんなことでだれも褒めてくれるやつなぞいないのだ。……言ってて悲しくなるけれど。
こうして僕はまったく仕方なく、嫌々ながらしぶしぶと、その「哲学相談同好会」という奇矯なクラブ活動が行われている部室棟の方へと、その足を向けていた。
帰宅部のなかでも随一の帰宅速度を誇る僕が、駅前の古巣ゲームセンターで必ず格闘ゲーム大会の催される、偶数月の第三金曜日だというのに数少ないゲーマーの同胞たちからの誘いを断った。
教室から部室棟の方へ向かうのを見て頭に彼らがハテナマークを浮かべていたのを尻目に、僕は校舎の二階から階段を降り体育館から部室棟へと通じる渡り廊下を進んでいた。
その折だった。
「あれえ、舜くん」
僕は聞き覚えのあるハスキーな声で自分の名前を呼び止められ、立ち止まる。
「おかしいな、こっちは玄関口ではないけれど。友人と一緒にいてもわざわざ一人になって人に面倒をかけるあの孤独を愛する君が、もしかして部活に入る気になったのかい?」
僕は頭を抱えることも欧米人よろしく肩を上げることもせず、ただ白々しいため息を、圧を込めて吐ききった。
「はぁ、なぜここで会うかな」
「それはもちろん、ぼくが将棋部の新顧問であり、これから全力をもって迎えるべき新入生歓迎将棋トーナメントの準備をしていたからだね。きみもようやく今後成長著しいこと間違いなしのわが部に入る気になったのかな?」
「いいや、まったく。叶先生、申し訳ないがいま行かなければいけない場所があってだな」
「いいよ叶で。幼なじみなんだしさ」
「その設定を言うな、いろいろ面倒になる」
ジムか何かに通っているのか、鍛え上げられた褐色の肌で夕暮れの学校の日差しを跳ね返しつつ、マッシュウルフで外側に跳ね続ける毛髪と白衣を揺らして歩いてくる、細身ながら心身ともに健康かつ優良である事が傍目にもわかる化学の女性新米教師は、なんの因果か僕の六歳上の幼なじみだ。
単純に生家がお隣さんで、叶がここの卒業生だというそれらしい理由もあるにはあるのだが、こいつが僕のクラスの担任というのには腐った腐れ縁の嫌なにおいを感じる。
僕たち兄妹は幼稚園から小学校入学くらいまで、叶発案の「実験」と称した過激な遊びに巻き込まれて弄ばれ続けていたこともあり、かつてはあまり近寄りたくない相手だった。
叶が中学に進学してからはやつとはすこし疎遠になったけれど、高校、大学と進学したあとは叶自身も僕たちのことなど忘れたかのように同世代の学友たちと駅前ではしゃいだり、地域の大人たちに混じってお祭りの後援会に参加しているのを見かけたこともある。
田舎の噂づてに聞けば、人の輪の中心にいるというタイプではないが、どこか困ったことが起きたかと思うと事前にさりげなくフォローをしてくれるという評判が立っていた。いわゆる、自然と多世代全方向に気配りを行えるコミュニケーション強者だ。
事実、僕が去年この高校に入学した年の初夏のころ突如叶は教育実習生としてやってきたのだけれど、ちょうどタブレットや電子黒板などのICT教具の本格導入に際して困り果てていた我が門倉高校の生徒と教師双方からの信頼をたった二週間の実習期間で見事に勝ち得ながら、実習期間を終えて「どうか帰らないでくれ」と校長、教頭、教務主任たちから惜しまれつつ去っていったのも記憶に新しい。
本人にも名残惜しさなどがあったのだろうか、叶はあろうことか翌年そのままこの県立門倉高校の新任として赴任してきた。まったく異例の人事らしいが、近頃ベテラン教師がどんどん定年を迎えていることもあり教師が世間的にも人不足のため赴任することになったのだというのがその表向きのエクスキューズだったと聞いている。
叶はここへの赴任が決まった日、きみのいる間に教師として来ることがてきて本当によかったよと久方ぶりに僕に話しかけてきたのだが、まあそれはまた別の話だ。
「ねえねえ、よかったら手伝ってくれない? いろいろ準備するものが多くてさ、このトーナメント表だけでももってくれないかなあ」
「いやだ」
「食い気味で否定しないでよ~、ひどいなあ」
「すまん、家庭の危機を防ぎに行かなければならないんだ。時間が惜しい」
「え、なにそれ。それならぼくにも関わりのある話じゃないか、なにがあったんだい? 幼馴染との幼い頃の約束を忘れたとは言わせないよ?」
「お前には微塵も関わりのない話だし、幼い頃の約束なんてどこにも実在しないまったくの虚言だ。まったく詭弁ばかり昔からダムの放流のようにながすやつだな」
「あっはは、きみの切り返しも相変わらず心地良いな! まあまあ、ともあれ部室棟にいくならぼくも一緒に行こう、話を聞くぐらいさせてくれよ。これでも担任なんだからさ」
「…………」
「そんな長年の宿敵を見るような眼で沈黙しないでよ……」
「……わかったよ、叶先生も何かよい案をもっているかもしれない。ここはひとつ生徒の相談にのってくれ」
「もちろん! そのためにぼくはここに来たんだからね!」
そう笑顔をむやみに輝かせて、クラスの担任である叶が僕の部室への道中に加わることになった。
「哲学相談同好会? 聴いたことないなぁ。おそらく申請して間もないか、これから創部するというところなのかな?」
将棋トーナメントの用紙を将棋部の部室に置いた叶は、その哲学相談同好会なる部活動の拠点となるはずの部屋へと案内してくれた。
部室棟は学校の裏門にほどちかい三号棟の裏口側にあり、プレハブとは言わないまでも少々古びたコンクリート造の二階建ての建物だった(入学以来一度も訪れたことがなかったため、僕は本当に場所も配置もよくわからなかった)。
そして春名から教わっていた部屋番号は、去年までは被服部が活動していた部屋だったらしい。なかの設備は怠慢故なのか人手不足故なのかわからないが、被服部が使用していた当時のままだという。
「創部するところなんだそうだ。詳しくは知らないが、妹とその同じクラスのクラスメイトとで創部をするということなんだが……」
「それは人数が足りないね。少なくともあと二人は必要だ。おそらく人数集めにお兄さんを使おうという魂胆なのかな? さすが春名ちゃん、戦略家だね」
「戦略というより単なる思いつきだろう? むしろ聴きたいのはその創部を担おうとしている、もう一人のやつのことなんだ」
「ふむ。なんていう子なの?」
そして僕は、春名から聞いたその名前を告げた。
すると叶は、まるでネジが止まってしまった機械人形のようにぴたりと廊下の上で静止してしまった。僕が叶のアシンメトリーに分けられた前髪の前でひらひらと手を振ると、ようやく叶ははっと気を取り戻して、僕の方を向いた。
「不知火……、不知火無題さんって言ったのかい? それは本当に? 嘘でなく?」
「嘘じゃない、むしろお前のそのリアクションが嘘であってほしいとおもっているところだ。なんだ、問題児なのか?」
「やれやれなんてことだ……そうか、不知火さんに春名ちゃんに、さらにきみか……」
「???」
クエスチョンマークがいくつも出てくる僕の視線に、叶は気づいて、苦笑しながら取り繕った。
「ああ、いや、すまないね。ぼくもその子と直接会ったわけじゃないから詳しくは知らないのだけど……、彼女は今年の始めに転校してきた子で、上からはなかなかに困った子だとは、聞いていてね」
「上? 校長か誰かか?」
「教育……委員会さ」
「⁉︎ ……と驚いてみたがよく知らないな。そこで話題になるってのはなかなかなことなのか?」
「そう思ってくれていいね。サウンドオンリーと銘打たれた石碑が立ち並ぶかの有名な国際機関とよく似たものだよ」
「それは流石に盛りすぎだろう……。ともあれ妹の熱狂ぶりを観るだにただものではないだろうとは思っていたけど……、不知火って生徒は一体どんなやつなんだ?」
そして叶は、僕に幾ばくかの情報を教えてくれた。
聞けば不知火は、自身が就学していた中学校に対して厄介な問いを巻き起こしていたらしい。
学校ではなぜ制服が決められているのか、なぜカリキュラムが決められているのか、なぜ行事のスケジュールが決められているのかと、市井の生徒たちから教育委員会までを巻き込みつつ、たったひとりで三年間問い続けたらしい。
生徒が教師と相談してカリキュラムを決められる国内の学校の事例や、また教育基本法やら国連憲章、子どもの権利条約などの条文も引用しながら、自分の立論を立てて意見書を休暇以外の登校日に毎日休みなく職員室の目安箱に送り続けたのだそうだ。
担任も教頭も校長も、当初は思想にかぶれた生徒の反抗期、いっときの麻疹のようなものだろうとおもって取り合わなかった。
しかし、他の生徒たちにアジテーションを興すこともなくひとり静かに手紙を送り、その書類のなかで展開される、非の打ち所も無いほど論理的な不知火の陳述に言いしれぬ恐怖を感じ、呼び出しをしたところ理路整然とこちらの主張の事なかれ主義かつ前例主義な前提とその帰結を批判され、論破ならぬ論駁されてしまった。
哀れな初任の女性担任は頭から否定することも出来ず、結果として彼女の行動を黙認、沈黙するほかはなく、毎日送られてくるその意見書に軽いノイローゼになってしまったらしい。
それを見かねた進路指導のベテランであったある保体教員が進路指導室でみっちり指導してやろうと息巻いたところ、結果からいえばまたもや論駁されてしまったのだが、立つ瀬のなくなったその教員は激昂して彼女に体罰を加えてしまった。
不知火の末恐ろしい点は、そんな教員に反抗的になるどころか、自分の立論の中で理解できない点がなかったかどうか尋ねたというところだ。
教員の抱えているなんらかの社会的課題や家庭環境等を慮り心配して、自分にも何かできることはないか、どんなことを生徒に、学校に、この社会に求めているかと伝えたというのである。
これには指導教員も肝を冷やし、以降、彼は不知火を恐れるようになったという。
そうした活動がおそらく本校でも展開されるであろうことを、我が校の校長はじめ教育委員会も危険視しているのだという。暴力やら何やらを起こす分かりやすい問題児というわけではないようだが、確かに学校側にとって危険人物だろう。
その他にもいろいろやらかしていたらしいが、不知火本人はまったく物静かで品行方正、かつ成績優秀ときているため、生徒たちはもちろんのこと、仕舞いには何人かの教師たちが彼女とともに問いを立て、自分の授業の仕方や学校の行事のやり方を変えていったことさえあったというのだから驚きだ。
彼女曰く、自分のしていることは反抗でも抵抗でもなく、問い続けているだけなのだという。『なぜ?』と。
「ぼくが聴いているのは、これぐらい。かなりエキセントリックな子だということは間違いないだろうね」
「……エキセントリックどころか、なんなんだそいつは。非暴力不服従を地でいく野生のガンジーか?」
「あはは! 非暴力という点ではそうかもしれないけれど、不服従という点に関してはちょっと違うだろうね。たぶん不知火さん自身にも、学校や教師たちに抵抗したり反抗しているという認識はないんじゃないかな。ぼくの推測だけれど、問いを立てるのが好きなんだと思う」
「問いを立てるのが好き……」
「なんで学校には制服があるんだろう? なぜ勉強するのだろう? 勉強するにしても、教師から教わり、習得したかをテストされてランキングづけされる以外のやり方って、ほんとうにないのかな? とか、いろいろ考えて、質問していたみたいだね。
確かに言われてみれば、なんでそんなやり方ばっかりなんだろうと、今更ながらぼくもちょっと考え込んでしまったよ。
公立であれ私立であれ、地方だといわゆる有名校への進学だけが求められる学校と、もうそこへ行ったら未来がないとすら言われて蔑視されるような学校とに分かれてしまいやすいし、そんな分断が起きているから反目し合うような空気も生まれてる。
そんな状況に疑問を持ったのか、もっと自分の生き方を追求していくようなカリキュラムが当たり前に実施されている地方の学校のことも自分なりに調べていたみたいなんだよね。
学校側としては、彼女はとても主体的な生徒といえるし、正確にいえば批判的思考を備えている点でも最高の評価を与えるべき子であると思うんだけれど、学校もなかではいろいろあるからさ、厳重注意を要する生徒扱いという感じかな。
まあでも、そんな子が哲学相談部をつくるというのは……うーん、不穏な匂いもしつつ、健全になってる気もすこしするね」
「どこが健全だ。哲学で、しかも素人が相談にのるとか誰が考えても越権行為だろ。無免許無資格のまま人の心にメスを入れるようなもんだ」
「それはまさにそうなんだけれどね。なんと彼女の母親が公認心理士のスクールカウンセラーで父親は精神科のお医者様らしくてね。本格的な相談が来たときは親御さんに繋げる気でいるのかな」
「……あまりの血筋に寒気がするな……。って、いやいや、そんな一学生の身分でそもそも生徒の相談に乗るのってありなのか」
「聴いたことは無いし前例も無いだろうけれど、彼女としては一生徒による自治の一環として正当な配慮だと考えているのかもね。まあ、ぼくの推測でしかないけれど。
でも中学でそんな面白いことをしていた彼女だからこそ、この高校によい影響を与えてもくれるだろうとちょっと確信もしているんだよ。この学校は良い意味でも悪い意味でもオーソドックスすぎるんだ、ぼくには少々飽き足らないよ」
「お前のマッドな趣味の行方に興味はないが、やつは早速悪い影響を我が家に引き起こしてくれてるぞ……。
お前なら分かるだろうけど、僕は平穏無事に、この学校にも生徒にも教師にもなるべく関わらずに余生を過ごしたいだけなんだ。だから僕はその巫山戯た部活を停止するよう進言しに行くところで……」
「いやいや、そういう厭世的な生き方をしようとしてる時点で、きみもかなりエキセントリックだろうけどね。なにせぼくが」
ああ、このことはいいや、また今度ね。といって、さっきまで横を歩いていた叶は二、三歩僕より先にたたっと歩いて、こちらに向き直った。
「さて、ここが、その部屋だ。ぼくもちょっとお邪魔してみたいし、きみと不知火さんがどんな話をするのかに興味がないわけではないんだけど、将棋部の準備があるからね。ここで失礼するとするよ」
「ありがとう、叶先生。やっぱり話を聴いておいてよかったよ」
「ぼくはひとのためになることをするために生きているようなものだからね。そのために教師になったといっても過言じゃあないんだ。だから舜くん、きみももっとぼくに頼って良いんだよ?」
「いいよ、そこまで手を焼かせたらお前がまた全部解決しようとするだろ。今度、何かあったら頼むとするよ」
「引き受けた」
そういって、叶は笑った。そして手をひらひらと振って、将棋部へと引き返していった。白衣をふわっと舞わせながら、部室棟の階段を降りていった。
さて。部室棟の二階の隅の、煤けた部屋が目の前にある。『哲学相談、承ります』と縦書きで、しかもかなりの達筆で書かれた品のある文字、というより書が、その部屋の煤け具合とミスマッチを起こしている。こんなに上手く書けるなら、書道部にでも行けば良いのにと思うくらいの出来栄えだ。
僕は唾をひとつのみこんで、その貼り紙の下辺り、磨りガラスのあたりをこんこんとノックした。




