4.父と娘
父の言葉に吐き気を催した僕が、ベッドのなかにうずくまったまま寝てしまった翌日の朝。ふと目覚めたとき、自分の家の静けさに嫌な予感がした。
ふと自分の勉強机を見やると、ノートサイズよりは小さな便箋が、丁寧に折り畳まれてキーボードの上に置かれていた。
僕はその春名からの書き置きを、リュックのなかから取り出し、そこに書かれていた内容と背景をかいつまんで叶に説明した。文章自体は、この通りだと言って開示した。
*
念の為、最初に行っておくね。あたしは誰かに自分の人生を決められたくない。
生き方も決められたくないし、生きる意味も決められたくない。
自分で決めたい。選ぶ可能性があるなら、選びたい。
たったそれだけのことだけど、あの人たちにはやっぱりわからないんだよ。
あの人たちにはもう、自分がないんだよ。昔からわかってたけど、正直、門高に行ったことで少しは変わるんじゃないかなって望みを持ってたことがバカらしくなるくらい、変わらなかったよ。
あの人が帰ってきた夜、「もっとだめになっちゃうと思ってた」とか言ってたの、聞いちゃったんだ。
偶然、下に降りてお菓子でも取りに行こうと思って、廊下に出た時にね。
兄貴が自分の部屋に戻ってくるのが足音でわかったから、さっと自分の部屋に戻って、兄貴が自分の部屋に戻ったのを確かめてから、下に降りたんだ。
それでぶつけちゃったんだよね、「なんでダメとかいうの」って。
そしたら「あれ、聴いてたの? ごめん、ごめん」とか言ってね。
「俺はそんなこと思ってないけど、世間の人とか仕事先の人とかに相談するとさ、やっぱり親のせいにされるしさ、親にせいにしなくてもそういう言葉が飛んでくるんだよ。世間はお前が考えるよりよっぽど厳しいんだよ」とか言ってね。
「だったら自分はそういう言葉使わないって決めればいいじゃん」って言ったら、
「そうだよね、ごめんね。俺は弱いからさ」ってまたいつもの逃げ口上打ってきたから、
「だからそういうふうに弱さに逃げないでよ!」って怒ったら、
「いや逃げてないよ。実際そうだって認めて謝ってるじゃないか。周りと事をあらだてたくないだけだよ、日本人らしくさ」
「日本人らしいかを訊いてるんじゃないし、世間の声を聞いているんじゃないんだよ! 前から何度も言ってるけど、自分はどう思ってるのよ」
「これも前から言ってるけど別にこうしたいああしたいとか、わがまま言いたくないのが俺の考えだからなあ。正直、春名がずっと俺たちの何に怒ってるのかもわからないし。誰が何を言っても駄目なものは駄目だし、駄目な人は生まれつき駄目だろう? そうでなくとも、一度傷がついたら社会は許してくれないよ」
「社会が許さなくても、人は人を許せるじゃない」
「そんな高尚な意識、誰も持っていないよ。自分なんて探したってどこにも存在しないのに、自分で考えられると思ってる人もいるのは知ってるけど。高かろうが低かろうが個人の意識なんてそもそも幻想、フィクションの類なのにね」
「そう思って、しゃべってる父さんの言葉はじゃあ、誰の言葉なのよ」
「誰の言葉でもないさ。俺もみんなも、単なる機械みたいなもんだからね。俺もいま、どこかでこの身体が見聞きした言葉を機械的に吐いてるだけだと思うよ」
その言葉に何も言えなかった。
ここまで空虚な人だとは思わなかった。
この人は誰なんだろう、っていうか、何なんだろう?
そんなことを思ってたら、最後にこんなことを言われたんだ。
「仕事で広告の影響とか見てるとよくわかるよ。実際に『善いこと』で、ひとりひとりがその『よさ』についてよく考えられていたり知っていたり欲しているからみんなの共感や同情を誘うんじゃない。
シンプルに共感や同情の反応が多いと、どんなに悪いことでも、よくは知らないことでも、求めていないことですらも、それは『善いこと』として話されるようになるってだけなんだよ。
実際、脳科学者だって自由意志とか自己意識なんてないって言ってるじゃないか。
みんな、同じ言葉を使って同じ反応を繰り返すだけの脳みその連鎖、いわば機械みたいなもんなんだから。同じ言葉を使わない、同じ反応をしない機械は、他の機械にとっても障害だろう?
そうして通じない言葉を使う機械がゆっくり排除されて、そうして排除された機械たちがまた自分たちの間で通じない言葉を使う機械をゆっくり排除して。
これを繰り返していくだけ。そしてこれが社会の『進歩』なんだよ。
だから春名、出来が悪くても仕方ないけど、少なくともちゃんとした言葉を喋れるようになろう」
……もう、ほんと、こいつには何も言葉を言いたくないって思った。
こいつの前では、あたしの言葉はあたしの言葉としてすら、存在できない。
怒るわけでもなく、悲しむわけでもなく、「赤は止まれ」がわからないくらいバカでダメな機械なんだ、困ったなあ、みたいな表情でこっちを見るんだよ。
本人はどう思ってるかわからないけど、あたしにはその顔の真ん中に、まるで真っ暗な空洞がぽっかり空いてるみたいに見えたよ。なんて空虚な人だろうって。
兄貴の虚無主義と、あの人の「空虚」は、違うものだね。
自己意識なんてこの世に存在しないって、本気で思ってる。
兄貴はあの人の考え方と距離を置くために、功利主義と虚無主義に立ってたんじゃないかな。
……兄貴が頑張ってるのも知ってるけど、あの人と一緒にいたくない。
できることなら、一人暮らしして高校に通いたい。
あの視線、あの笑いを一瞬も、見たくないから。当てられたくないから。
どこにいくかの当てはまだないけど、信頼できる人はいるから、とりあえず心配はしないでいて。
バカな真似はしないから。
*
僕がヘッドホンを耳に当てて爆音の音楽をかけながらうずくまって、不知火の声が聞きたいと思っていたその夜に、春名は父親に対峙していた。
僕も春名も、両親が自分たちとは住んでいる世界が違いすぎてコミュニケーションが取れない人間だということはよく理解していた。けれど春名はやはり、射られた矢は取って返して打つべきだという姿勢を曲げなかった。
傍目には壊れていないように見える家庭でも、その内側が崩れていることなんてよくあることだ。うちのなかで客観的に見て壊れていたように見えたのは小六の頃の春名で、次いで引きこもりがちの僕だったんだろうけれど、僕たちからすれば本当に崩れているのは両親の感性だ。
両親には、人は「成長する」という考えがない。
誰しも、その能力値は生まれつきで決まっている機械だと思っているからだ。
それゆえに、成長する以前と以後に通底しているはずの存在を想定できない。
そしてその通底している存在こそ、本来「自分」と呼ばれているものだと僕は思う。
そう、だから春名の言う通り、両親の世界には「自分」がない。
両親にも過去の思い出や、大切にしているものはあるし、欲求も希望も感情も感覚もあるけれど、それは社会というゲームのなかで与えられたコマンドと能力値で大切にできるかできないかが変わる程度の変数だと思っている。
ゆえに、自分なりにいろんな経験を通じてこれはしてはいけない、これは守るべきだと矜持を持つような倫理もない。規範もない。
ルールはそのステータス値が高くてルール作りというコマンドを身につける資格のある機械が自動的に作った「法律」というものと、両親のようなそうしたコマンドを持たない機械同士が勝手に騙しあったり嘘をつきあったりしながらなんとなく作られていく「慣習」というものしかないと思っている。
倫理も規範も慣習的にいつも後だしジャンケンで変えられるものだと思っているから、倫理や規範を自律的に作り出そうとする「自分」を持つ人間もいなければ、「自分」を持つ「子ども」も、「自分の」子どもすら存在しない。
誰かに大切にしなさいと言われたからではなく、自分が大切にしたいから守り育てなければいけないと自律的に自分にその義務を課すような存在は両親の世界のなかに、存在しない。
まるで成績と所属先などが書かれたステータス画面しか存在しないノン・プレイヤー・キャラクターがこの社会というゲームの運営先から与えられたみたいに、僕たちはずっと見つめられてきた。
それでも、悪人というわけではない。社会ゲームに適合し、いわゆるステータスだけを見れば上々に入る類のひとだろう。
だがそれだけに社会ゲームのなかで自分のステータスを向上させるためのコミュニケーションがデフォルトで、それ以外の目的をもつコマンドやコミュニケーションの選択肢というものが、二人にはそもそも存在していない。
つまり、ステータス向上を目的としない場所でのコミュニケーションが取れない。
そんな場所でこちらが何を言っても、通じないのだ。
いま振り返ると、だからこそ僕たちは一度、ステータスを極端に下落させた。父さんのいう「傷」のつく状況に自身を追いやってみた。
ステータスが壊れればそのステータス画面越しにではない、直に人間として話し合える場所で、僕たちを僕たちとして、一人の人間としてみてくれるんじゃないかと。
それでも、結果は「不理解」に終わった。
こんなに子どもたちの環境にも尽くしてきたというのに、なぜ二人ともステータスを上げずにむしろこちらのステータスへの悪影響を与えてくるのかと。
春名はずっとその視線に、いわばステータス越しの視線に抵抗していた。
僕は兄だったからか、いや、春名が決死の抵抗をし続けていたから、その両者の間のディスコミュニケーションが全く平行線であることに気づいた。
そうして僕は、ディスコミュニケーションの平行線が一生続いたとしてもこの家族が破綻しないプランを構想し、そこから逆算して門倉高校を第一志望に掲げた。
しかしいま振り返るとこの選択が不味かった。両親からすれば、ようやく自分たちの思いがこのノン・プレイヤー・キャラクターたちに通じたと思われてしまったのだ。だのに僕は、僕をようやく人間として見てくれ始めたとその時は勘違いしてしまった。
一方春名はおそらく僕のことを裏切り者と思いつつも、自分も両親の望むような生き方をすれば一人の人間として見てくれるようになるのかという思いを抱いてしまったのかもしれない。
それが単なる幻想だったことは、春名の手紙に記されていたやりとりを見る限り火を見るより明らかだ。
父さんは、春名も、僕のことも、自己のある人間として見ていない。
しかももっと恐ろしいことには、その、人間を人間として見ない視線は、そうした視線を持つ当人に対してすら当てはまっているということで……。
これまでは迂遠に、ぽつぽつと話してきたものの筋を自分なりにできる限り通して、僕は叶に伝えた。
自然と顔は俯き、ずっとコーヒーの水面を見つめながら話した格好になった。
視界の端でコーヒーをちびりちびりと飲みながら、相槌をしつつ耳を傾けてくれていた叶がこちらを見つめている気がする。
果たして顔を上げてみると、眉を寄せて苦しそうな表情の叶がそこにいた。そんな表情をするとは、またそんな表情をさせてしまったとはと思って僕の心のなかに軽く痛みが走る。僕の顔に浮かんだ表情を見てか、叶が口元を少し緩めて告げた。
「……そうだったんだね、話してくれてありがとう」
「いや……、すまない。いきなりこんな話を」
「ううん、聞けてよかった。なんたってぼくにとって二人は大切な幼なじみで、ぼくの大切な友達なのだから」
その言葉に、救われる心地がする。家の外に自分のことを話すことができる人間がいるということはこんなにありがたいことなのかと感じていた。
「……ひとまず春名ちゃんのことについて考えるとして、行き先には当てがないけれど信頼できる人がいるとのことだけど、誰のことだろう?」
「それなんだが、おそらく……、三つくらい可能性がある。
まず、昔の友人。この場合宿泊されるとツテがないから本当に探せない。
次は駅前のバスケ等で知り合っている人の場合だが、さすがに知り合ったばかりで宿泊はできないだろう。
三つ目は、……これがいまのところ可能性が最も高いと思うんだが、不知火の家に厄介になっている場合だ」
「ほう。何か根拠があるのかい?」
「根拠はない、単なる直観だ。でも僕自身、あの夜に父親と話したあと……」
聴きたいと思ったのは、不知火の言葉だったから。
そう続けた言葉を、叶はちょっと目を丸くして、驚いたように受け取っていた。




