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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第5章:ANOTHER SPRING

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69/70

69.失われた時代の愛

 最初に違和感を覚えたのは、匂いだった。

 乾いた空気に、薄くコーヒーの匂いが漂っている。それだけだった。なぜ違和感があるのか判然としない。


 次いで、音だ。

 電話の呼び出し音。キーボードを打つ音。少し離れた席で誰かがコピー機の蓋を閉める音。どれも聞き慣れている音とは微妙に違っている。


 目を開ける。


 視界の正面に、自分のデスクがあった。

 見慣れたモニター。キーボードの横に置いた付箋。安っぽいマグカップ。隣の席との低い仕切り。

 会社だ、とわかるまでに数秒かかった。


 ――匂いがなかったからだ。煙草の煙が沁み込んで年季の入った、焦げと酸味の匂いがまるでしなかった。


 わたしは椅子に座っていた。両手は机に置いているが、しがみつくように力を込めているせいで、指先が白くなっていた。


「ねえ、大丈夫?」


 向かいの席から、控えめな声が飛んできた。

 顔を上げると、同僚がこちらを見ていた。心配そうに眉を寄せている。


「あ、すみません。大丈夫です」


 咄嗟にそれだけ言う。声が少しかすれていた。

 大丈夫、という言葉が自分の耳にも薄っぺらっく聞こえる。何がどう大丈夫なのか、自分でもわからない。


 視線を下げる。

 机の上には、薄い液晶モニタ。そこに、開きっぱなしのメール画面が映っている。件名も本文も読めるのに、意味が頭に入ってこない。

 とくに、画面の右下に表示された数字の意味が、うまく呑み込めなかった。


 10:30

 2026/04/01


 隣の席の同僚が、安物のヘッドホンをつけてマイクの位置を調整しながら、モニタに向かって「お疲れさまです」と話しかけている。ビデオ通話――というのは、平成っぽすぎるだろうか。つまり、よくあるWeb会議の風景だった。リモートワークの人との、すり合わせを兼ねた簡易の朝礼だ。


 わたしは、先ほど声をかけてくれた向かいの同僚に話しかけた。


「えっと、今日って水曜……いや、四月一日か。木曜日でしたっけ?」


「え? ううん、水曜日だよ」


「水曜日……?」


 どうして? さっきまで、三月三十一日は水曜日だったはずなのに。

 ……。


「顔色悪いよ。ちょっと休憩したら?」


「……」


 そこでようやく、帰ってきたのだと悟った。

 元の世界へ。


 そう理解した瞬間、最後に見たものが蘇ってきた。

 静かな表情。わたしの手を離す指先。「行ってください」と言った低い声。

 そのどれもが、胸の奥のいちばん痛いところへ、遅れて触れてきた。


 息がうまく吸えなくなって、口を手で覆って顔を伏せる。


 モニターの光がまぶしい。

 電話の呼び出し音が、少し遅れて耳に刺さる。

 同僚の話し声も、PCの駆動音も、全部が薄い膜を一枚挟んだ向こうから聞こえてくるみたいだった。

 わたしは顔を伏せたまま、しばらく動けなかった。


 あれは置いていったのか。帰してくれたのか。それとも……。 


 そこまで考えて、頭の中がまた止まる。そんなことを考えている場合ではなかった。ここは会社だ。メールは来るし、電話は鳴るし、確認待ちの資料だってある。ぼんやり座っているわけにはいかない。

 それでも、身体が動かなかった。


 気づけば、朝礼を終えたらしい隣の同僚が、ヘッドホンを首にかけたままこちらを見ていた。


「ねえ、ほんとに大丈夫? 早退したほうがよくない?」


 問いかけの形ではあるが、きっぱりした声だった。わたしはそこでようやく頷いた。


「そうですね……すみません。ちょっと、体調が悪いみたいで」


 自分の口から出た言い訳は、事実ではあった。

 頭がうまく働かない。めまいがまだ残っている。立ち上がってみるが、足元がおぼつかない。これではいくら粘ったところで、何もできそうにない。


 わたしはふらつく足で課長の席に行った。

 そこに座っているのは、(つな)()課長ではない。はきはきとした明るい女性で、わたしが近づいてくるとパッと顔を上げ、こちらに向き直って話を聞いてくれる。


 ――何もかも違う。何もかもが。


 わたしは「体調不良で。早退させてください」と伝えた。

 課長はほんの少し心配そうに、だが快く送り出してくれた。


 そうだ。令和はもうこういう時代だ。早退しやすく、休みやすく、女性の上司なんか珍しくもない。オフィスで煙草なんか吸わないし、飲み会へ強制参加もない。パワハラもセクハラも、泣き寝入りしか手段がなかった頃よりずっとマシだ。

 労働環境は、確実に、よりよい方向に進んでいる。

 二〇〇三年よりも、令和のほうが働きやすいはずだ。


 ――それなのに、この虚無感はなんだ。この満たされなさはなんだ。


 自分の鞄をつかみ、コートを羽織る。その一つひとつが、妙に遅い。自分の動作を少し後ろから見ているような感覚があった。


 会社を出る。エレベーターで一階へ下り、ビルの外へ出たところで、冷たい外気が頬に触れた。それさえも、自分のことのように感じられない。ビルが立ち並び、昔よりもずっと静かになったオフィス街を見た。


 帰り道の記憶は曖昧だった。

 駅までどう歩いたのか。電車でどこに立っていたのか。改札をどう抜けたのか。ところどころしか思い出せない。ただ、人の流れに押されるまま自分の部屋まで戻った。


 鍵を開けて、中へ入る。


 扉が閉まったところで、初めて静けさを感じた。


 照明をつければ、見慣れた部屋がある。白いクロスの天井。古い木製チェスト。読みかけの雑誌。窓際の観葉植物。閉め切った部屋特有の少し重い布の匂い。

 わたしの、一人暮らしの部屋のはずだ。


 だが、馴染まない。誰かの部屋へ迷い込んでしまったみたいだった。


 コートを脱いで、ベッドの端に腰を下ろす。

 スマートフォンを取り出す。通知は並んでいる。手慣れたスワイプにも指がもたついて、うまく操作できない。


 連絡先を見る。(けい)も、(みお)も、(さが)()さんもいない。検索をかけても出てこない。履歴を遡っても、それらしい痕跡は一つもなかった。


 とっさにメモアプリを開いた。忘れる前に書き留めなければ、と思ってキーボードを表示させたところで、指が止まってしまう。


 ここで彼らの名前を書いたところで、この世界では何の記録にもならない。

 アイディアじみた根拠のないメモが一つ増えるだけだ。そして、これから(おびただ)しく追加される取り留めのないメモの中に埋もれていくのだろう。


 ようやく、わたしは受け入れる。

 この世界は、あの時間の続きではない。

 わたしに妹はいない。(みお)という友人もいない。職場に(さが)()と書く苗字の同僚もいない。現原(ありはら)も、名嘉(なか)(じょう)も、(つな)()も、会社どころか現実のどこにも存在しない名前みたいだった。


 ――わたしは、帰ってきてしまったのだ。


 悲しいのか、ほっとしているのか、怒っているのか、それすらはっきりしない。感情の形が決まらないまま、ただ身体が重い。



 その日は、ほとんど何もしなかった。


 ソファに座って、また立って、スマートフォンを開いて、閉じて、また開く。

 メッセージアプリの通知欄を見ても、今の気持ちを返せる相手はいない。テレビをつける気にもなれない。


 夕方になって、ようやく立ち上がった。

 お湯を沸かして、マグカップにティーバッグを入れる。湯気が立ち上る様子を見ながら、ぼんやりと考えを巡らせる。


 乙女ゲーム。

 最後の告白イベントで、主人公が攻略対象からの告白を「断る」という選択肢は存在する。定番の設定だ。主人公は――プレイヤーは、心を通わせた相手をいきなり拒絶することだってできる。


 わたしの口から、ふ、と自嘲の声が洩れる。


 だが、()()()()()()()()()()から()()()()なんて、ありえないことだ。

 そんなの、ゲーム体験を壊すだけでしかない。


「……」


 逆、だったのだろうか。

 わたしは、結婚の申し込みを、帰還の条件だと思っていた。

 だが、あの告白が受け入れた瞬間、わたしはあの世界へ残ることになったのではないか。人生の伴侶を、他でもないあの世界で選んだという理由で。

 (さが)()さんは、その一歩手前でわたしを止めてくれたのではないか。

 もし。もし、そうなら……。


「受け入れてくれたらよかったのに」


 そうしたらわたしは、あの狂ったシステムに同化していた。

 そうなることを、彼は望まなかったのだろうか。そこまで考えてしまうのは、わたしのうぬぼれだろうか。


 いずれにしても、彼がわたしの手を取らなかったから、システムはわたしをこの現実へ弾き出した。

 この形桐(かたぎり)(あお)()は、〈攻略対象〉に呑まれる登場人物(キャラクター)ではない、と見なした。


 わたしを逃がすために拒絶したのだろうか。

 都合のいい解釈かもしれない。答え合わせはもうできない。それでも、あの時の彼の声や、わたしの手を離した温度が、わたしにそうとしか思わせない。


 理解したくなかった。

 ただ愛想が尽きて振られたのだと思いたかった。

 もし彼が、自分の渇望を殺してまでわたしを帰してくれたのだとしたら。


 なんて残酷な優しさだろう。


 わたしは顔を覆い、誰もいない令和の部屋で、ようやく声を出して泣いた。

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