69.失われた時代の愛
最初に違和感を覚えたのは、匂いだった。
乾いた空気に、薄くコーヒーの匂いが漂っている。それだけだった。なぜ違和感があるのか判然としない。
次いで、音だ。
電話の呼び出し音。キーボードを打つ音。少し離れた席で誰かがコピー機の蓋を閉める音。どれも聞き慣れている音とは微妙に違っている。
目を開ける。
視界の正面に、自分のデスクがあった。
見慣れたモニター。キーボードの横に置いた付箋。安っぽいマグカップ。隣の席との低い仕切り。
会社だ、とわかるまでに数秒かかった。
――匂いがなかったからだ。煙草の煙が沁み込んで年季の入った、焦げと酸味の匂いがまるでしなかった。
わたしは椅子に座っていた。両手は机に置いているが、しがみつくように力を込めているせいで、指先が白くなっていた。
「ねえ、大丈夫?」
向かいの席から、控えめな声が飛んできた。
顔を上げると、同僚がこちらを見ていた。心配そうに眉を寄せている。
「あ、すみません。大丈夫です」
咄嗟にそれだけ言う。声が少しかすれていた。
大丈夫、という言葉が自分の耳にも薄っぺらっく聞こえる。何がどう大丈夫なのか、自分でもわからない。
視線を下げる。
机の上には、薄い液晶モニタ。そこに、開きっぱなしのメール画面が映っている。件名も本文も読めるのに、意味が頭に入ってこない。
とくに、画面の右下に表示された数字の意味が、うまく呑み込めなかった。
10:30
2026/04/01
隣の席の同僚が、安物のヘッドホンをつけてマイクの位置を調整しながら、モニタに向かって「お疲れさまです」と話しかけている。ビデオ通話――というのは、平成っぽすぎるだろうか。つまり、よくあるWeb会議の風景だった。リモートワークの人との、すり合わせを兼ねた簡易の朝礼だ。
わたしは、先ほど声をかけてくれた向かいの同僚に話しかけた。
「えっと、今日って水曜……いや、四月一日か。木曜日でしたっけ?」
「え? ううん、水曜日だよ」
「水曜日……?」
どうして? さっきまで、三月三十一日は水曜日だったはずなのに。
……。
「顔色悪いよ。ちょっと休憩したら?」
「……」
そこでようやく、帰ってきたのだと悟った。
元の世界へ。
そう理解した瞬間、最後に見たものが蘇ってきた。
静かな表情。わたしの手を離す指先。「行ってください」と言った低い声。
そのどれもが、胸の奥のいちばん痛いところへ、遅れて触れてきた。
息がうまく吸えなくなって、口を手で覆って顔を伏せる。
モニターの光がまぶしい。
電話の呼び出し音が、少し遅れて耳に刺さる。
同僚の話し声も、PCの駆動音も、全部が薄い膜を一枚挟んだ向こうから聞こえてくるみたいだった。
わたしは顔を伏せたまま、しばらく動けなかった。
あれは置いていったのか。帰してくれたのか。それとも……。
そこまで考えて、頭の中がまた止まる。そんなことを考えている場合ではなかった。ここは会社だ。メールは来るし、電話は鳴るし、確認待ちの資料だってある。ぼんやり座っているわけにはいかない。
それでも、身体が動かなかった。
気づけば、朝礼を終えたらしい隣の同僚が、ヘッドホンを首にかけたままこちらを見ていた。
「ねえ、ほんとに大丈夫? 早退したほうがよくない?」
問いかけの形ではあるが、きっぱりした声だった。わたしはそこでようやく頷いた。
「そうですね……すみません。ちょっと、体調が悪いみたいで」
自分の口から出た言い訳は、事実ではあった。
頭がうまく働かない。めまいがまだ残っている。立ち上がってみるが、足元がおぼつかない。これではいくら粘ったところで、何もできそうにない。
わたしはふらつく足で課長の席に行った。
そこに座っているのは、維木課長ではない。はきはきとした明るい女性で、わたしが近づいてくるとパッと顔を上げ、こちらに向き直って話を聞いてくれる。
――何もかも違う。何もかもが。
わたしは「体調不良で。早退させてください」と伝えた。
課長はほんの少し心配そうに、だが快く送り出してくれた。
そうだ。令和はもうこういう時代だ。早退しやすく、休みやすく、女性の上司なんか珍しくもない。オフィスで煙草なんか吸わないし、飲み会へ強制参加もない。パワハラもセクハラも、泣き寝入りしか手段がなかった頃よりずっとマシだ。
労働環境は、確実に、よりよい方向に進んでいる。
二〇〇三年よりも、令和のほうが働きやすいはずだ。
――それなのに、この虚無感はなんだ。この満たされなさはなんだ。
自分の鞄をつかみ、コートを羽織る。その一つひとつが、妙に遅い。自分の動作を少し後ろから見ているような感覚があった。
会社を出る。エレベーターで一階へ下り、ビルの外へ出たところで、冷たい外気が頬に触れた。それさえも、自分のことのように感じられない。ビルが立ち並び、昔よりもずっと静かになったオフィス街を見た。
帰り道の記憶は曖昧だった。
駅までどう歩いたのか。電車でどこに立っていたのか。改札をどう抜けたのか。ところどころしか思い出せない。ただ、人の流れに押されるまま自分の部屋まで戻った。
鍵を開けて、中へ入る。
扉が閉まったところで、初めて静けさを感じた。
照明をつければ、見慣れた部屋がある。白いクロスの天井。古い木製チェスト。読みかけの雑誌。窓際の観葉植物。閉め切った部屋特有の少し重い布の匂い。
わたしの、一人暮らしの部屋のはずだ。
だが、馴染まない。誰かの部屋へ迷い込んでしまったみたいだった。
コートを脱いで、ベッドの端に腰を下ろす。
スマートフォンを取り出す。通知は並んでいる。手慣れたスワイプにも指がもたついて、うまく操作できない。
連絡先を見る。螢も、澪も、相果さんもいない。検索をかけても出てこない。履歴を遡っても、それらしい痕跡は一つもなかった。
とっさにメモアプリを開いた。忘れる前に書き留めなければ、と思ってキーボードを表示させたところで、指が止まってしまう。
ここで彼らの名前を書いたところで、この世界では何の記録にもならない。
アイディアじみた根拠のないメモが一つ増えるだけだ。そして、これから夥しく追加される取り留めのないメモの中に埋もれていくのだろう。
ようやく、わたしは受け入れる。
この世界は、あの時間の続きではない。
わたしに妹はいない。澪という友人もいない。職場に相果と書く苗字の同僚もいない。現原も、名嘉城も、維木も、会社どころか現実のどこにも存在しない名前みたいだった。
――わたしは、帰ってきてしまったのだ。
悲しいのか、ほっとしているのか、怒っているのか、それすらはっきりしない。感情の形が決まらないまま、ただ身体が重い。
その日は、ほとんど何もしなかった。
ソファに座って、また立って、スマートフォンを開いて、閉じて、また開く。
メッセージアプリの通知欄を見ても、今の気持ちを返せる相手はいない。テレビをつける気にもなれない。
夕方になって、ようやく立ち上がった。
お湯を沸かして、マグカップにティーバッグを入れる。湯気が立ち上る様子を見ながら、ぼんやりと考えを巡らせる。
乙女ゲーム。
最後の告白イベントで、主人公が攻略対象からの告白を「断る」という選択肢は存在する。定番の設定だ。主人公は――プレイヤーは、心を通わせた相手をいきなり拒絶することだってできる。
わたしの口から、ふ、と自嘲の声が洩れる。
だが、心を通わせた攻略対象から断られるなんて、ありえないことだ。
そんなの、ゲーム体験を壊すだけでしかない。
「……」
逆、だったのだろうか。
わたしは、結婚の申し込みを、帰還の条件だと思っていた。
だが、あの告白が受け入れた瞬間、わたしはあの世界へ残ることになったのではないか。人生の伴侶を、他でもないあの世界で選んだという理由で。
相果さんは、その一歩手前でわたしを止めてくれたのではないか。
もし。もし、そうなら……。
「受け入れてくれたらよかったのに」
そうしたらわたしは、あの狂ったシステムに同化していた。
そうなることを、彼は望まなかったのだろうか。そこまで考えてしまうのは、わたしのうぬぼれだろうか。
いずれにしても、彼がわたしの手を取らなかったから、システムはわたしをこの現実へ弾き出した。
この形桐扇衣は、〈攻略対象〉に呑まれる登場人物ではない、と見なした。
わたしを逃がすために拒絶したのだろうか。
都合のいい解釈かもしれない。答え合わせはもうできない。それでも、あの時の彼の声や、わたしの手を離した温度が、わたしにそうとしか思わせない。
理解したくなかった。
ただ愛想が尽きて振られたのだと思いたかった。
もし彼が、自分の渇望を殺してまでわたしを帰してくれたのだとしたら。
なんて残酷な優しさだろう。
わたしは顔を覆い、誰もいない令和の部屋で、ようやく声を出して泣いた。




