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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第5章:ANOTHER SPRING

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70.トゥルー・エンド

 翌日も、その次の日も、朝は来た。

 締切は待ってくれない。確認の依頼も、進行の相談も、こちらの感傷とは無関係に積み上がっていく。


 そのことに、少し救われた。


 考える前に返事をしなければならない。考える前に作業を終えなければならない。資料を読み、電話を取り、メールを返し、スケジュールを確認する。一つずつ処理していけば、またこの世界に馴染める気がして、一心にのめり込んだ。


 忘れられるわけがない。


 ただ、ずっと思い詰めるわけにもいかない。

 帰ってきたのなら、ここでやるべきことをやらなければならない。


 スマホのメモアプリのいちばん下には、あの日打ちかけて止まった名前がまだ残っている。何度も消そうとして、結局できなかった。この世界では何の意味も持たない、架空の人物たちの名前だ。

 それを抱えたまま、わたしは少しずつ日常へ戻っていった。



 そうして、いくらか日が経った。


 デパートへ足を運んだのは、仕事のためだった。

 春の立ち上がりに合わせた販促を考えるために、実際の売り場の導線と、催事スペースと、入口付近の人通りを見ておきたかった。


 令和に戻っても、結局こういう仕事をしているのだな、とぼんやり思う。


 館内へ入った瞬間、懐かしい感じがした。

 休日のデパート特有の、少し息苦しい、整った賑わい。化粧品売場や製菓売り場の甘い香り。


 こういう場所を一人で歩くのは、ずいぶん久しぶりだった。

 胸が小さく痛む。令和の空気に馴染んだ今のわたしにとっても、デパートの思い出は数知れない。ここは遊び場であり、気晴らしであり、取引先でもあるのだから。だが、平成にいた()()()()()()()()との思い出のほうが、なぜだかずっと鮮烈だった。


 売り場を見て回り、メモを取り、必要なところへ視線を配る。一通り確認を終えるころには、館内の空気が少し重たくなっていた。正午を過ぎていることもあって、ずいぶん人が増えているようだ。買い物客の話し声と、館内放送と、エスカレーターの機械音が、今さらのように頭に響く。


 少し疲れたな、と思った。


 バックヤード寄りの通路を抜けた先に、防火扉が見えた。その上には避難口へ誘導するあの緑の看板が光っていて、非常階段へ続く扉だとわかった。


 向こうは静かそうだ、と足が自然とそちらへ向いた。


 扉を押し開けると、外気が頬に触れた。向こうは、外付けされた非常階段の踊り場だった。館内よりだいぶ空気が冷たくて気持ちがいい。人の話し声も館内放送も閉ざされ、風の唸る音と、足元で車の行き交う音が遠く聞こえる。


 わたしは小さく息をついて、その踊り場へ足を進めた。

 さっきまで売り場を歩き回っていたせいか、身体に疲労感があった。館内の暑さや買い物客の多さで、思っていた以上に気を張っていたらしい。


(……非常階段、か)


 少し静かな場所へ出たかっただけなのに、足が向いた先は非常階段だった。

 ここがどこかに似ているからか。こういう場所を好む誰かを、わたしが知っているからか。


「……」


 もう、戻ろう。

 そう思って踵を返したとき、踊り場の手すりにもたれた人影がちらりと見えた。踊り場の端っこ、階段を下りる側の壁際に寄るように、人が立っていた。扉を開けた位置からは死角になっていたのだろう。


 先に、声が出ていた。


「わ、びっくりした!」


 言ってしまってから、ようやく驚く。こんなふうにすぐ口をついて出るくらいには、たぶん気が緩んでいたのだと思う。


 そこにいたのは男だった。彼はこちらを見ていたが、まさか話しかけられるとは思っていなかったらしく、驚いたように目を見開いた。よく見れば片手にクレープを持っていて、包み紙の先からクリームが少し覗いている。

 わたしはほとんど反射で言葉を継いでいた。


「そんなところで食べてるんですか?」


 彼はクレープを飲み込んでから、小さく頷いた。


「……まあ、ゆっくり食べたいので」


 低く、静かな声だ。


「休憩室とかないんですか?」


「混むんですよ」


 答え方は簡潔で、その声の調子に少し、気を取られる。

 髪型はラフだ。スーツ姿ではあるがジャケットは前を開けたままで、シャツのボタンも一番上は留めておらず、ネクタイも少し緩めている。年齢はわたしと同じくらいに見えるが、スーツを着慣れているふうで、着崩していても妙に板についていた。


 彼はわたしを気にしながらも、クレープを食べるのは止めなかった。手すりにもたれかかりながら堂々と甘味を楽しむ佇まいが目を惹いた。


 無意識に、その人の胸元を見る。

 カードがストラップで下がっている。入館証らしいが、こちらから見える面には名前が出ていなかった。

 相手はその視線に気づいたらしい。わたしの首にも同じような入館証が下がっていることに目を留めて、首を傾けた。


「ああ、催事に出展される方ですか」


「ええ。そちらも?」


「僕は運営です」


 そこで会話が切れたが、そのまま立ち去るのはひどく惜しい気がした。


「ここにはよく来るんですか?」


「ええ。割と」


「ほんとに? 失礼ですが、非常階段に?」


「はい」


 あまりにも当然のように返ってきて、わたしは少し笑ってしまった。


 こういう場所を自然に選ぶ人を、わたしは知っている。

 だが、その名を呼ぶのはためらわれた。それは、たぶん彼の本当の名前ではない。わたしがずっと形桐(かたぎり)(あお)()というデフォルトネームで呼ばれていたように。


「なら、また会うかもしれませんね」


 口にしてから、自分で少し驚く。

 約束のつもりではなかった。ただ、その場の流れで出ただけの軽い言葉だ。だが、社交辞令ではなかった。


 彼は目を細めて笑った。

 否定はされなかった。


 クレープを食べ終えた彼は、包み紙の端をきちんと折り揃えてから会釈した。わたしもつられるように防火扉のほうへ足を向ける。

 彼はそのまま、搬入口側へ続く通路のほうへ歩いていった。通路を折れて奥へ消える直前、胸元の入館証が白い蛍光灯を受けて小さく光った。


 わたしは扉の内側に立ったまま、しばらくその背中を見送った。


 この場所へまた来よう、と思った。そうしたら、あの人が甘いものを食べているところに居合わせるかもしれない。


 また、会えるかもしれない。

 それはただの思いつきではなく、ごく小さな予感みたいにも思えた。


 次に会えたら、またわたしから名乗ろう。

 館内へ戻る足取りは、来たときよりも少し軽かった。



<完>

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