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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第5章:ANOTHER SPRING

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68.歪で残酷な優しさ

 窓の外の空は、白み始めている。年度末の、最後の一日だ。冷えた朝の空気が、開け放した窓から寝室へ流れ込んでいた。


 二〇〇四年 三月三十一日。水曜日だった。


 今はふたりともベッドの脇にいる。先に起き上がったわたしを見て、(さが)()さんも無言で身を起こした。そのまま何も言わずに待っている。


 わたしは(さが)()さんのほうを向いていた。距離は近い。手を伸ばせば触れられるが、そうしなかった。

 ここで口にする言葉は、このままの空気に甘えて済ませられるものではない。


 ――言わなければならない言葉は、もうわかっている。


 恋愛では終わらなかった。

 好きだとか、一緒にいたいとか、そういう先送りの言葉では足りない。

 恋人になることさえ、途中の状態にすぎなかった。

 なら、この世界が最後に求めるものは、もっと重い決定であるはずだ。


 この世界で、エンディングを確定させるための言葉。

 この先どうするのか。この人と、どういう未来を選ぶのか。

 そこまで言い切る言葉を、わたしは一つしか知らない。


 結婚。


 そこまで口にするのかと思うと気が重くて、喉がつかえるようだ。

 それでも、言わなければならない。


 (さが)()さんは、静かにこちらを見ていた。

 ただ待っている。その視線の静かさが、却ってわたしを追い詰める。


 ここで言わなければ、きっともう帰れない。


 さもなければ、この人の傍で小さな妥協を積み重ねていくことになる。居心地がいいからと流されて、気づけばそれが当たり前になっていく。

 なんて幸せなことだろう。


 わたしは唇を開きかけて、止まった。


 (さが)()さんが、ゆっくりこちらを向く。相変わらず静かだ。だが、いつものような余裕はなく、何かを押し殺すみたいに口元が固い。


「聞かせてください」


 低い声だった。

 もうこの場をやり過ごすことはできない。


「……結婚してくれますか」


 声にした瞬間、目を閉じてしまう。

 条件を満たすための入力のはずだった。このまま流される前に、自分で結末を確定させるための、必死な抵抗。そうわかっているのに、その言葉はやはり現実の重さを持っている。


 (さが)()さんは、ごく静かにわたしの手を取った。指先の温度がじかに触れる。その温かさに、ゆっくりと目を開けた。


(あお)()さん。あなたに言わせてしまってすみません。……ありがとう」


 声は穏やかだ。

 そして、ほんのわずかな間があった。


「ですが、それをお受けするわけにはいかないんです」


 何を言われたのか、すぐにはわからなかった。


 意味が、遅れて頭の中に落ちてくる。

 だけど、わたしの思考はそれを受け止めきれず、その手前で立ち尽くしてしまう。

 受け入れられるだろうと、勝手に信じていた。ここまで来たのだから、と愚かなくらい自然に思っていた。


「……ここで受けたら、君は帰れなくなる」


 その言葉は、わたしの無理を見透かしたように静かだった。

 わたしの告白が、自分との未来を願う言葉ではないとわかってでもいるように。この世界を終わらせようとする無理な入力。彼には、そうとしか聞こえなかったのだと思った。


 だけど……帰れなくなる?


 だって、帰るために言ったはずなのに。

 このまま流されてしまう前に、自分で終わらせるために言ったのに。いや、でも……。

 もう、余計に何もわからなくなった。



 視界の端が、白く滲んだ。


 涙でも滲んだのかと思った。だけど違った。部屋全体がわずかに白んだように見えた。視界の端で、耳障りなノイズが走った気がした。


 視線を持ち上げて、(さが)()さんを見る。


 彼は、穏やかな顔をしていた。何度も見た顔のはずなのに、見慣れたものとはどこか違っていた。現実味がない。もうこちらと同じ場所には立っていないみたいで――


 彼はわたしの手をそっと離して、告げた。


「もう大丈夫ですよ。行ってください」


 ひどく混乱していた。


 帰れるはずなのに、少しも嬉しくない。

 何か言わなければ、と思った。

 違う、とか。

 待って、とか。

 どうして、とか。


 どの言葉も口のところまで上がってくる。

 でも、形にならない。

 ひとつも間に合わない。


 視界がぐらりと揺れる。


 立ちくらみかと思った。

 だが、それとも違うとわかった。窓から差し込んでいた光が、水面に石を落としたように揺れはじめた。それに合わせて、部屋の照明が、本棚が、チェストが、ベッドが、(ほど)けるように滲んでいく。

 部屋が、わたしを基準にして少しずつ溶けていく。


 ――帰るのだ、とわかった。


 ずっと、帰りたかったはずだ。帰れなくなるのが怖かったはずだ。

 願いは叶う。それなのに、心臓が跳ねるたび不安が増していく。


 ふいに、あの夜の火星が脳裏をよぎった。

 六万年ぶりに近づいておきながら触れられなかった、あの赤い惑星。


 ――僕は、意外とすぐだと思いますよ。終わりなんて。


 隣にいるのに、彼がどこか遠くへ行ってしまいそうだと思った、あの不吉な言葉。


 ずっと前から、帰れなくなることよりも、彼を失うことを怖がっていたのに。


 胸を満たすのは、急に高い場所へ引っ張り上げられるときみたいな不快な浮遊感と、置いていかれるとわかった後の恐怖だけだ。


「ま、待って」


 ようやく出た声は、自分でも情けなくなるほど弱かった。

 指先から、体温が少しずつ抜けていく。床の感触がなくなる。この部屋に立っている実感が急速に遠のいていく。

 取り返しのつかなさが、遅れて押し寄せてくる。


 彼は一歩も動かない。ただ、わたしを見ていた。

 この世界の外へ押し戻されようとしているわたしを見ていた。


 (さが)()さんの輪郭がじわりと滲んだ。部屋のすべてが、わたしを基準にしてゆらぎ、消えるように明るい光へ呑まれていく。壁も、窓も、ソファも、そして彼も、全部が消える。


 世界がわたしを手放している。

 帰れる。

 それなのに、わたしの中のどこにも、帰還の喜びはない。


 ――置いていかれる。


 その感覚が異様に鮮明だった。


 視界が白く反転する。

 体が削り取られるみたいに、音もなく向こう側へ引き抜かれていった。

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