67.何もかも安心する
午後の仕事をひととおり片づけてから、わたしは澪と駅前で落ち合った。
改札を出たところで合流して、そのまま駅前の居酒屋へ入る。店を決めるのも面倒で、以前にも入ったことのある店にそのまま流れ込んだ。早い時間だというのに店内はそれなりに賑わっていて、壁際の四人掛けの席へ通されるころには、もう背広姿の男たちの笑い声が飛び交っている。
「お疲れー」
澪はいつも通りの軽さで手を振った。
わたしの前にはレモンサワー、澪の前にはカシスオレンジ。食べかけの枝豆の皿がテーブルの真ん中へ置かれている。仕事帰りの女二人が、とりあえず一杯やるにはちょうどいい、いつもの居酒屋の風景だった。
「お疲れ~」
グラスを持ち上げて軽く合わせる。
澪は一口飲むと、ストローをくるくる回しながら、何でもないことみたいに続けた。
「それでそれで? 相果さんとは結局どうするの?」
「どう、っていうと?」
「付き合ってます、じゃ済まないでしょ。学生じゃないんだから。あれだけちゃんとしてる人なんだし」
わかっている。終わりではない。
わたしたちはもうそこを過ぎている。恋人になったこと自体は、もう手順の一つとして済んでしまった。学生の恋愛みたいに、付き合うことが到達点になる年齢でもない。
「……そうだね。どうしようかな」
曖昧に返すと、澪はわたしをじっと見た。
「扇衣さ、自分で決めるのは得意だけど、最後の最後だけ後回しにするよね」
「うーん、そうかも」
「うん、なんか、『そこまで来てるなら、もう言えばいいのに』ってところで止まっちゃうというか」
レモンサワーを一口飲んで間を取る。
澪はそれ以上追及しなかった。代わりに、ほんのちょっと真面目な声で言った。
「でも、ちゃんと言うのって大事だと思うんだよねえ」
その言葉は、妙に心に残った。
店を出たあと、夜風に当たりながら駅までの道を歩く。
春が近いとはいえ、まだ風は少し冷たかった。酔いが飛ぶほどではないが、頬のあたりが静かに冴える。電車の時間を気にする人たちが足早に通り過ぎていく。
最後にちゃんと言う。
どう思っているのか。何を望んでいるのか。この先どうするのか。
そんなことは、実は一度もはっきりと口にしていない。伝わっているかどうか確かめもしていないことばかりだ。
恋人になった。それでも終わらなかった。
なら、最後に必要なのは、ただ好きですと確認し合うことだけではないのかもしれない。
だが、日常は何事もなかったみたいに続く。
そんな考えを引きずったまま、数日後、わたしはまた相果さんの部屋にいた。
その日も、仕事の確認は思ったより早く終わった。来週の段取りを軽く擦り合わせて、それで本来なら帰っていいはずだった。それでもわたしは帰らず、相果さんの部屋のリビングに置かれたソファの端に座っていた。膝の上には閉じた資料。もう開き直す理由はないのに、そのまま鞄へしまわなかった。しまってしまうと、本当にただここへ居残っているだけになる気がしたからかもしれない。
「コーヒーを淹れましょうか」
言いながら、相果さんはもう立ち上がっている。
キッチンへ向かう後ろ姿に、わたしも断る理由を探す前に「いただきます」と頷いていた。
部屋は暖かかった。
暖房の音が低く鳴っていて、資料を広げていたローテーブルの向こうに、相果さんのキッチンが見える。電気ケトルの湯が沸く音がして、戸棚の開閉音が続く。そういう生活の音が、もう珍しいものに感じられなくなっていた。
相果さんがマグカップを二つ持って戻ってくる。
湯気の立つコーヒーと、小皿に分けたクッキー。いかにも「少し休んでください」と言わんばかりなのに、それが押しつけがましく感じないのが、この人のずるいところだと思う。
「ありがとうございます」
カップを両手で包んで、他愛のない話をした。
仕事の続きではあるが、仕事そのものではない程度の話。駅前の店がひとつ閉まるらしいとか、春の新色はまた似たようなピンクばかりだとか、そのくらいのことだ。
「今年もピンクが多いですね」
「春ですから。需要が多いでしょうし、正しい判断だと思います」
「夢がないですね」
「夢のない現場ですからね」
わたしは思わず笑ってしまう。
力を抜くように笑ってしまったことが、自分でも意外だった。
会話が途切れても、気まずくはならなかった。
相果さんは無理に次の話題を探さないし、わたしも沈黙を埋める必要を感じなかった。
クッキーをひとつ取る。ほろりと崩れる甘さが、コーヒーの苦みのあとに残った。もう一枚取るか迷って、結局また手を伸ばす。
「……その、いただきます」
「どうぞ」
気がつけば、もう時計を見ていなかった。いつ帰るかなんて、まったく考えていない。仕事が終わったあとも、こうしてこの部屋にいることが、もう不自然ではなくなっている。
しばらくして、隣に座っていた相果さんが少し身を乗り出して、こちらへ手を伸ばした。指先が頬の横をかすめる。親指が口元のあたりを軽くなぞった。
「クッキーついてますよ」
「あ」
そのまま手が引かれるのを見ていたら、ふと目が合った。相果さんは何でもない顔をしている。言葉を探す気にもなれず、わたしはカップをローテーブルに置いて、ソファの肘へ頬を預けた。まぶたが少し重い。気づけば、ずいぶん肩の力が抜けていた。
「眠そうですね」
相果さんが言う。
それで終わるのかと思ったが、彼が少し身を寄せてきた。ソファの前に立ったまま、顔を近づける。
それから、そっと唇が触れる。ほんの短い口づけだった。
その口づけに、恋人らしい意味を見出そうという気は起きなかった。もっと昂ってもいいはずなのに、実際にはほっとした。
こうやって触れ合っても、もう安心するだけなのだ。確かめ合うとか、盛り上がるとか、そういう方向へ動かないくらいには。
相果さんはわたしの顔を覗き込んだまま、静かに口元をゆるめた。
「ソファで眠ると身体を痛めますよ」
反論する気力もない。
ここから無理に立ち上がる理由を探そうとしても、頭の中にうまく形にならない。ソファは柔らかいし、暖房はちょうどいいし、まぶたは重い。何より、ここから離れる必要を身体がもう感じていなかった。
それでも、わたしは少しだけ迷ってから、相果さんの手を取って寝室へ向かった。
リビングの隣の寝室は、ベッドとサイドテーブルがあるだけの簡素な部屋だ。照明は少し落としてあって、リビングよりさらに静かだった。
ベッドの端に腰掛ける。そのまま少し身を乗り出して、相果さんの腕に額を押しつけた。引くというほど強くもなく、寄りかかるみたいに身体を預ける。そのまま重心を崩して、抱きつくような形のままベッドへ倒れ込んだ。
相果さんは抵抗らしい抵抗をせず、ごく自然にその体勢を受け入れて、隣へ横になった。
胸が高鳴るより先に、安堵があった。
「前と逆ですね」
そう言うと、相果さんが小さく笑った。その喉が震える振動さえわかる。
近い。腕の下にある体温も、彼がどんな表情をしているのか、その呼吸の揺れではっきりわかる。
「……こういうの、よくないですね」
相果さんの肩口に額を押しつけたまま言うと、頭のすぐ上で静かな声がした。
「そうかもしれませんね。やめますか?」
その聞き方はずるい。
やめるかどうかを決める側に、わたしを置いてくる。
だからこそ、余計に答えが出てしまう。
わたしはそのまま目を閉じた。
「傍にいて」
言ってしまってから、自分の声がひどく素直だったことに気づく。
相果さんは何も言わなかった。ただ、少しだけ布団が沈んで、隣の体温が近くなる。
それだけで、驚くほど落ち着いた。
ばらばらに散っていたものが、静かに元の位置へ戻っていく。そんな感じがした。
同じベッドにいる。
それがもう情熱の証拠ではなくなっていた。何かを掻き立てるための近さではない。ただ安心して目を閉じるための近さだ。
落ち着くのだ。この人の隣が。
最初は、この世界に無理やり閉じ込められているのだと思っていた。
相果さんに巻き込まれているのだと思っていた。押し流されているだけなのだと。
でも、わたしはもう、この場所を安心できるものとして受け入れ始めている。
帰りたいと思っていたはずなのに。
元の世界へ戻らなければいけないと思っていたはずなのに。
ここが心地よくなってしまえば、その判断は簡単に鈍ってしまう。
最後に必要なのが、恋人になることではなく、もっと別の区切りなのだとしたら。
それはきっと、誰かに流されるのではなく、自分で選んで、自分の言葉で言わなければならない。
暗い天井を見つめたまま、わたしは静かに腹を決める。
三月末に、わたしの側から何かをしなければならない。
恋人になることさえ途中の状態にすぎなかった世界が、最後に要求するのが、ただの気持ちの確認だけで済むとは思えない。最後に置かれているのは、告白より重い、もっと決定的な何かなのかもしれない。
だが、進行はもう、とっくに狂っている。いまさら順番なんて守っても仕方がない。
だったら、せめて自分で物語の結末を選ぶしかない。




