66.暦で区切られた先
三月に入ってから、社内の空気が少しずつ変わっていた。
忙しさは二月と変わらない。年度末が近づくにつれて、確認事項も決裁も細かく増えはじめる。未処理箱が空になることはないし、誰もが目の前の仕事に追われている。今までと何も変わらない。
だが、春だ。
昼前、校正紙に目を通していた現原くんが、独り言みたいにこぼした。
「来期の販促、どこまで詰めるんですかねぇ」
「体制が決まらないうちからいろいろやってもね」
気のない声で返すのは、近くでファイルをめくっていた先輩だ。
「四月入ってからバタつくの嫌じゃないですか?」
「だから準備だけしとくのよ」
誰かが笑いながらそう言う。返事もまた、いかにもこの時期らしい曖昧さだ。
わたしはモニタに向き合いながら、会話を耳の端で拾っていた。
この時期は、飛び交う言葉が曖昧になる。情報が伏せられていることもあるし、決まっていないこともある。だが、そう遠くないうちにすべて定まる。二月から持ち越した仕事を片付けながら、四月の準備をなんとなく始める。
昼前、コピー機の近くで作業をしていると、背後から声をかけられた。
「形桐さん、すみません。先月分の仮払伝票なんですが、午後までに一度確認いただけますか?」
振り向くと、三谷さんがクリアファイルを抱えて立っていた。きちんと揃えられた前髪も、柔らかい色のカーディガンもいつも通りだった。
「ええ、大丈夫ですよ。急ぎですか?」
「急ぎというほどではないんですが、今月中に引き継ぎたいものが多くて。わたし、三月いっぱいなので」
さらっと告げられて、意味を呑み込むのにいつもより時間がかかった。
「あ、……異動されるんですか?」
「いえ、退職でして」
三谷さんはそこで小さく笑った。
「結婚するんです。四月から彼のほうへ移ることになりまして」
「あら、そうなんですね! おめでとうございます」
「ありがとうございます」
受け取ったファイルの角を揃えながら、三谷さんは少し恥ずかしそうに続けた。
「年度末って、もともとバタバタするじゃないですか。異動もありますし、締めもありますし。私用まで重なると、さすがに慌ただしいですね」
そう言って、三谷さんは軽く会釈した。
「午後、よろしくお願いします」
「もちろん!」
三谷さんの背中を見送りながら、わたしはしばらくその場に立っていた。
別に、珍しい話ではない。年度末なのだから、異動も重なる。そこに寿退社が混ざったところで、会社にとっては春からの体制変更の一つでしかない。
だが、今のわたしには、その会話がただの連絡には聞こえなかった。
区切りをつける。
春からどうするのかを決める。
それは恋愛の延長というより、もっと広い意味で、人生をどう進めるか決めるという話だった。
――春は不思議な季節だ。ほんのちょっと決意しただけで、仕事から私生活に至るまでがらりと状況が変わる。
午後、確認用の資料を抱えて商品開発部へ向かう。
名嘉城くんが誰かと内線で話していて、そのさらに奥で相果さんが資料を読んでいた。
「失礼します」
相果さんに声をかけると、彼が「はい」と言って顔を上げる。
「比較表の修正版です。営業向けの見出しを少し直しておきました」
「ありがとうございます。……ああ、この形なら通しやすそうですね。ありがとう」
労うような短い肯定とともに資料を受け取り、相果さんは流れるような視線で数ページをめくった。迷いのない手つきだった。どこを見れば全体がわかるのか、どこを重点的に見るべきか、身体がすっかり知っているようなめくり方だ。
「四月に入ると店頭の動きも変わりますし、この案で一度揃えておきたいですね。春以降の比較表も、その前提で組み直したい」
「……春以降」
思わず聞き返すと、相果さんは資料に視線を落としたまま頷いた。
「ええ。決算前に全部は固めきれないでしょうから、四月頭にもう一度見てもらうことになると思います。といっても、たいしてズレないと思いますが」
そこにわたしが含まれているのが当然みたいな口調だ。わたしが春以降もこの会社にいて、宣伝部にいて、彼とやり取りを続けることが、揺るぎない前提として彼の予定に組み込まれているような。
ここにわたしがいることを、疑ってもいないような。
「わかりました」
そう答えながら、わたしはそっと相果さんの顔を見た。
彼は、三月末をただの通過点みたいに扱っている。
当たり前だ。だが、わたしにとって三月末は、ここに放り込まれてからずっと、判定とか終着といった気配を帯びていた。会社の年度末は、会社をベースにしたこの世界そのものの終着点のように思えてならなかった。
三月は、会社にとっても、個人にとっても、今の位置づけが一度締め直される時期だ。年度が切り替わる。部署が動く。担当が変わる。続くものと終わるものが淡々と仕分けされる。
そういう季節だ。この世界にとっても、この区切りはただの暦ではないはずだ。
まだ何かが足りていない。
本来あるはずのイベントが、まだ来ていないだけなのかもしれない。乙女ゲームは、最後にまとめてすべてのフラグを回収したがるものだから。途中でいい仲になってもそれは中間地点にすぎず、本当に大事な決定は最後まで引っ張られる。
(本当に大事な決定……)
自席に戻ってから、卓上カレンダーを手元へ引き寄せる。ただの暦にすぎないのに、三十一日だけが妙にくっきり見える。指先でその数字をなぞりながら、ふと、あの朝に考えたことを思い出す。
想いを自覚した。恋人になった。一夜も越えた。
でも、何も終わらなかった。
なら、恋人になること自体は、たぶんクリア条件ではない。あれはただのフラグにすぎなかったのかもしれない。
必要なのは、最後に改めて、誰を選ぶのか、この先をどうするのか、言葉にさせるような、もっと大きな決定なのだろうか。
春から、という言葉の先にあるもの。
恋愛の成立ではなく、人生そのものが決まるような、もっと大きな決定。
三月末に求められているのは、そういう種類の決定なのかもしれなかった。




