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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第5章:ANOTHER SPRING

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66.暦で区切られた先

 三月に入ってから、社内の空気が少しずつ変わっていた。


 忙しさは二月と変わらない。年度末が近づくにつれて、確認事項も決裁も細かく増えはじめる。未処理箱が空になることはないし、誰もが目の前の仕事に追われている。今までと何も変わらない。


 だが、春だ。

 昼前、校正紙に目を通していた現原(ありはら)くんが、独り言みたいにこぼした。


「来期の販促、どこまで詰めるんですかねぇ」


「体制が決まらないうちからいろいろやってもね」


 気のない声で返すのは、近くでファイルをめくっていた先輩だ。


「四月入ってからバタつくの()じゃないですか?」


「だから準備だけしとくのよ」


 誰かが笑いながらそう言う。返事もまた、いかにもこの時期らしい曖昧さだ。

 わたしはモニタに向き合いながら、会話を耳の端で拾っていた。


 この時期は、飛び交う言葉が曖昧になる。情報が伏せられていることもあるし、決まっていないこともある。だが、そう遠くないうちにすべて定まる。二月から持ち越した仕事を片付けながら、四月の準備をなんとなく始める。




 昼前、コピー機の近くで作業をしていると、背後から声をかけられた。


形桐(かたぎり)さん、すみません。先月分の仮払伝票なんですが、午後までに一度確認いただけますか?」


 振り向くと、()(たに)さんがクリアファイルを抱えて立っていた。きちんと揃えられた前髪も、柔らかい色のカーディガンもいつも通りだった。


「ええ、大丈夫ですよ。急ぎですか?」


「急ぎというほどではないんですが、今月中に引き継ぎたいものが多くて。わたし、三月いっぱいなので」


 さらっと告げられて、意味を呑み込むのにいつもより時間がかかった。


「あ、……異動されるんですか?」


「いえ、退職でして」


 ()(たに)さんはそこで小さく笑った。


「結婚するんです。四月から彼のほうへ移ることになりまして」


「あら、そうなんですね! おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 受け取ったファイルの角を揃えながら、()(たに)さんは少し恥ずかしそうに続けた。


「年度末って、もともとバタバタするじゃないですか。異動もありますし、締めもありますし。私用まで重なると、さすがに慌ただしいですね」


 そう言って、()(たに)さんは軽く会釈した。


「午後、よろしくお願いします」


「もちろん!」


 ()(たに)さんの背中を見送りながら、わたしはしばらくその場に立っていた。


 別に、珍しい話ではない。年度末なのだから、異動も重なる。そこに寿退社が混ざったところで、会社にとっては春からの体制変更の一つでしかない。


 だが、今のわたしには、その会話がただの連絡には聞こえなかった。


 区切りをつける。

 春からどうするのかを決める。

 それは恋愛の延長というより、もっと広い意味で、人生をどう進めるか決めるという話だった。


 ――春は不思議な季節だ。ほんのちょっと決意しただけで、仕事から私生活に至るまでがらりと状況が変わる。




 午後、確認用の資料を抱えて商品開発部へ向かう。

 名嘉(なか)(じょう)くんが誰かと内線で話していて、そのさらに奥で(さが)()さんが資料を読んでいた。


「失礼します」


 (さが)()さんに声をかけると、彼が「はい」と言って顔を上げる。


「比較表の修正版です。営業向けの見出しを少し直しておきました」


「ありがとうございます。……ああ、この形なら通しやすそうですね。ありがとう」


 労うような短い肯定とともに資料を受け取り、(さが)()さんは流れるような視線で数ページをめくった。迷いのない手つきだった。どこを見れば全体がわかるのか、どこを重点的に見るべきか、身体がすっかり知っているようなめくり方だ。


「四月に入ると店頭の動きも変わりますし、この案で一度揃えておきたいですね。春以降の比較表も、その前提で組み直したい」


「……春以降」


 思わず聞き返すと、(さが)()さんは資料に視線を落としたまま頷いた。


「ええ。決算前に全部は固めきれないでしょうから、四月頭にもう一度見てもらうことになると思います。といっても、たいしてズレないと思いますが」


 そこにわたしが含まれているのが当然みたいな口調だ。わたしが春以降もこの会社にいて、宣伝部にいて、彼とやり取りを続けることが、揺るぎない前提として彼の予定に組み込まれているような。

 ここにわたしがいることを、疑ってもいないような。


「わかりました」


 そう答えながら、わたしはそっと(さが)()さんの顔を見た。


 彼は、三月末をただの通過点みたいに扱っている。

 当たり前だ。だが、わたしにとって三月末は、()()に放り込まれてからずっと、判定とか終着といった気配を帯びていた。会社の年度末は、会社をベースにしたこの世界そのものの終着点のように思えてならなかった。


 三月は、会社にとっても、個人にとっても、今の位置づけが一度締め直される時期だ。年度が切り替わる。部署が動く。担当が変わる。続くものと終わるものが淡々と仕分けされる。

 そういう季節だ。この世界にとっても、この区切りはただの暦ではないはずだ。


 まだ何かが足りていない。

 本来あるはずのイベントが、まだ来ていないだけなのかもしれない。乙女ゲームは、最後にまとめてすべてのフラグを回収したがるものだから。途中でいい仲になってもそれは中間地点にすぎず、()()()()()()()()は最後まで引っ張られる。


(本当に大事な決定……)


 自席に戻ってから、卓上カレンダーを手元へ引き寄せる。ただの暦にすぎないのに、三十一日だけが妙にくっきり見える。指先でその数字をなぞりながら、ふと、あの朝に考えたことを思い出す。


 想いを自覚した。恋人になった。一夜も越えた。

 でも、何も終わらなかった。


 なら、恋人になること自体は、たぶんクリア条件ではない。あれはただのフラグにすぎなかったのかもしれない。

 必要なのは、最後に改めて、誰を選ぶのか、この先をどうするのか、言葉にさせるような、もっと大きな決定なのだろうか。


 春から、という言葉の先にあるもの。

 恋愛の成立ではなく、()()()()()()が決まるような、もっと大きな決定。

 三月末に求められているのは、そういう種類の決定なのかもしれなかった。

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