65.離れ損ねたハリネズミ
三連休の中日の午後、扇衣さんは自分からここへ来た。
会社へ出るほどではないが、休み明けにひと悶着起きそうな資料を整理しておきたいと言って。
喫茶店でもよかったはずだ。自宅でもできたはずだ。それでも彼女は、迷った末にこの部屋を選んだ。そして今、リビングのソファで、扇衣さんは静かに資料に目を通している。
僕はキッチンでコーヒーを淹れていた。マグカップを二つ出しながら、ふと笑いそうになる。自嘲だった。ここまで来るのに、ずいぶん遠回りをした。僕の部屋で、彼女が壊れず同じ空間にいてくれる。たったそれだけのことに。
理解している。これは彼女との距離を詰めた結果ではない。
もう、手遅れなのだ。僕は形桐扇衣を他人として切り離すことができない。近い、遠いなどと距離を測る段階はとうに過ぎている。
昔は、もっと単純に考えていた。
互いを傷つけないためには、適切な距離を探ればいいのだと信じていた。彼女を怯えさせないように、踏み込みすぎないように。近づきすぎれば互いに傷つくのなら、相手が安心できる位置まで下がり、安全な距離を保つことが正解なのだと。
その前提が間違っていると思い知るまでに、何度同じ過ちを繰り返しただろう。
頭痛と一緒に押し戻されていた断片は、彼女に名前を与えられてから少しずつ、事実としての生々しい質量を持ち始めている。それを仮説として扱う気にはもうなれない。ひとつ思い出せば、次も、その次も、嫌になるほど自然につながってしまう。
取り返しのつかない失敗は、ひとつではなかった。
かつて、僕は自分の衝動のままに彼女へと近づいた。彼女を部屋に閉じ込め、外界から切り離し、食事も睡眠もすべて管理した。彼女が理不尽な世界に触れなくて済むように。そのために必要なことを、必要なだけやっているつもりだった。
最初のうちは抵抗された。帰してほしいと泣いて訴えられ、そのたびに「今はまだ危ないから」と言い聞かせていた。
だが、あるところから彼女は泣きも怒りもしなくなった。ただ微笑み、じっとして、差し出されたものを受け入れるだけになった。
扇衣は壊れてしまった。自分が彼女を壊したのだと理解した。鎖で縛り付けたところで、彼女の精神は僕の手から完全に零れ落ちていった。
それでも、僕はまだやり直せると思った。
外へ返せないのなら、せめて最後まで責任を取ろうとした。彼女を一人で置いていけないのなら、一緒に死ぬしかない。
あのときは、それが救済だと本気で思っていた。彼女の人生を守れなかったくせに、最期まで自分の手の中に置く執着に、俺は抗えなかったのだ。
コト、とマグカップの置かれる音がして、僕は記憶の底から引き戻された。
「ごちそうさまでした」
扇衣さんが小さく息を吐く。その瞳には、かつて奪い去ってしまった光が、はっきりと知性の色を帯びて宿っている。手首に鎖の痕はない。僕の顔色を窺うような、あの虚ろな微笑みもない。
テーブルの下で、自分の手をきつく握りしめる。
「……相果さん? 大丈夫ですか」
視線を向ける。ソファに座る彼女が、こちらを見つめていた。
「ええ。少し、考え事をしていて」
微笑み返すと、彼女は小さく頷いた。
――今の彼女は生きている。
この温かさと意志を、もう二度と俺の手で壊してはいけない。
周回の記憶はない。だから、次に扇衣さんと距離を取ろうとしたのは、前回の露骨な失敗が精神のどこかにこびりついていたのかもしれない。
扇衣さんに惹かれる一方で、僕は彼女に近づいてはならない、と強く思った。
それはほとんど強迫観念だった。必要以上に話しかけないどころか、彼女を徹底的に避けた。帰り道も変え、仕事も最低限しか接点を持たなかった。それで彼女が穏やかに過ごせるなら、そのほうがいいと思った。
しばらくは順調に見えた。時おり頭痛に悩まされても、当時は大した苦痛ではなかった。
だから、彼女が唐突に姿を消したとき、理解が追いつかなかった。
何もしないと決めた世界では、彼女は手の届かないところで簡単に失われてしまった。手を出さないことは、彼女を守ることではなかったのだ。
手を出した結果、僕が彼女を殺したこともあった。
近づけば壊し、離れても失う。
その絶望的な反復の果てに、今の僕がいる。
それは決して人間的な成長ではない。途方もない失敗の積み重ねによる変質だ。僕自身がそれを一番よくわかっている。
近づけば刺さる。離れれば失う。
もしこれがハリネズミのジレンマのような話なら、まだ救いがあっただろう。だが、そんな生易しい段階はとうに過ぎている。
僕は、形桐さんの針に貫かれて、そのまま離れ損ねたのだ。針が刺さったまま傷は治り、癒着して、刺された痛みすらもう感じなくなってしまった。
僕の生活の動線に、判断の基準に、安心の条件に、形桐扇衣という存在が致命的なまでに組み込まれてしまった。
彼女は、僕がこの世界に存在し続けるための絶対的な条件になってしまった。
他人として切り離すことなど、もはや不可能だった。
外から見れば、僕は異常だろう。普通の人間関係なら、相手が押し返せば、そこで距離ができる。境界が引かれる。だが僕にはもう、その境目が見えない。
彼女は「帰りたい」と泣くように零した。
彼女の中に、どこかへの強烈な帰属意識があることは知っている。それでも、俺は、扇衣の帰る場所がここであってほしいと、縋るように願っている。
今さら線を引こうとすれば、癒着した傷口を無理に剥がすことになる。正しい距離など、最初から存在しなかったのだ。あるのは、彼女を完全に壊してしまわないように、このまま静かに抱え込む方法だけ。
その果てに、もしどうしようもない破綻が訪れるのだとしたら。
そのときは、自分の手でこの癒着を断ち切るしかないのだろう。
手元のマグカップを見つめてから、もう一度彼女のほうを見た。
彼女はもう資料を閉じていた。コーヒーの横に置いたクッキーを指先でつまみ、目が合うと、少し困ったように笑う。
「……来てよかったです」
ただ仕事が片づいたことだけに安堵しているようには聞こえなかった。
もちろん、彼女はそんなつもりで言ったのではないのだろう。それでも、僕には十分だった。
彼女がここを選び、笑ってくれる限り、このまま抱え込むしかない。




