64.ここだけに馴染む
仕事を持ち帰った夜、自室のテーブルに資料を広げてみたものの、どうにも頭が働かなかった。
暖房はついている。照明も十分だ。机の上も片づいている。条件としては何も悪くないはずなのに、視線だけが紙の上を滑っていく。内容が入ってこない。赤を入れようとペンを持っても、どこを直すべきなのか判断が止まる。
会議用の比較表を一ページ目から見直す。開発側の訴求が強すぎる。営業が嫌がりそうな展開案も混じっている。そこまではわかる。わかるのに、どう直せば一番通りやすい形になるのか、肝心の順番が頭の中で組めなかった。
気づけば、同じ行を三回も読み返していた。
だめだ、と思って資料を閉じる。マグカップに口をつけると、中のコーヒーはとっくにぬるくなっていた。
そのとき、携帯が鳴った。現原くんからだった。
『休み明けの会議資料なんですけど、営業に見せる版と開発の最新版で数字が揃ってなくて……。このままだと絶対つっこまれる気がして、自信なくて』
メールの末尾には、焦りがにじむような短い追伸がついていた。
『相果主任にも回すつもりなんですが、その前に営業向けの見せ方として危ないところがないか見てもらえたら助かります』
わたしは携帯を見つめた。
放っておいても明日世界が終わるわけじゃない。年始の数日くらい、ズレたままでもどうにかなる。だが、こういう小さな食い違いほど、休み明けには厄介な火種になるだろうことも知っていた。
『OK。データ送って』
短く返すと、すぐに添付つきで返信が来た。
ファイルを開く。数字のズレはすぐ見つかった。片方は営業向けに丸めた数字、もう片方は開発の最新版をそのまま反映している。営業に出すなら前者だろう。だが、最新版との差分をどう説明するかが決まらない。
机の上に資料を広げたまま、わたしはしばらく動けなかった。
結局、気分を変えようと思って駅前の喫茶店に入った。昼下がりの店内はほどよく混んでいて、端の席にはまだ灰皿が残っている。コーヒーを頼み、資料と現原くんの送ってきた数字表を並べる。
だが、やはり駄目だった。
周囲の話し声が気になるというほどでもない。店内はむしろ静かなほうだ。暖房も効いているし、机も狭すぎるわけではない。
それでも、どこにも腰が落ちない。
比較表の上に視線を落としたまま、わたしはピアニッシモ・ワンに火をつけた。細い煙が、まっすぐ立ちのぼる。
(……相果さんの部屋なら)
資料を広げる場所がある。何より、開発側の数字もすぐ確認できるだろう。あの部屋なら、途中で思考を止めずに済むはずだった。
一度そう思ってしまったからだろうか。頭の中ではもう、あの部屋に入ってからの段取りのほうが先に組み上がっていた。
煙を吐きながら、わたしは灰皿を見つめた。
本当は、どこでもいいはずなのだ。自宅でも喫茶店でもできることのはずだった。
それなのに、仕事のために必要な手順だけが、あの部屋に結びついている。
携帯がまた震えた。現原くんからだった。
『さっきの数字の件、急ぎではないんですけど、もし今日見てもらえたら助かります…』
小さく息を吐く。
これは仕事だ。仕事だから確認する。仕事だから、休み明けに揉める前に潰しておく。そう考えれば、相果さんの部屋へ行く理由はいくらでも作れた。
わたしは携帯を開いた。
『仕事の確認をしたいんですが、今お時間ありますか?』
そこまで打って、指が止まる。あまりにも言い訳じみていた。だが、消すことはしなかった。
送信してほどなく、返信が来る。
『もちろんです。比較表も見ますので、必要なものがあれば持ってきてください』
簡潔で、余分のない文面だった。
携帯を閉じても、しばらく席を立てなかった。自分から送ったくせに、いざ返事が来ると、今度はそれを現実の行動に移すまでに小さな引っ掛かりがあった。喫茶店のテーブルの上には、開きっぱなしの資料と、半分ほど冷めたコーヒーと、ろくに吸わずに消してしまった煙草が残っている。
ついさっきまでここで何とかしようとしていた痕跡ばかり。資料だけを鞄に押し込んで、わたしは立ち上がった。
これは仕事だ。
休み明けに揉めないようにするため。現原くんから持ち込まれた火種を、今のうちに潰しておくだけ。
会計を済ませて外へ出る。
冬の空気は冷たく、頬に触れるだけで意識が澄んでいくようだ。駅前は年始の休みらしく、人通りはまばらだった。
信号を一つ渡って、角のコンビニを過ぎて、少し狭くなる歩道をまっすぐ行く。足が勝手に道を進んでいった。
マンションの前まで来る。見慣れた外壁。見慣れたエントランス。
エレベーターを待つあいだ、合わせ鏡みたいなステンレスの扉に自分の顔がぼんやり映った。喫茶店を出るときより、少しだけまともな顔をしていた。安心しているのだと気づいた。それを自覚することはよくないような気がして、咄嗟に目を逸らしてしまう。
チャイムを押せば、内側ですぐに足音がした。
ドアが開く。
「どうぞ」
相果さんはいつも通りの落ち着いた声で言い、わたしもいつも通りに靴を脱いだ。
コートを掛ける場所に迷わない。資料を置く位置に迷わない。通されたリビングで、テーブルのどこに比較表を広げればいいかも、もう考えなくてもわかっていた。
そこまで来たところで、胸の奥に張りついていたものが、ふっと緩んだ。
自宅でも喫茶店でもうまく働かなかった頭が、ここでは驚くほど静かだった。
「現原くんから来た数字の件です」
「見せてもらえますか」
資料を広げる。相果さんが隣に立つ。喫茶店では何度読んでも入ってこなかった数字の並びが、この部屋ではするすると頭に入ってきた。
「営業向けはこっちですね。最新版をそのまま出すと、今度は棚割りの想定と噛み合わなくなります」
「……そうですね」
「それにしても、形桐さんがここで気づいてくれなければ、休み明けは最悪のスタートだったかもしれません。仕事のためにここへ来るという判断をしてくれて本当に助かりました」
その言葉に、胸の奥で張り詰めていた最後の棘が、甘く溶けていくのを感じた。
彼は、わたしの「仕事のため」という半分は言い訳みたいな名目を、正当性で受け止めてくれたのだ。
相果さんの見立ても添えて、現原くんへ修正方針を送信すると、すぐに『ありがとうございます! 助かりました!』と通知が返ってきた。
携帯の画面を伏せたわたしを見て、相果さんが柔らかく微笑んだ。
「これで火種は消えましたね。この件はもう大丈夫でしょう」
それはまるで、外のノイズを締め出して、この部屋の内側へとわたしを収めるような響きだった。心地よかった。
「お疲れさまでした」
静かな声と一緒に、視界の端へコトンと音がした。
湯気が立つマグカップだった。わたしが一番一息つきたい絶好のタイミングで、好みの温度のコーヒーが置かれていた。カップに触れると、冷え切っていた指先からじんわりと温かさが広がった。
ああ、と息を吐く。
助かった、と思った。どこにも馴染まなかった身体が、今、この部屋の温度に馴染んでいくのを感じた。それだけでよかった。今はもう、それ以外のことを考えたくなかった。




