63.付きも離れもせず
仕事始めの午後、商品開発部のフロアはまだ正月休みの名残を引きずっていた。年明け最初の営業日というだけで、どの顔にもまだ完全にはエンジンがかかっていない。
「おーい、形桐」
呼ばれて顔を上げると、名嘉城くんがいた。ワイシャツの袖をいつものように雑にまくったまま、わたしのデスクの脇へ半身で入り込んでいる。
「これ、先に見てくれよ。宣伝の反応ほしくてさ」
差し出されたクリアファイルを受け取りながら、わたしは眉を寄せた。
「順番が違わない?」
「後で相果主任にも見せるぜ。でも、今いねえんだよな」
「そういう問題じゃないでしょ」
「細けえなー」
名嘉城くんは悪びれずに笑う。横から覗き込むみたいに身を寄せてくるのも、いつも通りだった。
ファイルを開いて数ページめくる。内容そのものは破綻していない。ただ、開発側の都合が前に出すぎている。
「これ、順番入れ替えたほうがいいんじゃない? 最初にこの成分の良さを出すと、営業が誤解しちゃいそうよ」
「うーん、今回はこの新成分が一番の売りなんだよな」
「利用者が最初に知りたい『どういう自分になれるか』がピンとこないし。あと、このパッケージの形状だと、エンド棚に積みにくいって営業が渋るわよ」
「ああ、棚ね。そこは考えてなかった」
「営業もそこまで言わないもんね」
「じゃそこは直すわ」
言いながら、名嘉城くんはわたしの手元の資料を横から覗き込んだ。近い。けれど、その近さにはいちいち意味がない。ただ早く話を進めたいから、距離の取り方が雑なだけだ。
「ちょっと。近いわよ」
「わり」
名嘉城くんは素直に一歩退いた。その軽さに肩の力が抜ける。
名嘉城くんの近さは、雑ではあるがわかりやふい。近いと言えるし、言えば少し退く。仕事の押し引きも同じで、どこでぶつかっているのかがちゃんと見える。
名嘉城くんはファイルを引き取りながら、ふとわたしの顔を見た。
「ていうか、年明けから顔死んでねえ?」
「はあ。新年早々、ほんと失礼な男ね」
「寝不足?」
「そんなとこよ」
名嘉城くんはそこで視線を少し細めた。
完全に信じた顔ではない。何か言いかけて、結局やめたような微妙な間があった。だが、それ以上は追ってこない。
「ま、無理すんなよ」
そう笑って、名嘉城くんはそのまま別のデスクのほうへ歩いていく。残されたわたしは、しばらくその背中を見ていた。
強引だし、踏み込み方も雑だ。だが、嫌なら嫌と言える。その一言で退くか、さらに押してくるか、どちらにせよ反応が変わる。そうやって押し引きできるぶん、まだ相手は他人だとわかる。
その日の昼休み、席を立とうとしたところで、光胡さんに声をかけられた。
「扇衣ちゃん、食堂行くんでしょう。ご一緒していい?」
「もちろんです!」
断る理由はない。
わたしはにこやかに頷いて、財布を持って立ち上がった。
社員食堂は、仕事始めらしい妙なのんびり感に包まれていた。トレーを持って列に並び、適当に小鉢を選びながら、光胡さんがさりげなく口を開いた。
「あの後、どう?」
小鉢に伸びかけていた手が止まる。光胡さんは何でもない確認のような口調で続けた。
「ホラ、相果主任のことよ。前に話してくれたでしょ」
わたしは曖昧に笑った。
「ええ。まあ……」
「変な遭遇のしかたは減った?」
「それは、はい。前みたいなことは、もうありません」
食堂の奥の、壁際の席に向かう。向かい合って座り、味噌汁の湯気が立ちのぼるのを見つめてから、光胡さんは箸を割った。
「ならいいけど。あなた、また一人で抱え込みそうなんだもの」
「……すみません」
「謝らないの」
ぴしゃりと言われ、わたしは反射的に背筋を伸ばす。
「あなたねえ、前にも言ったけれど、仕事と私情を混ぜるのがいちばんややこしいの。そこは線を引かせなきゃ駄目なのよ。で、最近はどうなの?」
「最近、ですか」
そこで、言葉が止まる。
退勤後に妙に遭遇するとか、業務外に仕事の顔をしたまま踏み込んでくるとか、そういうことは何も問題ない。以前よりずっときちんとしている。
そう、きちんとしているのだ。
「やっぱり困ってるの?」
光胡さんが怪訝そうに首を傾げる。
「いえ、そんな」
「じゃあ、なあに?」
わたしはすぐに答えられず、味噌汁をひと口すすった。舌が熱い。熱さをごまかすみたいに息を吐いた。
何? 確かに、何なのだろう。わたしは口を閉じた。自分でもうまくわからない。
「そうですね……。資料を、先に整えてくださることが多くて」
「それは仕事ができるってことでしょう」
「ええ。おっしゃる通りです」
「気を遣われすぎて、やりにくいとか?」
「……いえ。やりやすいです」
何がどう違うのかを言葉にしようとすると、全部が小さくてつまらない不満みたいになる。
先回りされる。助かる。
こんなもの、相談にならない。
事実を並べれば、わたしはただ有能な仕事相手に恵まれて、つまらないことで引っかかっている女でしかない。
助けを求めたいことは、たいてい言葉のフォーマットに乗ろうとしない。ただの贅沢みたいになる。それが意味するのは、他人からはわたしの悩みがまったく認識できない、ということだ。
黙り込んだわたしを見て、光胡さんは小さく息を吐いた。
「扇衣ちゃん」
「はい」
「あなた、また難しく考えてない?」
断言されて、思わず「そうですね」と苦笑いして見せた。心のうちは硬直していたが、無理やり表情をつくった。
「前みたいに、仕事の線を越えてくるなら問題よ。でも今は、ちゃんと気を遣ってるんでしょう? 資料だって整ってる。だったら、少なくとも前よりはマシじゃない」
「……ええ、もちろん。助かっています」
「だから全部よし、とは言わないわよ? でもね、相手がちゃんとしてるぶんまで『何かおかしい』って抱え込んだら、今度はあなたが潰れちゃうじゃない?」
そう言って、光胡さんは小鉢の煮物に箸を伸ばした。
その横顔は、以前と同じだった。ちゃんとこちら側に立ってくれている。味方なのだと思う。
だが、胸の中の鈍いものは少しも晴れない。
「何かあるなら、また言いなさい。曖昧なままにしないでね」
「……はい」
返事をした自分の声は薄っぺらい。
食堂を出て宣伝部のフロアへ戻る途中、わたしは自分がひどく中途半端な位置にいる気がした。
前みたいに「困っています」と言えれば、まだ楽だった。仕事の線を越えているとか、妙に遭遇するとか、そういう言葉で括れた頃のほうが、まだ対処のしようがあった。
席に戻る。
そこで初めて、自分のキーボードの脇に、見慣れた整った字の付箋が貼られたクリアファイルが置かれていることに気がついた。
『午後の会議用資料、営業部に通しやすいよう、懸念されそうなコスト表のフォーマットをこちらで調整しておきました。最終確認をお願いします』
業務連絡。差出人の記名はないが、相果さんの端正な字はもう見慣れてしまった。
ありがたい。とても助かる。
それなのに、付箋の文字を見た途端、胸の奥に鈍いものが広がった。
名嘉城くんならば近いと言えるし、嫌なら嫌と言える。押し返せば、そのぶん相手も位置を変える。
でも、相果さんを相手にすると、そういう言葉がうまく浮かばない。
資料の順番を整えるみたいに、気持ちまで先に整えられているような気がした。助かるし、やりやすい。だからこそ、どこで止めればいいのかがわからない。
付箋の貼られた場所に指を置いたまま、わたしはしばらくページを開けなかった。




