61.体は一つしかない
攻略対象。ゲーム。キャラクター。設定。
どれも、彼の足元にある絶対の前提を叩き割るために選んだ言葉だった。彼を止めるにはもうそうするしかないと思ったのだ。
実際、止まりはした。
だが、それで終わりではない。むしろここからだと思っていた。
彼はどうするだろう。否定されるかもしれない。怒るだろうか。壊れたように笑うか、逆に冷たく突き放してくるかもしれない。
彼がどんな反応を返してもいいように、頭の中で言葉を組む。――ここはゲームの世界だ。逃げ道を塞ぐように配置される都合のいい偶然も、わたしの行動をすべて先回りするようなあなたの異常な執着も、その先回りがいちいち的確すぎることも、すべてはプログラムされた設定にすぎない。あなたのその感情すら、あなた自身の意志ではないのだと。
相果さんは、なぜかひどく腑に落ちたように「そうか」とつぶやいた。それから、何かを噛みしめるようにそっと目を伏せる。次に口を開いたとき、その声にはかすかな自嘲が混じっていた。
「すみません。……そんなに怯えさせてしまって、本当に」
わたしは目を見開いた。
含みのない謝罪だった。怒りも、皮肉も、責める色すらない。あるのは、ひたむきな心痛。わたしに対する、純粋な申し訳なさ。それを見た瞬間、わたしのほうがひどくまずいことをしたような気がした。
謝ってくることは想定していた。だがそれは、不安定な人間を刺激しないためのクッションとして消費されるものだと思っていた。「疲れているんですよ」とでも言って、曖昧に受け流すための前置きとして。
本当に謝罪されるとは思っていなかった。
だが、すべての非を一身に被るように項垂れている彼の、この無抵抗さはどうだ。
こんなつもりじゃなかった。ならば一体どんなつもりだったのかと問われても、うまく言えない。相果さんなら受け止めるだろうと、どこかで甘えていたのかもしれない。その困惑で、わたしは次の言葉が出てこなくなった。
「融さん、あの……」
「立ったままだと疲れるでしょう。よければ、座ってくれませんか」
彼は静かにそう言って、身体を一歩引いた。ソファのほうへ視線を向ける。
……いや。座ってはいけない。座るという行為は、彼を受け入れるという白旗に等しい。反論するなら、突き放すなら、帰るなら、わたしは立っているべきだ。
だが、動揺した人間を座らせようとするのは、まともな配慮ではないか。
彼を傷つけておきながら、その純粋な善意まで拒絶する権利が自分にあるのか。
今はそんなことを考える場面ではない。だが、 自分の中の罪悪感が、見えない重力となってわたしの膝を容赦なく折る。
「……じゃあ、その、少しだけ」
そんな言い訳めいたことを口にして、わたしはソファに腰を下ろす。座面の柔らかさに沈み込んだ途端、まずい、と思った。身体から力みが抜ける。さっきまで張り詰めていた抵抗の力が、そのクッションの心地よさに吸い込まれてしまう。
「温かいものを入れますね」
「いりません」と突き放すべきだったが、口には出せなかった。
腰を下ろしたのは、小さな妥協のつもりだった。だが、ほんのわずかであっても、すでに譲歩をしてしまった今のわたしは、彼を突っぱねる大義名分を失っていた。彼の差し出す優しさを一度でも受け入れてしまえば、次を突き返す理由はもうどこにもない。まともに謝り、気遣う人を、これ以上殴りつけることはできない。
キッチンから、湯の沸く音が聞こえる。
その生活じみた音が、かえって落ち着かない。わたしが突き付けたのは決裂の申し出に近い。それなのに、耳に入ってくるのは、ひどく静かでまともな生活の音ばかりだ。
わたしは、戦うつもりだった。
決定的な事実を突きつけ、そのあとに来る反論も否定も受け止めて、必要ならもっと残酷なことまで言う覚悟でいた。
なのに今、自分がしているのは、ソファに座って、湯の音を聞きながら、次に差し出されるだろう湯呑みを待つことだけだった。
彼が湯呑みを二つ持って戻ってくる。
そのうちの一つをそっとテーブルに置かれて、わたしはためらった。だが、そのためらいも長くは続かない。受け取らないほうが、もっと理不尽で、子供っぽい意固地を張るような行為に思えてしまう。
「……ありがとうございます」
口から出たのは、そんな言葉だった。
湯呑みを両手で持ち上げると、熱が指先にじんわり伝わってくる。
相果さんは、少し斜めの位置で、ソファではなく床に膝をついている。わたしを見上げるような低い位置から、彼が静かに口を開いた。
「……いま、無理に何か決めなくてもいいです。まだ、朝も早いですから。帰るにしても、いろいろ考える時間はあります」
それは、わたしの耳には懺悔のように響いた。
明日の出勤があるなら、それを理由にここを出られたかもしれない。だが今は、それがない。冬休みに入ってしまった。会社という外側の都合が、この場には何ひとつ残っていなかった。
わたしは湯呑みを持ったまま、自分の膝の上へ視線を落とした。
ここにいる、とは言いたくなかった。だからといって、帰るとも言えなくなってしまう。
「……ごめんなさい」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
「傷つけるようなことを言って、ごめんなさい」
相果さんはわたしを見上げる位置のまま、静かに告げる。
「謝らなくていい。ずっと一人で抱えていたんでしょう」
予想もしなかった角度からの肯定だった。
たった一人で世界と戦っているつもりでいたわたしの孤独を、彼はいとも簡単に受け入れてしまった。その底なしの受容に、喉の奥からせり上がってくる熱い塊を、奥歯をきつく噛み締めて留める。自分の内側に、泣き叫ぶ子供のような弱い感情があったなんて、知らなかった。
相果さんには――この人にだけは、もう表向きの言葉は一つも通じないのだ。理屈も、虚勢も、何もかも。たった一言で、わたしの抵抗は根本からひっくり返されてしまった。
視界が熱く滲む中、彼は、膝の上で白くなるほど固く握りしめられていたわたしの拳へ、ゆっくりと手を伸ばした。指先が一度だけためらうように止まり、それから、その温かい手のひらでそっと包み込んだ。
「怖かったでしょうに。……ありがとう、話してくれて」
「……帰りたい」
それは、ぽつりと洩れた。わたしは顔を伏せていて、彼の表情は見えない。
相果さんは、静かに訊いた。
「どこへ帰りたいんですか。自宅に? それとも、君が本来いるべき場所に?」
すぐには答えられなかった。
「……わかりません」
自分でも情けなく思うほど、弱く頼りない声だった。
帰りたい。だが、どこへ帰ればいいのだろう。
「選べないんです。自宅に、世界の外に、わたしの時代に、そして、あなたのところに。一言で言えないんです。帰るって言葉で片付けようとしても、その先がぜんぶ違うの」
わたしは一人しかいない。ひとつを選べば、他には帰れない。




