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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第4章:WINTER

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60.不連続存在を証明する

「やめてください! あなたのそれは異常です!」


 痛切な拒絶だった。彼女は喉を焼くような声で、(とおる)を睨みつける。

 その視線を受けて、(とおる)は目を伏せた。


(……たしかに、手順を誤った)


 彼女を安心させるつもりで整えてきたはずなのに、結果としてここまで追い詰めてしまった。距離の詰め方を見誤っ――


「だって、あなたは……〈攻略対象〉なの!」


 その言葉が落ちた瞬間、(とおる)の動きがぴたりと止まった。さっきまで頭の中で組み立てていた思考が、そこで唐突に途切れた。


「……攻略対象?」


「ここはゲームの世界で、あなたはそうなるように作られたキャラクターなの! わたしを愛してるんじゃなくて、そういう設定なだけなのよ!」


 彼女の決死の叫びを聞きながら、(とおる)の内心には、水を打ったような静けさが広がっていた。


 攻略対象。ゲーム。キャラクター。設定。


 荒唐無稽なはずの言葉だった。

 だが、否定は浮かばなかった。脳内に散らばっていた違和感の断片が、そこで初めてひとつの形に収まり始めたからだ。


「……そうか」


 無意識のうちに、声がこぼれていた。


 最初は、単に()()()()()のだと思っていた。

 職場の空気も、価値観や技術の古さも、対面に依存した仕事の流れも、自分の感覚から微妙にずれていた。

 かといって、何かを思い出せるわけではない。常識をどこかに置き忘れてしまったような居心地の悪さがまとわりついているだけだった。

 自分の感覚がおかしいのかもしれなかった。ただ、時おり、何かの拍子に過去へ紛れ込んでいるのではないか、と考えることはあった。


 だが、彼女の言葉は、その曖昧な仮説を塗り替えてしまった。


 そこで初めて、これまで切り離されていた違和感が一気に浮かび上がる。

 ふとした瞬間に過る身に覚えのない記憶。見覚えのない部屋。いつの間にか出来上がっていた檻の部屋。常識の齟齬。彼女への異常な執着。そして、自分を殺しかけていたあの忌々しい頭痛。


「そうか」


 彼女の言う通りだとしたら。この感情も、この世界も、すべてがあらかじめ用意されたシステムに過ぎないのだとしたら。


「それなら、すべての説明がつくな。身に覚えのない記憶も。知らない部屋も。……君への執着も」


 ひとつひとつは断片に過ぎない。互いに繋がらないだけでなく、同じ時間の中に収まってすらいない。

 だが、どれも僕だ。

 連続した一人の人生ではなく、失敗した複数の〈(さが)()(とおる)〉の残滓が、今の自分の中に沈殿している。不連続なまま折り重なった自分を、ただひとつ貫いているものがあるとすれば――それは、君だ。


「あ……」


 彼女は一歩後ずさる。(とおる)は追わなかった。その場に立ったまま、視線は彼女に釘付けだった。


「ゲームだというなら、何度か失敗している。何か取り返しのつかないことをしたんだ。とにかく、最初から、そう()るように作られていた」


「違う……」と彼女は力無く首を振った。


 彼女らしからぬその弱々しい姿に、胸が痛む。これ以上怯えさせる前に、早く納得させてあげたい。


「違うの?」


 怯えさせたくなくて、思ったより甘い声が出てしまう。

 だが、違うということはないだろう。それ以外に、どうやって説明できる? 彼女を諦めようと考える、たったそれだけで死んでしまいそうだったのに。


「こんなのはおかしいって、抵抗するたびに痛んだんだ。こんな執着は間違っているって、抑えるたびに苦しかった。楽になりたかった……」


 そこで、言葉を切る。

 自分の感情が設定であり、(さが)()(とおる)形桐(かたぎり)(あお)()を愛するように作られていたのだとしたら。

 彼女が触れた時だけ、あの頭を割るような痛みやノイズが薄れたのも、そのためだったとしたら。

 彼女がこの世界に属していて、自分が()()として弾かれかけていたのだとしたら。


(彼女に触れている間だけ、〈(さが)()(とおる)〉として認められていたのかもしれない)


 これまで頭痛は、異常な依存を掻き立てるものだと思っていた。頭痛は狂気そのものなのだから、痛みに耐えてブレーキをかけなければならないのだと。

 だが、違ったのだ。


 ――抗ったのが、間違いだったのか。


「虚構の愛でも構わない。俺には衝動がある。これは、本物なんだ」


 (とおる)は自分の胸元を軽く叩き、その指先をこめかみへと移した。


「……だって、こんなに苦しい」


 設定だろうが何だろうが、この苦痛と彼女を欲する衝動は、間違いなく実在している。


 そう認めると、これまで頭痛と一緒に押し戻されていたもののうち、ひときわ荒い記憶が、脳の奥底から浮かび上がってきた。

 もっと露骨で、もっと取り返しのつかない失敗の一つ。――黒いガムテープで目張りされた部屋。不釣り合いな檻。ソファに繋がれた鎖。そこでただ微笑むだけの彼女の髪を梳いている光景。


 その記憶は、現在(いま)の自分がやるにはあまりに異様だ。

 だが、別人ではない。僕は、もはや連続したひとりの人間ではない。そうした不連続な僕たちのどれもが、同じように彼女を欲し、失敗してきた。


 (とおる)は、目の前の形桐(かたぎり)(あお)()を見た。

 彼女は怯えている。目の前の男を止めるための最後のカードを切ったのに、それでも何も止まらない。その絶望が、ありありと顔に出ていた。


 申し訳ない、と(とおる)は思った。ここまで怯えさせるつもりではなかったのに。


 だが、今の(とおる)にとっての彼女は、長くこの身を苛んでいたものに、ようやく名前をつけてくれた存在に他ならなかった。


 彼女を遠ざけなければ。

 せめて彼女()()でも、()()()()に返さなければ。


 そんな、頭痛の種でしかなかった強迫観念が、静かに霧散して消えていく。

 それと引き換えに、ごく単純な納得が腹に落ちてきた。

 考えすぎていたのかもしれない。彼女を手放さなければいい。たったそれだけでよかったのに。


 ああ。参ったな。

 最初から、こうしておけばよかった。


 あんなに頭を狂わせていた痛みが、今は嘘みたいに静まり返っている。

 ようやく、(さが)()(とおる)という存在が、この世界と完璧に噛み合った感覚があった。

 彼女を絶対に逃がさないことが、息をするのと同じくらい、ごく自然な真理として(とおる)の身体を満たしていた。

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