59.すべて秩序になる
目を覚ました瞬間、何もかもよそよそしかった。カーテンの隙間から差し込む冬の朝の光が、寝室の壁を見慣れない角度で照らしていた。
だが、その違和感も長くは続かない。
右を向けばベッド脇の小さなチェストがある。起き上がれば洗面所は正面にある。クローゼットの位置も、タオルの場所も、歯ブラシが置いてある棚の場所も。どこに何があるのか、もう身体が知っている。
そのことに気づいた途端、昨夜の感覚が一気に戻ってきた。少し離れたほうがいいと思ったこと。なのに、驚くほど自然に彼の腕の中へ収まってしまったこと。その自然さを、《《前から》》知っていたこと。
小さな妥協を積み重ねて、自分で選び続けて、その結果としてここまで来たのだ。
――ならば、ここで線を引かなければならない。
これ以上【好感度】や【依存度】を上げるような行動を取ってはいけない。
鍵を返して自分の家に帰り、来年の三月を待つのだ。
隣では、相果さんがまだ眠っていた。穏やかな寝顔だった。
わたしはできるだけ音を立てないようにベッドを抜け出した。
洗面所で顔を洗う。鏡の前の棚には、わたし用に置かれた化粧水と乳液が揃っていた。壁付け収納を開ければタオルがある。いつもの手順で顔を拭きながら、わたしはそこで動きを止めた。
駄目だ、と思う。
自宅でもないのに、こうして自然に朝の支度ができてしまうこと自体が、もう駄目なのだ。
洗面台の脇に置いてあった自分の歯ブラシを見下ろす。
前に置いて帰った部屋着もある。
ヘアクリップを外した時に無造作に置いたままの小物まである。
……今日は持って帰ろう。
全部。
寝室を出ると、キッチンのほうから物音がした。
「おはようございます」
振り向くと、相果さんがいた。すでに着替えを済ませていて、湯を沸かしているところだった。昨夜と同じ人とは思えないほど、朝の彼は端正な佇まいで話しかけてくる。
「よく眠れましたか?」
「ええ」
「よかった。何か温かいものでも淹れましょう。紅茶にしますか。それとも、コーヒーがいいですか」
当たり前みたいに、朝が始まろうとしている。わたしはその空気に飲み込まれそうになる前に、息を整えた。
「あの……相果さん」
「はい」
「今日は、自分の家に帰ろうと思います」
相果さんは、ただこちらを見た。
「そうですか」
あまりにも静かな返事に、こちらが拍子抜けしそうになる。だが、そのまま押し切られてはいけないと思った。
「洗面台に置いてある物も、部屋着も、持って帰ります。……鍵も、返します」
ポケットから合鍵を出して、テーブルの上に置く。
相果さんはそれを見る。視線を落としたので、目を伏せたようにみえる。だが、その表情には一切の色はない。ただ平然と頷いた。
「わかりました」
それだけだった。あまりにあっさりしている。
もっと何か言われると思っていた。問い返されるとか、困った顔をされるとか、せめて理由を聞かれるとか。
だが彼は、何もしなかった。引き留める気配もない。入力された条件をそのまま処理して返しているみたいな、感情の揺れを一切感じさせない声だった。
「……理由は、聞かないんですか」
思わずそう言うと、相果さんは少しだけ考えるように間を置いた。
「無理には聞きませんよ。それに、理由を聞かれたくないように見えます」
それで、静かに会話が閉じてしまう。
言っていることは正しい。だが、普通は少しぐらい感情が乱れるものではないのだろうか。彼の声にはまったくブレがない。答えが感情を経由せずに出力されているような、不気味な滑らかさだった。
相果さんは、ゆっくりとカップを二つ取り出した。
「僕も、やや性急過ぎたと思っています」
業務の振り返りみたいな口調に、わたしは言葉を失った。
違う。だが、何がどう違うのか、うまく言葉にできない。
「落ち着かないとか、そういう話ではないんですが……」
「僕と距離を置きたい、ということですか?」
「……。そうです。その……」
「わかりました。そうしましょう」
また、あっさりと受け止められる。
理解はされているが、届いてはいない。わたしの言葉は彼の中で、拒絶として刺さる前に分類され、整理され、次の行動へと変換されてしまう。
わたしが逡巡しているうち、彼は戸棚から紙袋を取り出した。
「では、洗面台の物はここにまとめましょう。部屋着もすべて入ると思います」
「……相果さん。その……そういうことじゃないんです」
ようやく少し強い声が出た。相果さんの手が止まる。
「わたしは、もっとちゃんと距離を置きたいんです。しばらく、こういうのはやめたくて」
「こういうの、というのは?」
その問いに、言葉が詰まる。
答えれば答えるほど、言葉が分類され、整理され、相手の理解可能なものに変換されていく。
「泊まるとか、物を置くとか、そういうこと全部です」
「わかりました」
彼はまっすぐにこちらを見たまま、穏やかな声で続ける。
「年末で疲れている時期でしょうし、一度整理したほうがいいのかもしれませんね」
違う。違うのに。
もっと根本の話をしているのに、彼の中では全部がより無理なく続けるための調整事項になっていく。
相果さんは紙袋を広げた。
「部屋着を持ってきましょう」
「いえ、自分でやります」
「一緒にやるほうが早いですよ」
何ひとつ間違っていない。わたしの意向を尊重しているようにすら見える。
だというのに、この息苦しさはなんだ。
寝室へ戻って、クローゼットから部屋着を取り出す。洗面所から歯ブラシや基礎化粧品を集める。相果さんは少し離れたところで紙袋を持ち、わたしが入れやすいように口を開いている。
ただそれだけのことなのに、撤収作業は彼の秩序の中で進んでいく。
合鍵を返した。物も持ち帰る。今夜は帰る。
それなのに、何かを断てた感じがまるでしない。
普通の恋人なら、ここで引き止めるか、怒るか、傷つくかするのではないか。
だが、この人は違う。彼は、拒絶を拒絶のまま受け取らないのだ。いったん理解できる形に変えて、それからもっと穏当なやり方へと置き換えてしまう。だから、わたしの「やめたい」という要望は、無理のない調整という形で処理される。
言葉は衝突しない。傷つかないし、喧嘩にもならない。その代わり、いかなる言葉も無効化されてしまう。
言葉が効かない。
紙袋の口を閉じる音が、妙に大きく聞こえた。
「できましたよ。では、駅まで送ります」
「……結構です」
「大きい荷物ですから」
やはり正しい。
わたしは断る言葉を失った。
帰る。今度こそ、自分の家に。
そう思っているのに、何も変わっていないような気がする。
「大丈夫です。君に無理をさせたいわけじゃないから」
玄関のドアに手をかけながら、彼が静かに言う。
わたしは、そこでようやくはっきりと理解した。
言葉だけを聞けば、単にこちらの負担を減らそうとしているだけだ。だが、その配慮の形は、外堀を埋める形をしている。
その穏やかさが、急にひどく不気味に思えた。
正確すぎる。まるで、決まった入力に対して最適な応答だけを返してくるみたいだ。
その人間味のない穏やかさにゾッとする。
正確すぎる。プログラムの応答みたいだ。
プログラムの応答……。
彼が、〈攻略対象〉だから……?
ならば――。
この人を、人間として扱うから、駄目なのだろうか。




