58.交差する二つの夜
二〇〇三年 十二月二十六日 金曜日
街を彩っていたクリスマスの装飾は足早に撤去され、世間は一気に年末の慌ただしい空気へと切り替わっていた。オフィスもまた、今日で仕事納めとなる冬休み前の独特の浮かれた空気に包まれている。
退勤後、駅前で相果さんと落ち合った。人の流れが少ないほうへ自然に身体をずらす彼の隣は、周囲がどれだけ急ぎ足でも、いつも通り静かで安心する。
「ねえ、ケーキ屋さんに行きませんか。クリスマスにケーキを食べ損ねてしまった」
甘党の彼のちょっと切実な言い分で、わたしは思わず笑ってしまう。
ショーケースには、まだクリスマスの面影を残す、ほんの少し値下がりしたケーキが並んでいた。
「あれはどうですか。形桐さんも好きそうだ」
そういって彼が指差したのは、ベリーの載ったタルトだった。
この人は、あまりにも当然みたいに覚えている。そして、外さない。
食事がひと段落したところで、相果さんがテーブル脇の紙袋から、小さな白い箱を取り出した。
「大したものではないんですが」
差し出された包みの中には、艶を抑えた上品な色味のヘアクリップと、細身のバレッタが並んでいた。どちらも仕事中に使っても浮かなさそうな、シンプルなデザインだが、一見して質の良さがわかる。
「よく、髪を留めているでしょう」
「ええ」
「こういうのが手元にあると、使いやすいかと思って」
何でもないことのように言う。実用的でこそあるが、安くないことくらいわかる。それでも華美ではなく、仕事にもそのまま使えそうなところが、いかにも彼らしい選択である。
胸の奥が熱くなる。わたしが実際に使うものを考えて選んでいる。そのことが嬉しい。
「ありがとうございます。使わせていただきますね」
「よかった」
それだけで、彼は満足したようだった。
わたしも、小さな紙袋を差し出した。
「一応、わたしからも」
「僕にですか」
相果さんが中を確かめる。リネンハンカチが二枚。スーツの内ポケットに入れても邪魔にならない、薄手のもの。
「ありがとう。君らしいプレゼントですね」
その言い方がくすぐったい。
静かな部屋でケーキを食べる。食後に温かい紅茶が出てきた頃には、外へ出る理由がなくなってしまった。窓の外では、窓の外では年末の喧騒が続いていたが、この部屋の中は暖かく、気を張らなくていい。
楽だ、と思う。
この人といると、楽だ。
紅茶を飲み終える頃には、時計の針はもう遅い時間を指していた。
帰ろうと思えば帰れる。だが、今から身支度をして外へ出るのは億劫だった。
相果さんも、何も言わない。帰るか泊まるかを確認することもない。
わたしもまた、その流れを止めなかった。
洗面台の前に立ち、いつものように化粧を落とし、基礎化粧品を手に取る。
どれも、もう探さなくてもいい位置にあった。当たり前みたいに置かれた自分の歯ブラシや、前に置いて帰った部屋着が目に入って、そこで初めて、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
便利だと思う。助かるとも思う。
だが、少しずつ逃げ場がなくなっているような気もするのだ。
寝室に入ってから、にわかに彼との距離の近さが気になり始めた。一方で、今さら意識するほうが不自然にも思えた。ここまで来ておいて何を、と、自分で自分に言い聞かせるみたいな気持ちもあった。
相果さんは目覚まし時計を手にわたしを見た。
「明日は何時に起きますか?」
「少し遅くても平気です」
「なら、十時にしましょう。目覚ましは一つでいいですね」
結局わたしは今夜も、相果さんと一緒に横たわっている。
この夜を過ごすことが、もう特別なことではなくなりつつある。その事実に気づいて、わたしは掛け布団の下で小さく身を固くした。
ふと視線を横に向ける。
肩先が微かに触れる距離。ベッドがわずかに軋む音。考えるより先に身体が知っている。そのあまりにも自然な振る舞いに、ふと薄ら寒いものを覚えた。
(……少し、離れたほうがいいのかもしれない)
頭ではそうわかっている。せめて少し距離を置いて、これ以上この空気に馴染まないようにしなければならない。
そっと身体をずらそうとすると、眠りの浅い彼が身じろぎし、わたしを引き寄せるように腕を回してきた。拒むか、身を固くするべきだった。だが、わたしの身体は驚くほど自然にその腕の中へ収まり、彼が一番楽に抱きしめられる体勢になってしまう。
考えたわけではない。ただ、どう重なればいいのかを、身体が知っていた。
彼が苦しそうに息を吐くたび、放っておけない、という感情が正しさの顔をして、離れようとする気持ちを押し戻していく。
彼の呼吸がわずかに落ち着いたのを感じた途端、脳の奥で嫌な既視感が弾けた。
記憶というより、身体のほうが先に思い出したような感覚だった。
同じ夜。
同じ部屋で。
同じように、この腕の中に身を委ねたのではなかったか。
(……前に、も?)
映像が、途切れ途切れに浮かぶ。
今より物の多い洗面台。
当たり前みたいに置かれた自分の部屋着。
彼の部屋で朝を迎えることに、もう驚いていないわたし。
息を呑んで、現在へ意識を引き戻す。
理性が飛びかけているだけだと片づけたかった。でも、彼の体温に包まれて、うまく、誤魔化せない。
彼が、わたしを掻き抱いた。熱い吐息が首筋をかすめる。そのまま体温が重なっていく。身体はその流れを覚えている。
心地よさと同時に、薄ら寒さを覚える。
離れなければ、と思うのに、わたしは逃げなかった。身体のほうは当たり前のように彼へと近づいて、その腕の中へ馴染んでしまった。
今日は、このままでいい……
明日、考えればいい……
いま離れるのは酷だ……
誰の声ともつかないのに、それがたしかに自分の考えだったとわかる。
前にも、わたしはそうやって先送りにした。
大きな決断ではなく、一夜ごとに、少しずつ。
楽だったから。安心するから。このままのほうが自然だから。彼を見捨てるのが心苦しいから。
……そうやって自分で選び続けたから、取り返しのつかないことになった。
そうだ。わたしは、相果さんに屈したのではなかった。
わたしは、わたし自身に負けたのだ。
小さな妥協の積み重ねが、わたしの退路を断った。
妥協。他でもない自分自身の決断で、わたしは追い詰められていった。
そして、《《前は》》、もう《《帰れなくなった》》のだ。
彼は何も知らず、静かに眠っている。
その穏やかさに、今はぞっとした。
怖いのは彼ではない。この心地よさに、自分から順応していくわたしのほうだ。
たぶん、適切に距離を取らなくてはいけない。
ちゃんと。
眠る彼の背中に回していた手を、わたしはゆっくりとほどいた。
身体を離す。たったそれだけの動作なのに、ひどく心が重かった。




