57.もうひとつの帰宅
二〇〇三年のクリスマスは水曜日だった。仕事納めまで三営業日しかないこともあって、社内は浮かれた空気とは無縁だった。
退勤の直前、相果さんから「今日は残業なので、少し遅くなります」と短く告げられた。わたしは迷わず、「わかりました」と相槌を打つ。
ただの報告だ。部屋に来ますか? なんて甘い確認は一切なかった。
オフィスを出ると、吐く息が白く濁るほどの冷気が肺を刺す。
駅前は、すっかりクリスマス一色だった。デパートの壁面には大きなリースが飾られ、エントランス脇のツリーは夕闇の中で細かな電飾を瞬かせている。買い物袋を提げた人々が絶えず行き交い、館内から流れてくる軽やかな音楽まで、いかにも年末らしく浮き立っていた。
帰宅ついでに、デパ地下へ足を伸ばす。館内を少し歩いて、季節限定の売り場をひやかす。赤や緑や金で彩られた包装紙、ガラスケースに並ぶ鮮やかなケーキ、特設台に積まれたカラフルな焼き菓子の缶。見ている分には楽しいが、人の熱気と乾いた暖房の匂いで、長くいるとじわじわ体力が削られる。
小ぶりのチキンやグラタンなどおかずになりそうな総菜を見繕い、普段使いできそうなムンガイのリネンハンカチを包装してもらう。
デパートの袋を腕に下げたまま改札を通り、迷うことなく相果さんのマンションの最寄り駅で降りる。その一連の動作に、もはや何の抵抗もなかった。
彼が不在のマンションを進み、鞄の内ポケットから小さな鍵を取り出す。外で待たせるのは忍びないからと、相果さんから渡された合鍵だ。指先は迷いなくそれを引き当て、真っ直ぐ鍵穴へと入れる。
玄関の灯りをつけ、靴を脱ぐ。クローゼットの中に鞄を仕舞い、そのまま洗面台へ向かった。鏡を開けると、上質なクレンジングオイル、化粧水、乳液が揃っている。壁付けの収納を開けてタオルを取り出し、首元を一日中覆っていたコンシーラーを落とす。首が自由になると、ほっと息が抜けた。
彼が帰ってくるまで大人しく待つ、という選択肢はなかった。
冷蔵庫を開け、買っておいた惣菜をしまう。
彼が不在の静かな部屋で、わたしはごく自然に、二人の夜の支度を進めていた。
やがて、玄関の扉が開く音がした。微かな冬の冷気とともに、相果さんが入ってくる。その姿を見た瞬間、わたしは考えるより先に玄関へ向かっていた。相果さんへ歩み寄り、コート越しに腕を回す。「おかえり」と言えば、彼もまたわたしを抱き返して静かに「ただいま」と返した。
「着替えたら、夕食の準備をしますね」
「もう進めてますよ。総菜を買ってきているんですが、すぐ食べます?」
そう伝えると、彼はにっこりと笑った。
「ああ、助かります。実はとてもお腹が空いてて」
キッチンに入り、惣菜や温めたスープを皿に移す。
相果さんは、食器棚から白いプレートを二枚と揃いのマグカップを取り出していた。白い陶器がテーブルに置かれる小さな音。少しだけ前屈みになる彼の背中の角度。テーブルを照らすオレンジ色の照明の温度。
ノイズのようなものが脳裏を掠める。
これとよく似た場面を、前にもどこかで見ていたような気がして。
顔を上げると、相果さんも同じように手を止めていた。
目が合う。だが、どちらも何も言わない。
彼が何事もなかったように皿を置く。それに釣られて、わたしも準備を再開した。
ささやかなクリスマスの食事が始まる。
「急いで帰ってきてよかった」
相果さんは、目を細めて心底嬉しそうに笑う。
「このチキン、すごく美味しいですね」
「ほんとに。クリスマスで総菜売り場はだいぶ混んでましたが、買った甲斐があります」
仕事の疲労感も、外の乾いた寒さも、この部屋には届かない。明日の業務の確認や、年明けのスケジュールのすり合わせなど、ぽつりぽつりと交わされる会話はどれも穏やかで、無理に話題を探す必要もなかった。
彼の落ち着いた声に、チキンの香ばしい匂いと温かい紅茶の香り。それに包まれていると、先ほど脳裏を掠めた不気味な既視感すら、溶けて消えていくようだった。




