表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第4章:WINTER

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/64

56.合理とは現状維持

 冬の気配が濃い。すでに日が沈みかけたオフィスで、パソコンをシャットダウンしながら、わたしは今日どうするかを考えていた。

 自宅のマンションへ帰るか。それとも、(さが)()さんの部屋へ寄るか。

 いつの間にか、わたしの帰宅ルートの選択肢に、彼の家がごく当たり前のものとして組み込まれている。


 首元は、この数日ずっとコンシーラーで誤魔化している。そろそろ肌をきちんと休ませたかった。恥じらいよりも先に、そんな実務的な不満が浮かぶことに、自分でも少し戸惑う。

 そこへ、「形桐(かたぎり)さん、お疲れさまです」と、(さが)()さんがやってきた。手にはクリアファイルを持っている。


「定時後にすみません。こちら、確認をお願いします。急ぎではないので、明日以降に」


「はい。明日、朝に目を通しますね」


 そう応えながら受け取ったクリアファイルを引き出しに仕舞って、わたしはコートに腕を通す。


 今日は家に帰ろう、と決めた。

 安易に彼の部屋へ寄れば、きっと際限がなくなる。

 合理とは、今の負担を減らすだけでなく、未来をよりよく機能させるための判断であるはずだ。

 まずは、生活リズムを立て直さなければ。



 自宅の扉を開けると、リビングからテレビの音が漏れ聞こえてきた。どうやら(けい)はもう帰ってきているらしい。「おかえりー」という間の抜けた声に「ただいま」と返しつつ、わたしはコートのボタンを外しながら反射的に首元へ指を伸ばし、ハイネックを少し引き上げていた。


 上着を脱いで、すぐに洗面所へ向かう。顔を洗い終えたところで、首元に塗り重ねたコンシーラーに目を向けた。首元を確認すると、コンシーラーはぎりぎりのところで持ち堪えていたが、ハイネックの襟には微かに色が移っていた。指先で軽く押さえ、ティッシュで慎重に拭う。

 本当はこの流れでお風呂にでも入りたかったが、首の痕があらわになれば、(けい)は当然説明を求めるだろう。それにどう答えるのか、あるいはどう誤魔化すのかを考えるだけで疲れが押し寄せる。

 ティッシュを持ったまま、手が一度止まった。

 家に帰ってきているのに、化粧を落とすことができないなんて。


 お風呂は後回しにして、着替えだけ済ませてリビングへ戻った。紅茶を淹れようとして、電気ケトルを探すために視線が彷徨う。無駄のない動線で整えられた(さが)()さんの部屋のキッチンが脳裏をよぎり、小さく頭を振る。

 お茶を淹れてテーブルについたとき、携帯が短く震えた。

 ディスプレイを見ると、(みお)からのメッセージだった。


『明日会えそう~?』


 たったそれだけ。いつもの軽い文面だった。

 以前のわたしなら、すぐに返信していたはずだ。

 だが、わたしは画面を見つめたまま、固まってしまった。そっと携帯をテーブルに置き、代わりにマグカップを両手で持ち上げ、ゆっくりと一口飲む。返信を打つことすら、今はどうにも億劫だった。何かを始める前に、少しこのまま座っていたかった。


「……姉ちゃん、なんか落ち着かないねえ」


 テレビをぼんやりと眺めていた(けい)が、こちらを見もせずぽつりと言った。ただの所感だ。だがそれが、自分でも触れたくないところを的確に突いてきたようで、わたしは「そう?」と返すのが精一杯だった。笑い飛ばす気にもなれない。


(これでいいはずなのに)


 今日はちゃんと自分の家に帰ってきた。正しい選択をしたはずだ。

 それなのに、コンシーラーを落とすこともできず、キッチンの手順で戸惑い、(けい)と普通に喋ることも、(みお)の短いメールに返すことも、うまくいかない。


 テーブルの上の携帯が、もう一度短く震えた。それを一瞥だけして、温かいマグカップを両手で包みなおす。




 それから数日経ち、結局わたしは(さが)()さんのマンションへと足を運んでいた。自分の部屋で化粧も落とせずに気を張るよりも、彼の部屋へ向かうほうがずっと気が休まるという事実を、もう否定できなかった。

 エントランスでインターホンを鳴らすと、(さが)()さんが下まで出迎えてくれた。そして、エレベーターの中でふと思い出したようにポケットを探った。


「これ、渡しておきますね」


 差し出されたのは、銀色の鍵だった。


「……鍵?」


「ええ。僕のほうが遅くなる日もあるでしょうし、外で待たせるのは忍びないですから。僕がいなくても、先に入っていてください」


 ごく自然な口調だった。

 たしかにその通りだと思ってしまって、わたしは深く考えないまま、その小さな金属の塊を受け取った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ