56.合理とは現状維持
冬の気配が濃い。すでに日が沈みかけたオフィスで、パソコンをシャットダウンしながら、わたしは今日どうするかを考えていた。
自宅のマンションへ帰るか。それとも、相果さんの部屋へ寄るか。
いつの間にか、わたしの帰宅ルートの選択肢に、彼の家がごく当たり前のものとして組み込まれている。
首元は、この数日ずっとコンシーラーで誤魔化している。そろそろ肌をきちんと休ませたかった。恥じらいよりも先に、そんな実務的な不満が浮かぶことに、自分でも少し戸惑う。
そこへ、「形桐さん、お疲れさまです」と、相果さんがやってきた。手にはクリアファイルを持っている。
「定時後にすみません。こちら、確認をお願いします。急ぎではないので、明日以降に」
「はい。明日、朝に目を通しますね」
そう応えながら受け取ったクリアファイルを引き出しに仕舞って、わたしはコートに腕を通す。
今日は家に帰ろう、と決めた。
安易に彼の部屋へ寄れば、きっと際限がなくなる。
合理とは、今の負担を減らすだけでなく、未来をよりよく機能させるための判断であるはずだ。
まずは、生活リズムを立て直さなければ。
自宅の扉を開けると、リビングからテレビの音が漏れ聞こえてきた。どうやら螢はもう帰ってきているらしい。「おかえりー」という間の抜けた声に「ただいま」と返しつつ、わたしはコートのボタンを外しながら反射的に首元へ指を伸ばし、ハイネックを少し引き上げていた。
上着を脱いで、すぐに洗面所へ向かう。顔を洗い終えたところで、首元に塗り重ねたコンシーラーに目を向けた。首元を確認すると、コンシーラーはぎりぎりのところで持ち堪えていたが、ハイネックの襟には微かに色が移っていた。指先で軽く押さえ、ティッシュで慎重に拭う。
本当はこの流れでお風呂にでも入りたかったが、首の痕があらわになれば、螢は当然説明を求めるだろう。それにどう答えるのか、あるいはどう誤魔化すのかを考えるだけで疲れが押し寄せる。
ティッシュを持ったまま、手が一度止まった。
家に帰ってきているのに、化粧を落とすことができないなんて。
お風呂は後回しにして、着替えだけ済ませてリビングへ戻った。紅茶を淹れようとして、電気ケトルを探すために視線が彷徨う。無駄のない動線で整えられた相果さんの部屋のキッチンが脳裏をよぎり、小さく頭を振る。
お茶を淹れてテーブルについたとき、携帯が短く震えた。
ディスプレイを見ると、澪からのメッセージだった。
『明日会えそう~?』
たったそれだけ。いつもの軽い文面だった。
以前のわたしなら、すぐに返信していたはずだ。
だが、わたしは画面を見つめたまま、固まってしまった。そっと携帯をテーブルに置き、代わりにマグカップを両手で持ち上げ、ゆっくりと一口飲む。返信を打つことすら、今はどうにも億劫だった。何かを始める前に、少しこのまま座っていたかった。
「……姉ちゃん、なんか落ち着かないねえ」
テレビをぼんやりと眺めていた螢が、こちらを見もせずぽつりと言った。ただの所感だ。だがそれが、自分でも触れたくないところを的確に突いてきたようで、わたしは「そう?」と返すのが精一杯だった。笑い飛ばす気にもなれない。
(これでいいはずなのに)
今日はちゃんと自分の家に帰ってきた。正しい選択をしたはずだ。
それなのに、コンシーラーを落とすこともできず、キッチンの手順で戸惑い、螢と普通に喋ることも、澪の短いメールに返すことも、うまくいかない。
テーブルの上の携帯が、もう一度短く震えた。それを一瞥だけして、温かいマグカップを両手で包みなおす。
それから数日経ち、結局わたしは相果さんのマンションへと足を運んでいた。自分の部屋で化粧も落とせずに気を張るよりも、彼の部屋へ向かうほうがずっと気が休まるという事実を、もう否定できなかった。
エントランスでインターホンを鳴らすと、相果さんが下まで出迎えてくれた。そして、エレベーターの中でふと思い出したようにポケットを探った。
「これ、渡しておきますね」
差し出されたのは、銀色の鍵だった。
「……鍵?」
「ええ。僕のほうが遅くなる日もあるでしょうし、外で待たせるのは忍びないですから。僕がいなくても、先に入っていてください」
ごく自然な口調だった。
たしかにその通りだと思ってしまって、わたしは深く考えないまま、その小さな金属の塊を受け取った。




