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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第4章:WINTER

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55.過剰に正しい囲い込み

 形桐(かたぎり)さんが帰ったあとの部屋には、まだ微かに彼女の気配が残っていた。


 洗面台の鏡の前に置き忘れたヘアピンがひとつ。キッチンに並んだふたつのグラス。寝室のベッドシーツに残った皺。彼女がそこにいたという、あまりにも生々しい痕跡。


 彼女がここにいて、触れてくれたという事実が、まだ神経に残っている。


 寝室を出た廊下で、ふと、隣の扉に視線を向ける。


 この中には、身に覚えのない拘束具や檻がある。

 以前は、怖かった。彼女を手元に置きたくなってどうしようもなくなったら、いつかこの部屋を使ってしまうのではないか、と怯えていた。


 だが、今は違う。もっと正しいやり方があると知っている。


 (とおる)は立ち上がり、その不気味な部屋へ入った。

 大型犬用の檻を冷ややかに一瞥し、手をかける。金具の位置を確かめ、留め具を外すと、金属の骨組みが音を立てて外れた。分解したパーツを一つひとつ、床に傷がつかないよう慎重に横たえる。拘束具の類もまとめて引き寄せ、素材ごとに分け、不燃ごみの袋に詰める。袋に入らない分には、粗大ごみのシールを貼る。

 

(以前の僕は――いつのことなのかは見当もつかないが、こんなものを必要とする地点まで行き着いていたらしい)


 だが、今ならわかる。


(……愚かだな)


 こんなものでは駄目だ。

 力ずくで彼女を閉じ込めるやり方は、彼女を傷つけ、無意味に怖がらせるだけだ。


(僕がこれまで見てきた限り、彼女は、檻に入れて所有物として扱ったところで屈する女性(ひと)ではない)


 彼女の尊厳を奪えば、それはもう形桐(かたぎり) (あお)()ではなくなる。


 あの夜、彼女がねじ伏せるように口づけてきたときの、あの抗いがたさ。救済と呼ぶしかない感覚。彼女に触れるたび、脳を苛む激痛が嘘のように遠のいていくという身体(しんたい)の事実。


 檻は使わない。彼女を鎖で繋ぐことなど、絶対にしない。

 だが、彼女を手放すこともできない。


 ならば、帰らなくても困らないようにしよう。


 着替えも、スキンケアも、最低限の化粧品も。仕事帰りにそのまま寄っても不自然ではない理由も。この部屋が、彼女の生活の延長になればいい。


 いつも気を張って、一人で重い責任を抱え込みがちな彼女が、少しでも楽に、疲れないようにするための環境整備だ。彼女の余計な負担を減らし、安全で快適な場所を用意する。彼女の役に立ち、彼女を助けること。それが自分にできる、最も合理的な気遣いのはずだ。


 その論理に行き着いた瞬間、不意に強烈な既視感が脳裏をよぎった。


(これは……。前にも、)


 そうだ。()()()、同じ理屈に行き着いたことがあった。

 彼女のために。彼女が傷つかないようにと、世界から切り離そうと画策したことが。


 そのとき、薄暗い部屋の片隅が、ノイズのように明滅した。


【依存度:……


 以前なら、これを見ただけでこめかみが割れるように痛んだはずだ。

 だが、今回は頭痛がない。


【依存度:−10】


 (とおる)はそれを、ほとんど業務報告でも読むように眺めた。


(……下がるのか)


 彼女を手放すつもりなど微塵もないのに。

 だが、依存ではなくなったということなら、むしろ都合がいいのかもしれない。


 ノイズの奥で−10の数字が消えた途端、もうひとつ数字が浮かび上がった。(とおる)は、初めてその文字列を直視した。


【依存度:88.2】


 上限は知らないが、何らかのステータスなのだとすれば、ずいぶん稼いでいるように見える。

 ただ、これが彼女に対する依存の度合いを示しているとして、彼女に触れられないだけで壊れかけていたことを考えると、むしろ低いほうなのかもしれない。


 ……()()、取りこぼすのだろうか。理由もわからないまま、()()喪失感を繰り返すのだろうか。

 胸の奥に滲み広がる焦燥を、(とおる)は無理やり押し込めた。


 今は、そんなことを考えている場合じゃない。



 ***


 欠勤明けの朝。商品開発部には、いつもと変わらぬ顔で受け入れられた。誰もが一度くらいは体調を崩す。会社という場所は、その程度のことなら何事もなかったように飲み込む。


 書類を整え、最低限のメールを返したあと、(とおる)は宣伝部のフロアへ赴き、まっすぐ(つな)()課長のデスクへ向かった。


「この度はご迷惑をおかけしました」


 (つな)()課長はちらりとこちらを見て、「体調は」と問う。


「もう問題ありません」


「そうか」


 短い沈黙。相変わらず、雪のように温度のない人だ。

 (とおる)は短く逡巡し、口を開いた。


「今回、案件が滞ったのは、宣伝部との連絡がやや属人的だったからですね。急ぎのものだけでも、開発側で先に整理して返すようにします」


 (つな)()課長はそこで初めてこちらを見た。


「整理して返す、か」


「はい」


形桐(かたぎり)を固定したいのか」


 平坦な声だ。問うような言葉ではあったが、口調はほとんど断言だった。

 そう読むのか、と(とおる)は目を細めた。以前、形桐(かたぎり)さんのことを「愛している」と吐露した姿を見られている以上、裏を(かん)()られても仕方がないのかもしれない。だが、今回持ってきたのは本当にただの謝罪と、後始末としての改善案だ。


「……そう聞こえますか?」


「聞こえるな」


 間髪を入れない肯定に、(とおる)は苦笑する。


「あの時の僕は、少し、おかしかったもので」


 冗談めかして言ったつもりだったが、(つな)()課長の表情は一ミリも動かなかった。


「今は違うと?」


「ええ。それに、今回はむしろ真逆のご提案ですよ。まず僕自身の不在で止まらない仕組みにするつもりだ、と言いたかったんです」


「そうか。宣伝部の裁量に首を突っ込まないなら、問題ない」


 (とおる)は「失礼します」と一礼して下がった。




 自席へ戻る途中、現原(ありはら)くんがちょうど資料の束を抱えて通りかかった。


「あ、(さが)()主任。おはようございます!」


「おはよう。朝から忙しそうだね」


「制作からの戻しが多くて。宣伝部にも回す分、いま仕分けしてるとこです」


 (とおる)は何気ない顔で、その束の一番上を見た。クリスマスコフレのパンフ、店頭配布用のリーフ、既存品の差し替え台紙。宣伝部と商品開発部の間を行き来する紙の山だ。


「大変だろう。確認物は、まず案件ごとに分けてくれるかい。急ぎのものだけ、僕の机に置いておいてくれればいい」


「え、主任が見るんですか?」


「全部じゃないよ。でも、滞留すると面倒だからね。急ぎかどうかだけ、先に整理しておきたい」


 形桐(かたぎり)さんが最初に目にする確認物だけは、できる限り迷わなくて済む順番に整えておけばいい。

 それは介入ではなく、ただの交通整理にすぎない。


 現原(ありはら)くんは素直に頷いた。


「わかりました! あ、じゃあ形桐(かたぎり)さんの案件も、先に主任のとこ置いときますね」


 その言い方があまりに無邪気で、(とおる)は目を伏せた。


「いや、そうやって分けるのも手間だろう。案件名がわかればそれでいいよ」


「了解です!」


 彼は元気よく返事をして、また資料の山へ戻っていく。

 (とおる)はその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。


(僕の名前を出す必要はない)


 彼女が困る前に必要なものが整い、迷う前に確認物が視界へ入る流れだけ残しておけばいい。

 彼女自身が、自分で選んでいると思える形で。

 そのほうが、きっと長く続く。




 昼休みに入ったので、(とおる)は頭の中でタスクを整理することにした。もちろん、仕事のものではない。


 クレンジングオイル。

 低刺激の化粧水。

 替えの歯ブラシ。

 小さめのヘアクリップ。

 無香料の乳液。

 必要なら、薄手の部屋着も。


 コンシーラーを、肌に負担をかけずに落とせるものが要る。泊まった翌朝に慌てなくて済むように、最低限のものは揃えておくべきだ。


 彼女が自分でここを選び続けるように、必要なものを整えておけばいい。少しずつうちを当たり前にすればいい。そろそろ鍵を渡してもいいだろう。拘束具だらけだったあの()()()()()部屋はすっかり片付けたから、そこは彼女が一人ゆっくりと過ごせる空間に作り変えよう。


 窓の外は、冬の乾いた陽射しで白く霞んでいた。


 とりあえず今夜は、買い出しに行こう。

 (あお)()がまた、無防備な朝を迎える日のために。

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