55.過剰に正しい囲い込み
形桐さんが帰ったあとの部屋には、まだ微かに彼女の気配が残っていた。
洗面台の鏡の前に置き忘れたヘアピンがひとつ。キッチンに並んだふたつのグラス。寝室のベッドシーツに残った皺。彼女がそこにいたという、あまりにも生々しい痕跡。
彼女がここにいて、触れてくれたという事実が、まだ神経に残っている。
寝室を出た廊下で、ふと、隣の扉に視線を向ける。
この中には、身に覚えのない拘束具や檻がある。
以前は、怖かった。彼女を手元に置きたくなってどうしようもなくなったら、いつかこの部屋を使ってしまうのではないか、と怯えていた。
だが、今は違う。もっと正しいやり方があると知っている。
融は立ち上がり、その不気味な部屋へ入った。
大型犬用の檻を冷ややかに一瞥し、手をかける。金具の位置を確かめ、留め具を外すと、金属の骨組みが音を立てて外れた。分解したパーツを一つひとつ、床に傷がつかないよう慎重に横たえる。拘束具の類もまとめて引き寄せ、素材ごとに分け、不燃ごみの袋に詰める。袋に入らない分には、粗大ごみのシールを貼る。
(以前の僕は――いつのことなのかは見当もつかないが、こんなものを必要とする地点まで行き着いていたらしい)
だが、今ならわかる。
(……愚かだな)
こんなものでは駄目だ。
力ずくで彼女を閉じ込めるやり方は、彼女を傷つけ、無意味に怖がらせるだけだ。
(僕がこれまで見てきた限り、彼女は、檻に入れて所有物として扱ったところで屈する女性ではない)
彼女の尊厳を奪えば、それはもう形桐 扇衣ではなくなる。
あの夜、彼女がねじ伏せるように口づけてきたときの、あの抗いがたさ。救済と呼ぶしかない感覚。彼女に触れるたび、脳を苛む激痛が嘘のように遠のいていくという身体の事実。
檻は使わない。彼女を鎖で繋ぐことなど、絶対にしない。
だが、彼女を手放すこともできない。
ならば、帰らなくても困らないようにしよう。
着替えも、スキンケアも、最低限の化粧品も。仕事帰りにそのまま寄っても不自然ではない理由も。この部屋が、彼女の生活の延長になればいい。
いつも気を張って、一人で重い責任を抱え込みがちな彼女が、少しでも楽に、疲れないようにするための環境整備だ。彼女の余計な負担を減らし、安全で快適な場所を用意する。彼女の役に立ち、彼女を助けること。それが自分にできる、最も合理的な気遣いのはずだ。
その論理に行き着いた瞬間、不意に強烈な既視感が脳裏をよぎった。
(これは……。前にも、)
そうだ。前にも、同じ理屈に行き着いたことがあった。
彼女のために。彼女が傷つかないようにと、世界から切り離そうと画策したことが。
そのとき、薄暗い部屋の片隅が、ノイズのように明滅した。
【依存度:……
以前なら、これを見ただけでこめかみが割れるように痛んだはずだ。
だが、今回は頭痛がない。
【依存度:−10】
融はそれを、ほとんど業務報告でも読むように眺めた。
(……下がるのか)
彼女を手放すつもりなど微塵もないのに。
だが、依存ではなくなったということなら、むしろ都合がいいのかもしれない。
ノイズの奥で−10の数字が消えた途端、もうひとつ数字が浮かび上がった。融は、初めてその文字列を直視した。
【依存度:88.2】
上限は知らないが、何らかのステータスなのだとすれば、ずいぶん稼いでいるように見える。
ただ、これが彼女に対する依存の度合いを示しているとして、彼女に触れられないだけで壊れかけていたことを考えると、むしろ低いほうなのかもしれない。
……また、取りこぼすのだろうか。理由もわからないまま、あの喪失感を繰り返すのだろうか。
胸の奥に滲み広がる焦燥を、融は無理やり押し込めた。
今は、そんなことを考えている場合じゃない。
***
欠勤明けの朝。商品開発部には、いつもと変わらぬ顔で受け入れられた。誰もが一度くらいは体調を崩す。会社という場所は、その程度のことなら何事もなかったように飲み込む。
書類を整え、最低限のメールを返したあと、融は宣伝部のフロアへ赴き、まっすぐ維木課長のデスクへ向かった。
「この度はご迷惑をおかけしました」
維木課長はちらりとこちらを見て、「体調は」と問う。
「もう問題ありません」
「そうか」
短い沈黙。相変わらず、雪のように温度のない人だ。
融は短く逡巡し、口を開いた。
「今回、案件が滞ったのは、宣伝部との連絡がやや属人的だったからですね。急ぎのものだけでも、開発側で先に整理して返すようにします」
維木課長はそこで初めてこちらを見た。
「整理して返す、か」
「はい」
「形桐を固定したいのか」
平坦な声だ。問うような言葉ではあったが、口調はほとんど断言だった。
そう読むのか、と融は目を細めた。以前、形桐さんのことを「愛している」と吐露した姿を見られている以上、裏を勘繰られても仕方がないのかもしれない。だが、今回持ってきたのは本当にただの謝罪と、後始末としての改善案だ。
「……そう聞こえますか?」
「聞こえるな」
間髪を入れない肯定に、融は苦笑する。
「あの時の僕は、少し、おかしかったもので」
冗談めかして言ったつもりだったが、維木課長の表情は一ミリも動かなかった。
「今は違うと?」
「ええ。それに、今回はむしろ真逆のご提案ですよ。まず僕自身の不在で止まらない仕組みにするつもりだ、と言いたかったんです」
「そうか。宣伝部の裁量に首を突っ込まないなら、問題ない」
融は「失礼します」と一礼して下がった。
自席へ戻る途中、現原くんがちょうど資料の束を抱えて通りかかった。
「あ、相果主任。おはようございます!」
「おはよう。朝から忙しそうだね」
「制作からの戻しが多くて。宣伝部にも回す分、いま仕分けしてるとこです」
融は何気ない顔で、その束の一番上を見た。クリスマスコフレのパンフ、店頭配布用のリーフ、既存品の差し替え台紙。宣伝部と商品開発部の間を行き来する紙の山だ。
「大変だろう。確認物は、まず案件ごとに分けてくれるかい。急ぎのものだけ、僕の机に置いておいてくれればいい」
「え、主任が見るんですか?」
「全部じゃないよ。でも、滞留すると面倒だからね。急ぎかどうかだけ、先に整理しておきたい」
形桐さんが最初に目にする確認物だけは、できる限り迷わなくて済む順番に整えておけばいい。
それは介入ではなく、ただの交通整理にすぎない。
現原くんは素直に頷いた。
「わかりました! あ、じゃあ形桐さんの案件も、先に主任のとこ置いときますね」
その言い方があまりに無邪気で、融は目を伏せた。
「いや、そうやって分けるのも手間だろう。案件名がわかればそれでいいよ」
「了解です!」
彼は元気よく返事をして、また資料の山へ戻っていく。
融はその背中を見送りながら、静かに息を吐いた。
(僕の名前を出す必要はない)
彼女が困る前に必要なものが整い、迷う前に確認物が視界へ入る流れだけ残しておけばいい。
彼女自身が、自分で選んでいると思える形で。
そのほうが、きっと長く続く。
昼休みに入ったので、融は頭の中でタスクを整理することにした。もちろん、仕事のものではない。
クレンジングオイル。
低刺激の化粧水。
替えの歯ブラシ。
小さめのヘアクリップ。
無香料の乳液。
必要なら、薄手の部屋着も。
コンシーラーを、肌に負担をかけずに落とせるものが要る。泊まった翌朝に慌てなくて済むように、最低限のものは揃えておくべきだ。
彼女が自分でここを選び続けるように、必要なものを整えておけばいい。少しずつうちを当たり前にすればいい。そろそろ鍵を渡してもいいだろう。拘束具だらけだったあのつまらない部屋はすっかり片付けたから、そこは彼女が一人ゆっくりと過ごせる空間に作り変えよう。
窓の外は、冬の乾いた陽射しで白く霞んでいた。
とりあえず今夜は、買い出しに行こう。
扇衣がまた、無防備な朝を迎える日のために。




