54.逆らえない快適さ
水曜日のオフィスで自席のパソコンに向かいながら、わたしは無意識に首元へ手をやっていた。月曜日に相果さんのもとから帰ってきて、火曜日にもまだ赤みが引かなかったので、今日は薄手のハイネックニットを引っ張り出してきた。コンシーラーも自分で塗り直したが、襟に擦れていないか、時間が経ってヨレていないかと、そればかりが気になる。
たかが痕ひとつに服装や化粧まで左右されるのは面倒だ。自分で決めて踏み込んだ結果がこう長く干渉してくるとは思わなかったし、これをつけられることになった夜のことまで身体のほうが思い出してしまうのがなおさら厄介だった。
月曜日から体調不良で休んでいた相果さんは、今日、普段通りに出勤してきた。
今日は意識して普通に戻さなければならない。あの私的で甘い空気を、職場に持ち込むわけにはいかないのだ。給湯室には極力寄らないようにして、相果さんとの連携も最小限に、急ぎでないならメールで済ませる。
だが、この方針を貫くには少しばかり面倒なタスクがある。冬のプロモーションのうち、クリスマスコフレ特設ページの掲載内容について、宣伝部と商品開発部で細部をすり合わせる必要があった。
本来ならわたしが直接開発のフロアへ出向き、口頭で詰めてくるのが一番早い。ただ、首元の隠蔽に神経を尖らせている今日に限っては、他部署での長い立ち話やフロア間の移動が、想像以上に億劫に感じられた。
昼前、重い腰を上げようとしたわたしのデスクに、クリアファイルが置かれた。
「クリスマスコフレ特設ページのセット内容表記と訴求の出し方で、開発側から確認事項があります。ご確認をお願いします」
そのまま相果さんは自席へ戻っていく。ファイルを開くと、わたしがこれから確認しに行くはずだった懸念点が、迷いようのない順番で整理されていた。
化粧直しのタイミングを気にする前に、最も重いタスクが席に座ったまま片付いてしまった。
相果さんは、相手が困るよりも先に問題を潰してしまえる人だ。普段なら、その先回りに警戒心を抱いたかもしれない。だが、今日に限っては、それがやけに助かった。申し訳なさから、どこか居心地が悪いとさえ思った。
午後、トイレの鏡の前に立ったわたしは、首元を見て小さくため息をついた。
朝は完璧に隠せていたはずのコンシーラーが、時間の経過と暖房の乾燥でよれ始めている。インナーの襟に色が移らないよう指先で馴染ませ、上からパウダーを重ねた。二日目にして、一連の作業がひどく手間に感じられた。
そのとき、背後で扉が開いた。
鏡越しに映ったのは、経理の三谷さんだった。わたしは反射的に首元から指を離し、パウダーファンデーションをポーチに突っ込みながら微笑んだ。
「三谷さん! お疲れさまです」
「お疲れさまです~! 急に冷え込みましたね」
「ほんと。防寒着をあちこち探し回っちゃった」
「形桐さん、いつもより首元しっかりしてますもんね」
一瞬、どきりとする。だが、
「そうそう、今朝マフラーが見つからなくって。新しいの買っちゃおうかなあ」
わたしの舌はためらいなく嘘を吐いた。
他愛のない会話だ。だが、心臓に悪い。
三谷さんが化粧ポーチを開けたところで、わたしは「じゃあ、お先に」と軽く笑ってトイレを出た。
席に戻り、わたしはもう一度、意識して相果さんと距離を取ろうとした。まず他部署への確認事項を、後輩の現原くん経由で回すよう指示を出してみる。
だが数時間後に戻ってきた資料は、現原くんがまとめたにしてはやけに整理されていた。
「開発のほうで、途中ちょっと整理が入って。こっちのデータと合わせた方が見やすいだろうって」
笑う後輩を前に、わたしは言いようのない居心地の悪さを覚えた。
誰が手を入れたのかは、考えるまでもなかった。
気づけば要所がきれいに片付けられていた。
だが、それはわたしが上手く立ち回ったからではない。
定時を迎え、わたしは服の上から首元へそっと触れた。コンシーラーはまだ肌に張りついているような感じはあったが、自分では見えない位置にあるだけに、やけに不安になる。
このまままっすぐ帰るより、彼の部屋で――そう、この事情をよく知っている彼の部屋で、化粧をすっかり落とすほうが、楽に過ごせるかもしれない。
そういう考えが頭をよぎって、自分で苦笑した。




