53.戻れない朝が来て
朝日が、ブラインドの隙間から差し込んでいた。
まばたきをして見えたのは、藍色のベッドシーツとそこに横たわる自分の手、小さなチェストと、その上にある二冊の文庫本。そして、背中を包むような体温のぬくもり。それでようやく、自分の部屋でないことに思い至った。
身じろぎをすると、わたしの腰に絡んでいた男の腕が、引き寄せるように抱きしめてきた。
寝返りを打つように振り返ると、相果さんと至近距離で目が合った。何が嬉しいのか、彼はずっと微笑んでいた。身体をぴたりと寄せて向き合ったまま、しばらく飽きもせず無言で見つめ合う。お互いに社会人の仮面を剥がした後の、恋人らしい気恥ずかしさがあった。
先に口を開いたのは、相果さんだった。彼はふと気が付いたようにわたしの首筋を指で撫でてから、こう言った。
「あの、扇衣さん。その……コンシーラー持ってます?」
「……? 持ってますけど……」
「あー、それなら、あとで貸してください……」
彼の話は要領を得ない。
ベッドを抜け出して、洗面台へ向かい、何気なく鏡を見た。首筋に散った赤い痕が目に入って、思わずそこを凝視してしまう。
そこへ、少し遅れて相果さんが洗面所に入ってきた。鏡越しに視線が合った途端、彼はひどく気まずそうに目を逸らし、口元を手で覆った。
わたしは努めて冷静に、化粧ポーチからコンシーラーのパレットとブラシを取り出した。
「……融さん。これ、うちの既存品のコンシーラーなんですけど」
「え? ええ……」
「少し、カバー力が足りないと思うんです。開発ではどうお考えですか」
これ以上ないほどの事務的な声で尋ねると、彼は少し目を丸くした。
「その程度のアザなら隠せると思いますよ」
「そうでしょうね」
わたしの冷ややかな相槌に、彼は数秒ほど瞬きをした。わたしが製品の相談をしているわけではないと、ようやく察したらしい。空気を読まずにマジレスしてしまった己の失態に気づいたのか、彼は観念したように深く頷いた。
「……。次期リニューアルの要望として、上に挙げておきます」
「ぜひ、お願いします」
そこで、ふたりで顔を見合わせて笑った。
笑い声が収まると、部屋はまた心地よい静けさに包まれた。相果さんは「失礼します」と小さく断ってから、わたしの首筋にそっと手をやり、コンシーラーブラシで丁寧に痣をなぞる。やりやすいようにと顎を少し上げた瞬間、その体勢が昨夜とひどく似ていることに気づいてしまった。
「……よかった。きれいに隠れますよ」
ブラシが触れると、そこを吸われるたび身体が勝手に跳ねてしまったことまで蘇ってきて、急にまともに鏡が見られなくなる。なまじ彼の言葉が「きれいに隠れる」と無邪気だったから、わたしだけが過剰に反応してしまっているようで、余計にいたたまれない。
つまり、本当に、恋人同士の朝を迎えてしまったのだ。
相果さんが、コンシーラーの蓋をぱちりと閉じた。
「朝食を用意します。簡単なものですが」
「無理しないで。病み上がりなのに」
「大丈夫です。すっかり良くなりましたから」
そう言って微笑む彼の顔色は、昨夜の蒼白さが嘘のように穏やかだった。わたしが「何か手伝います」と言うと、彼は小さく首を振った。
「いえ、座っていてください。昨日は君にいろいろさせてしまいましたし。このくらいは僕がやります」
そう言われたら座るしかない。リビングの椅子に腰を下ろし、キッチンに立つ彼の背中を眺める。
妙にくすぐったくて、ちょっと落ち着かない。同時に、こんな朝が自然にも思えてしまう。
そこで、ふと冷静になる。
――これ、条件を満たしたんじゃない?
想いを自覚し、恋人になり、一夜を共にした。乙女ゲームなら、ここまで来て何も起きないほうがおかしい。エンドロールが流れて、元の世界への帰還フラグが立っても不思議じゃない。
それなのに、わたしの視界には、システムからの『CLEAR』の文字が浮かばない。
――じゃあ、何が足りないの?
乙女ゲームはたいてい、期限までに何をやったかでエンディングが分岐する。この世界――『社内恋愛』も例に漏れなかった。会社のカレンダーと照らし合わせるなら、来年の三月だろうか。
つまり、年度末だ。決算や異動が重なる区切りの時期でもあるから、そこに何かしらのゴールが設定されている可能性は高い。
本来なら、そこにもっと明確な〈イベント〉があるのだろう。
こういうところはゲームに準じて待つべきだったかもしれない。だが、乙女ゲームというものは、付き合っているも同然のところまで来ても決定的な一手を後回しにして、最後にまとめて回収したがるものだ。ゲームならそれでも待てるが、現実でやるにはかったるくてならない。だからわたしは、先に自分で進めてしまった。進行はだいぶ狂っているかもしれないが、とにかく条件は満たしているはずだ。
そこまで考えたところで、彼が皿を二つ運んできた。
白いプレートの上には、目玉焼きとベーコン、軽く焼いたトースト。脇にはサラダと切り分けたオレンジまで添えられている。華美なプレートではない。きれいに整った、しかしありもので作った朝食だった。ここにわたしがいることを前提に出来上がっているような朝食を、わたしもごく自然に受け入れる。こういう朝を何度も繰り返してきたみたいに。
――わたしがいなくなったら、相果さんはどうなるの?
もし三月にクリア条件を満たして、わたしが元の世界へ帰還したら、彼はまた頭痛に苛まれるのだろうか。暗い部屋で、誰にも悟られないように、じっと耐えるのだろうか。
「コーヒーでいいですか?」
キッチンに立つ彼が振り返る。そのあまりにも普通の恋人の姿が、わたしの不安を煽る。昨日はあんなに辛そうだったのに、今はそれを綺麗に取り繕って、いつもの有能な男として振る舞おうとしている。
向かい合って朝食を取るあいだ、会話は驚くほど穏やかだった。ベーコンの塩気も、少し冷めかけた目玉焼きも、淹れたてのコーヒーの苦みも、どれも派手ではなかった。テレビからは、朝の情報番組が天気予報を流していた。今日の最高気温と降水確率、それから星座占い。そんなものを聞き流しながらトーストをかじっている自分は、すでにこの家に妙に馴染んでしまっている。
食べ終えた皿をシンクに下げ、コーヒーを飲み干す頃には、時計に出勤を急かされていた。わたしはジャケットに袖を通し、最低限の身支度を整えてから、玄関へ向かう。
「今日までは絶対に休んでいてくださいね。午後から出てきたら怒りますよ」
「わかりました。おとなしく寝ています。……形桐さんも、気をつけて」
オフィスへと向かう電車の中で、わたしはコンシーラーを塗った首元にそっと触れた。
昨夜はたしかに、恋人同士だった。今朝だってそうだ。
でも、それで終わらないのだとしたら。
このゲームは、いったいわたしに何を求めているのだろう。




