52.怖がってあげない
相果さんは壁についていた手を離し、わたしを部屋へ上げてくれた。靴を脱ぎ、彼の背中を追って廊下を進む。リビングのドアを開けて、そこではじめて照明を点けた。
「何か、飲み物でも……」
言いかけて、彼はリビングの中央で不自然に立ち止まった。わたしは咄嗟に踏み込み、彼の背中に手を添える。
「お茶なんて淹れようとしたら怒りますからね。横になって」
「でも……」
「いいから」
半ば強引に、相果さんをリビングのソファへ引きずっていく。彼は大人しくソファに横たわった。だが、わたしが支えていた手を離そうとした瞬間、その腕を強く引き寄せられた。
「え――」
バランスを崩し、ソファの上にいる相果さんへ向かって倒れ込んでしまった。あわてて身体を起こそうとしたが、長い腕がわたしの背中に回り、すがるようにきつく抱きすくめられてしまう。
「あの、相果さん。大丈夫ですか。その、重くないですか?」
「全然……」
おずおずと首に手を回すと、彼は嬉しそうに笑う。しばらくは呼吸を整えるように息をしていたが、やがて彼の口から言葉がぽつりと洩れた。
「触れると、……消えるんだ、痛みが……」
相果さんはわたしの首元に深く顔を埋めた。
その言葉を聞いて、給湯室前の廊下で青い顔をしていた彼を見つけ、手首に触れた時の記憶が蘇る。
(……まさか。やっぱり、そうなの?)
あのときは、わたしの指が離れた瞬間に、痛みがぶり返したように見えた。だからこう思ったのだ。「わたしに触れたら、痛みが和らぐのか」と。
まさか、と否定して蓋をした馬鹿げた仮説だった。だが、気のせいなんかじゃなかったのだ。この人は本当に、わたしに接触することで原因不明の激痛から逃れている。
「わたしに触れたら、頭痛が消えるんですか?」
彼は答えない。黙したまま、ますますわたしを強く抱きすくめて、首元に深く顔を埋めようとする。失言に気づいた子供みたいに、まともにこちらを見ようとしない。
「ねえ、答えてください。融さん?」
「ああ、……その呼ばれ方、すごくいい……すごく、困る」
「……。まったく……」
この人は、まだ誤魔化そうとしている。
こっちは、ある種の覚悟をもって彼の部屋を訪れたというのに。当の本人が、わたしを抱きしめるだけで満足しきっているのだから、拍子抜けしてしまう。同時に、彼のこの無防備で情けない姿を愛おしいと感じてしまっている。あんなに理不尽に、身勝手に、わたしを守ろうとした彼に対してどうしようもない敗北感を覚えたあの日から。わたしはもう、とっくにこんなところまで落ちていた。
「ねえ、これで寝落ちされたら困るんですけど……」
彼はちっとも応えない。わたしは小さくため息を吐いた。
わたしはそっと上半身を持ち上げた。彼はこちらを見上げようともせず、視線を斜め下へと逸らした。深く寄せられた眉間が、不機嫌さから来るものではないことはすぐにわかった。未だ頭の奥で明滅している痛みに、独りで耐えているのだと。
そっちがその気なら、こちらから仕掛けて、答えを引きずり出すしかない。
わたしは、目を細めて彼を見降ろした。それで済ませるつもり? と心の中で毒づきながら、彼の頬を両手で包む。
そのまま、噛みつくようにキスをした。
彼の身体がびくりと硬直し、わたしの肩に手が置かれた。咄嗟にわたしを引き剥がそうとして、しかし遠慮が勝ったのだろう、手にはまるで力が入っていない。その手を二つとも絡め取って、ソファに押し付ける。
しばらく、彼はわたしの成すがままだった。戸惑いながら受け入れた唇は、ためらいがちに応えはじめ、やがて溺れるように縋ってくる。
唇を離すと、彼はわたしに両手を拘束されたまま、ゆっくりとこちらを見返した。今度は、まっすぐわたしを見ていた。
わたしは彼から手を離し、身体を持ち上げて言い放った。
「頭痛は収まりました?」
彼はしばらく呆然としていたが、やがてその端正な顔をくしゃりと歪めて、たまらないといったふうに低く笑った。
「敵わないなぁ」
彼は深く息を吐き、ソファに身を沈めたままわたしを見上げた。
どうやら、効き目は絶大だったようだ。さっきまで浅く乱れていた呼吸は、嘘のように落ち着きを取り戻している。痛みに耐えるように逸らされていた視線も、今はまっすぐにわたしを捕らえていた。
彼は、確実にいつもの彼へと戻りつつある。
だが、その顔色はまだ青白く、目の下には疲労の影が濃く張りついたままだ。それに、根本的に治ったわけではないのだ。わたしがこのまま離れてしまえば、また痛みがぶり返すのかもしれない。
今にも倒れそうなこの不安定な男を置いて帰るという選択肢は、わたしの中で完全に消え去っていた。
「……今日は泊まっていきます」
相果さんは目を見開いた。
「え……。そんな、悪いです」
「悪いかどうかは、わたしが決めます。もう決めました」
彼は困ったように笑って、それからゆっくり身体を起こそうとした。
「なら、何か作ります――」
「いりません。横になって」
「でも、」
「それより、まだ痛みますか?」
「……いえ、だいぶ」
「ゼロじゃないんですね?」
問い詰めるつもりはなかったが、彼はますます困ったように笑った。
「容赦がないな」
だが、それ以上はごまかさなかった。ソファにぐったりと横たわったまま、目を閉じる。疲れ切った顔だった。だが、このままここで寝かせるわけにもいかない。
「ベッドはどこにあります? 連れてってあげますから」
彼は薄く目を開けた。
「ああ、いえ……。ここで、十分です」
「十分なわけないでしょ」
ほとんど決めつけて差し出した手を、彼はしばらく見つめていたが、やがて諦めたように掌を重ねた。立ち上がる瞬間、体重が思ったより深くこちらに預けられる。
寝室まで連れていくと、相果さんはおとなしくベッドの端に腰を下ろし、そのまま倒れ込むように身を横たえた。わたしは掛け布団を引き上げる。彼はされるがままだった。
わたしはベッドの端にそっと腰かけた。隣に横たわる彼の呼吸は、さっきよりずっと落ち着いている。しばらくして、彼が目を開けた。
「……形桐さん。本当に、泊まるつもりですか」
「もともと、そのつもりで来たんですよ」
彼はしばらく黙り込んだ。呼吸はさっきより落ち着いているが、いまわたしが部屋を出たら、また同じように苦しむのではないか、と不安に思わせる程度には、まだ危うかった。
「ありがとう」
その言い方が、あまりにも弱っていて。わたしは返事の代わりに、彼の頬へ触れた。
「……どうして、わたしを呼ばなかったの?」
さっきまでより、ずっとやわらかい声で聞いた。彼はわたしの手に頬を預けたまま、ゆっくりと目を閉じた。
「呼んでしまったら、……君を、都合よく使うから」
「それをわかったうえで、わたしはここにいるんですよ」
彼はかすかに笑った。苦い笑いだった。
「わたしのことなんですから。わたし抜きで決めないで」
今度は、彼のほうからゆっくりと手を伸ばしてきた。指先が、恐る恐るわたしの頬に触れる。
「……それは、ずいぶん難しいことを言いますね」
「知ってます」
そこで初めて、二人とも笑った。
彼の指が、今度はわたしの手を弱々しく掴んだ。わたしはその手をほどかず、身を寄せた。彼は壊れものに触れるみたいに、そっとわたしを抱き寄せた。
彼の胸に耳を寄せる。しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……まだ、痛みますか」
「だいぶ良くなりました」
「そうですか」
それだけ言って、わたしは彼の首元に唇を寄せた。彼が小さく息を呑む。
「あ、あの……形桐さん」
「はい?」
「いま、その、すごく困っています」
「ええ、知ってます」
そう返すと、彼は小さく笑った。
彼はわたしの髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳いた。
わたしは彼の前髪をそっとかき上げ、そのまま額を寄せる。彼は逃げるでもなく、こちらに熱を預けるように目を閉じた。
互いの吐息が触れ合う距離で、しばらく動けなくなる。
それから、どちらからともなく顔を寄せた。確かめるみたいに、ゆっくりと唇が重なる。
熱はまだ完全には引いていなかったが、切羽詰まったような苦しさは、もう表に出てこなかった。




