51.休むなんて珍しい
月曜日の朝。出社して自席のパソコンを立ち上げていると、ホワイトボードの予定表を更新していた後輩の現原くんが、小走りでこちらへやってきた。
「おはよう、現原くん」
「おはようございます! あの、これ、印刷所から届いてたクリスマスコフレのパンフの色校なんですけど。形桐さんの案件ですよね。商品開発部にも見せ戻しお願いしますって、制作から言われてて」
そう言って現原くんが差し出したのは、印刷所から上がってきたばかりの色校だった。光沢のあるコート紙に刷られた二つ折りのパンフレット見本で、写真の色味や紙面全体の印象を確認するためのものだ。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
現原くんは人懐っこく笑うと、足早にオフィスを出ていった。
午前中の業務の合間、わたしは色校を届けに商品開発部のフロアへ足を運んだ。しかし、相果主任のデスクはきれいに片付いたままで、主が不在だ。代わりに、その隣のデスクから袖を雑にまくり上げた名嘉城くんがひょいと顔を出す。
「お、形桐じゃん」
「おつかれ、名嘉城くん。相果主任は離席中?」
「いや、今日はダウン」
「ダウン?」
「体調不良で欠席。主任が休むなんて珍しいよな~。朝イチで休むって連絡は来たけど、主任にしちゃ雑だったんだよな。そうとうヤバいのかも」
名嘉城くんは缶コーヒーを開けながら、からかうようにニヤリと笑った。
「そうだ。あんたら、最近よく一緒にいるじゃねえか」
「仕事でね」と、素早く補足する。
「なんも聞いてねえの?」
そう言いつつ、名嘉城くんはこちらの顔色をちゃっかり窺っている。わたしは努めて呆れたふうを装った。
「当たり前でしょ! 仕事の範疇じゃないわよ。……体調、ひどいのかしら」
「さあね。ま、休むんだからよっぽどなんだろ。ほら、色校はこっちで預かっててやるから。ついでに、主任が昨日見てたパンフの戻し、上がってる分だけ返しとくぜ。セット内容の表記だけ直し入れたから」
名嘉城くんから戻しを受け取り、わたしは足早に宣伝部へと戻った。
……昨日は、あんなに元気そうだったのに。
携帯電話を確認するが、彼からの連絡は入っていない。
会社には欠勤の連絡を入れているのに、わたしには一言もない。
それはただの遠慮で片付けられるのかもしれない。だが、相果さんらしくもないミスだ。単なる体調不良と切り捨てようにも、胸騒ぎがする。
改札の手前で見た、あの妙に静かな顔が脳裏をよぎる。ただの別れ際の名残惜しさだったとは、どうしても思えなかった。
席に戻ったわたしは、手元の資料をまとめると、まっすぐに維木課長のデスクへ向かった。彼はパソコンの画面をじっと見つめている。手は動いていない。
「課長、今よろしいでしょうか」
「手短に」
「クリスマスコフレのパンフ色校ですが、相果主任が本日欠勤のため、商品側の戻しが今日中に確定しません。印刷所には、ひとまず一日後ろ倒しで見てもらうよう連絡しておきます」
維木課長は画面を見たまま、「わかった」とだけ短く言った。
「……あの、課長」
「なんだ」
わたしは一瞬だけ逡巡する。踏み込みたいが、相果さん個人を気にしているとみられるのは悪手だ。気にしているのはあくまでも案件なのだと伝えなければならない。
「相果主任が見ていた案件、急ぎの確認だけならいったんわたしで受けます。止めたくないものがあれば、こちらに回してください」
わたしの言葉に、維木課長が初めてこちらに視線を向けた。感情の色が乗っていない静かな瞳だった。
「そこまでやる必要はないが」
「そうなんですが、戻しが止まるとこちらも手が空いてしまって」
「そうか。なら任せる」
「ありがとうございます」
わたしは一礼して席に戻った。
***
定時を迎え、タイムカードを切ってオフィスビルを出る。
冷たい夜風に吹かれながら、わたしは携帯電話の画面を見つめた。相果さんからの連絡はない。それ自体は不思議でもないはずなのに、胸騒ぎは消えなかった。
わたしは、通話ボタンを押した。
迷っている時間はなかった。――いや、本当はあった。自分で潰した。迷いなど何の役にも立ちやしない。
数回のコールの後、ひどく掠れた声が聞こえた。
『……はい。あの……?』
「相果さん。今からお見舞いに行くので、住所を教えてください。どのあたりですか?」
有無を言わさぬ宣言に、電話の向こうで彼が小さく息を呑む気配がした。
『だ、……だめです』
「だめってことはないでしょう」
『大丈夫、大丈夫ですから……』
そんなわけがない。電話の向こうに、浅い呼吸が混じっている。どう考えても健康な人の態度ではない。
「大丈夫そうな声には聞こえませんけど」
『いまは、そんなに……』
「教えてください。最寄りはどこですか。ランドマークは?」
***
相果さんのマンションは、駅から十分ほど歩いた先の静かな住宅街にあった。再開発された駅前の華やかさが途切れた先にある、無機質な中層マンションだ。
エントランスのインターホンを押すと、しばらく間があってから、小さく返事があった。ほどなくしてオートロックが解錠される。エレベーターを降り、指定された部屋番号の前に立つ。チャイムを鳴らしてから扉が開くまで、ひどく長く感じた。
開いた扉の向こうに立っていた相果さんは、昨日より明らかに顔色が悪かった。痛みに耐えるせいか、目元にはかすかな険がある。シャツには皺が寄ってしまっているが、ボタンはきちんと留められていて、その半端な几帳面さがかえって痛々しい。
背後で、オートクローザーの効いた扉がゆっくりと閉まった。
途端に、薄暗くなる。目の前の彼の表情は暗闇に沈み、窓から洩れる夕日でかろうじてそこにいるとわかるだけだ。もう日も沈もうというのに、電気は一つも点いていなかった。
わたしは彼を見上げた。
吸い寄せられるように、彼が一歩こちらに踏み出す。つられて下がろうとしたが、もう背中は玄関扉に当たっていた。わたしに覆いかぶさるように、彼は壁に手をついた。熱を帯びた吐息が頬にかかる。いつもならかすかに混じる煙草や整髪料の匂いは、今日はまるでしなかった。昨日までの彼とはあまりにも違っていた。
「形桐さん。……なんで、来たんですか」
「なんでって」
わたしは彼を見上げたまま、口元をゆるめる。
「わたし、あなたとお付き合いしていると思ってたんですけど。違いました?」
彼は笑った。息を漏らすような、力の抜けた笑い方だった。




