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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第4章:WINTER

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51.休むなんて珍しい

 月曜日の朝。出社して自席のパソコンを立ち上げていると、ホワイトボードの予定表を更新していた後輩の現原(ありはら)くんが、小走りでこちらへやってきた。


「おはよう、現原(ありはら)くん」


「おはようございます! あの、これ、印刷所から届いてたクリスマスコフレのパンフの色校(いろこう)なんですけど。形桐(かたぎり)さんの案件ですよね。商品開発部にも見せ戻しお願いしますって、制作から言われてて」


 そう言って現原(ありはら)くんが差し出したのは、印刷所から上がってきたばかりの色校(いろこう)だった。光沢のあるコート紙に刷られた二つ折りのパンフレット見本で、写真の色味や紙面全体の印象を確認するためのものだ。


「ありがとう」


「どういたしまして!」


 現原(ありはら)くんは人懐っこく笑うと、足早にオフィスを出ていった。


 午前中の業務の合間、わたしは色校(いろこう)を届けに商品開発部のフロアへ足を運んだ。しかし、(さが)()主任のデスクはきれいに片付いたままで、主が不在だ。代わりに、その隣のデスクから袖を雑にまくり上げた名嘉(なか)(じょう)くんがひょいと顔を出す。


「お、形桐(かたぎり)じゃん」


「おつかれ、名嘉(なか)(じょう)くん。(さが)()主任は離席中?」


「いや、今日はダウン」


「ダウン?」


「体調不良で欠席。主任が休むなんて珍しいよな~。朝イチで休むって連絡は来たけど、主任にしちゃ雑だったんだよな。そうとうヤバいのかも」


 名嘉(なか)(じょう)くんは缶コーヒーを開けながら、からかうようにニヤリと笑った。


「そうだ。あんたら、最近よく一緒にいるじゃねえか」


「仕事でね」と、素早く補足する。


「なんも聞いてねえの?」


 そう言いつつ、名嘉(なか)(じょう)くんはこちらの顔色をちゃっかり窺っている。わたしは努めて呆れたふうを装った。


「当たり前でしょ! 仕事の範疇じゃないわよ。……体調、ひどいのかしら」


「さあね。ま、休むんだからよっぽどなんだろ。ほら、色校(それ)はこっちで預かっててやるから。ついでに、主任が昨日見てたパンフの戻し、上がってる分だけ返しとくぜ。セット内容の表記だけ直し入れたから」


 名嘉(なか)(じょう)くんから戻しを受け取り、わたしは足早に宣伝部へと戻った。


 ……昨日は、あんなに元気そうだったのに。


 携帯電話を確認するが、彼からの連絡は入っていない。

 会社には欠勤の連絡を入れているのに、わたしには一言もない。

 それはただの遠慮で片付けられるのかもしれない。だが、(さが)()さんらしくもないミスだ。単なる体調不良と切り捨てようにも、胸騒ぎがする。


 改札の手前で見た、あの妙に静かな顔が脳裏をよぎる。ただの別れ際の名残惜しさだったとは、どうしても思えなかった。


 席に戻ったわたしは、手元の資料をまとめると、まっすぐに維木(つなぎ)課長のデスクへ向かった。彼はパソコンの画面をじっと見つめている。手は動いていない。


「課長、今よろしいでしょうか」


「手短に」


「クリスマスコフレのパンフ色校(いろこう)ですが、(さが)()主任が本日欠勤のため、商品側の戻しが今日中に確定しません。印刷所には、ひとまず一日後ろ倒しで見てもらうよう連絡しておきます」


 維木(つなぎ)課長は画面を見たまま、「わかった」とだけ短く言った。


「……あの、課長」


「なんだ」


 わたしは一瞬だけ逡巡する。踏み込みたいが、(さが)()さん個人を気にしているとみられるのは悪手だ。気にしているのはあくまでも案件なのだと伝えなければならない。


(さが)()主任が見ていた案件、急ぎの確認だけならいったんわたしで受けます。止めたくないものがあれば、こちらに回してください」


 わたしの言葉に、維木(つなぎ)課長が初めてこちらに視線を向けた。感情の色が乗っていない静かな瞳だった。


「そこまでやる必要はないが」


「そうなんですが、戻しが止まるとこちらも手が空いてしまって」


「そうか。なら任せる」


「ありがとうございます」


 わたしは一礼して席に戻った。



 ***


 定時を迎え、タイムカードを切ってオフィスビルを出る。

 冷たい夜風に吹かれながら、わたしは携帯電話の画面を見つめた。(さが)()さんからの連絡はない。それ自体は不思議でもないはずなのに、胸騒ぎは消えなかった。


 わたしは、通話ボタンを押した。

 迷っている時間はなかった。――いや、本当はあった。自分で潰した。迷いなど何の役にも立ちやしない。

 数回のコールの後、ひどく掠れた声が聞こえた。


『……はい。あの……?』


(さが)()さん。今からお見舞いに行くので、住所を教えてください。どのあたりですか?」


 有無を言わさぬ宣言に、電話の向こうで彼が小さく息を呑む気配がした。


『だ、……だめです』


「だめってことはないでしょう」


『大丈夫、大丈夫ですから……』


 そんなわけがない。電話の向こうに、浅い呼吸が混じっている。どう考えても健康な人の態度ではない。


「大丈夫そうな声には聞こえませんけど」


『いまは、そんなに……』


「教えてください。最寄りはどこですか。ランドマークは?」



 ***


 (さが)()さんのマンションは、駅から十分ほど歩いた先の静かな住宅街にあった。再開発された駅前の華やかさが途切れた先にある、無機質な中層マンションだ。

 エントランスのインターホンを押すと、しばらく間があってから、小さく返事があった。ほどなくしてオートロックが解錠される。エレベーターを降り、指定された部屋番号の前に立つ。チャイムを鳴らしてから扉が開くまで、ひどく長く感じた。


 開いた扉の向こうに立っていた(さが)()さんは、昨日より明らかに顔色が悪かった。痛みに耐えるせいか、目元にはかすかな(けん)がある。シャツには皺が寄ってしまっているが、ボタンはきちんと留められていて、その半端な几帳面さがかえって痛々しい。


 背後で、オートクローザーの効いた扉がゆっくりと閉まった。


 途端に、薄暗くなる。目の前の彼の表情は暗闇に沈み、窓から洩れる夕日でかろうじてそこにいるとわかるだけだ。もう日も沈もうというのに、電気は一つも点いていなかった。


 わたしは彼を見上げた。

 吸い寄せられるように、彼が一歩こちらに踏み出す。つられて下がろうとしたが、もう背中は玄関扉に当たっていた。わたしに覆いかぶさるように、彼は壁に手をついた。熱を帯びた吐息が頬にかかる。いつもならかすかに混じる煙草や整髪料の匂いは、今日はまるでしなかった。昨日までの彼とはあまりにも違っていた。


形桐(かたぎり)さん。……なんで、来たんですか」


「なんでって」


 わたしは彼を見上げたまま、口元をゆるめる。


「わたし、あなたとお付き合いしていると思ってたんですけど。違いました?」


 彼は笑った。息を漏らすような、力の抜けた笑い方だった。

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