50.痛みの耐えがたい軽さ
「……、っ……」
喉の奥から、くぐもった呻き声が漏れる。
鎮痛剤を一つ押し出して口に含む。コップを持つ手が震えたせいで、水が口の端から零れた。
息を整えながら、崩れ落ちるように床へ膝をつく。顎を伝って首筋へ落ちていく水を拭う余裕もなかった。
熱い。痛い。
まるで異物を排除しようとする免疫反応だ。
今日は形桐さんと過ごした。とても幸せな時間だった。彼女はこちらの言葉を勝手に補おうとしないし、それでいて、欲しい精度で答えを返してくる。隣に立っているだけで、息をするのが楽だった。彼女と一緒にいる間だけは、脳髄を焼き焦がしていた不快なノイズが嘘のように静まり返っていた。
だが、駅の改札で別れ、彼女の気配がふつりと途切れた途端、痛みが一気に押し寄せてきた。
……やっぱりそうだ。
彼女を認識している間だけ、この名状しがたい痛みが引くのだ。
わかっていたはずだ。
本当は、ずっと前に気づいていた。
ただ、見ないふりをしていただけだ。
市販の頭痛薬を何錠飲んでも、眠っても、この痛みはごまかせなかった。形桐 扇衣は、融にとってもはやただの同僚ではないし、ましてや都合のいい鎮痛剤なんかではない。そう言い聞かせているのに、身体のほうは、彼女をそれに近いものとして認識し始めている。
自宅に戻ると、痛みはいよいよひどくなった。
痛みに霞む視界で、携帯電話の画面を開き、アドレス帳に『形桐 扇衣』の名を見つける。いま、この通話ボタンを押して助けを乞えば、責任感の強い彼女のことだ、文句を言いながらも必ず駆けつけてくれるだろう。
そう想像しただけで、ほんの少しだけ、浅かった呼吸が整いだす。
それがたまらなく恐ろしかった。
自分の苦痛を鎮めるために彼女を呼ぶ。それは、彼女の意思を無視し、手段として消費することに他ならない。
彼女を誰より尊重し、守りたいと願っているはずなのに。あのとき、大型案件を潰してさえ守りたかったものを、一番ひどい形で踏みにじろうとしている。
他でもない、自分自身が。
「駄目だ……」
送信画面を閉じて、携帯電話をベッドの端へ放り投げた。
駄目だ。
そう何度言い聞かせても、身体は必死に彼女を選ばせようと悲鳴を上げている。理性と肉体の激しいねじれが、痛みをさらに増幅させた。
一睡もできなかった。
目を閉じ、彼女の凜とした声や、手の甲に残ったハンドクリームの甘い香りや、近づいたときのぬくもりを思い出す。その瞬間は、痛みがすっと遠のいた。だが、現実に彼女がここにいないと認識した途端、反動のように激痛が頭蓋を殴りつける。
思い出して楽になっても、本物がいなければすぐに痛みがぶり返す。
その往復に引き裂かれながら、果てのない夜を這いずり回った。
窓から白々しい朝の光が差し込んできても、痛みは引かなかった。
だが、これ以上無様な顔を晒すわけにはいかない。通常通りに出社しなければ。
よろめきながら立ち上がり、洗面台に向かう。冷水で顔を洗い、いつものように皺のないワイシャツに袖を通す。ボタンを上まで留め、ネクタイに手をかける。
だが、ネクタイの結び目を作ろうとした指先が、痙攣したように動かなくなった。
そのままクローゼットに手をつき、崩れ落ちる。
相果融という仮面を被ることすら、今の自分にはできないらしい。
這うようにして携帯電話を拾い上げ、会社に電話をかける。
「……相果です。申し訳ありません、酷い頭痛で……本日は休みをいただきます」
部長の怪訝そうな声に、最低限の言葉を伝えて通話を切る。
会社には連絡した。社会的な顔と体裁は、最低限保った。
だが、恋人には、たった一通のメールすら送らない。
送れない。そんなことをしたら、もう自分で自分を止められなくなりそうだった。
冷たいフローリングに丸く縮こまりながら、荒い息を吐く。
この恋が叶うなら、死んだっていい。そんな言葉があるが。
恋のせいで、俺は本当に死にかけている。




