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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

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50.痛みの耐えがたい軽さ

「……、っ……」


 喉の奥から、くぐもった呻き声が漏れる。

 鎮痛剤を一つ押し出して口に含む。コップを持つ手が震えたせいで、水が口の端から零れた。

 息を整えながら、崩れ落ちるように床へ膝をつく。顎を伝って首筋へ落ちていく水を拭う余裕もなかった。

 熱い。痛い。

 まるで異物を排除しようとする免疫反応だ。




 今日は形桐(かたぎり)さんと過ごした。とても幸せな時間だった。彼女はこちらの言葉を勝手に補おうとしないし、それでいて、欲しい精度で答えを返してくる。隣に立っているだけで、息をするのが楽だった。彼女と一緒にいる間だけは、脳髄(のうずい)を焼き焦がしていた不快なノイズが嘘のように静まり返っていた。

 だが、駅の改札で別れ、彼女の気配がふつりと途切れた途端、痛みが一気に押し寄せてきた。


 ……やっぱりそうだ。

 彼女を認識している間だけ、この名状しがたい痛みが引くのだ。


 わかっていたはずだ。

 本当は、ずっと前に気づいていた。

 ただ、見ないふりをしていただけだ。


 市販の頭痛薬を何錠飲んでも、眠っても、この痛みはごまかせなかった。形桐(かたぎり) (あお)()は、(とおる)にとってもはやただの同僚ではないし、ましてや都合のいい鎮痛剤なんかではない。そう言い聞かせているのに、身体のほうは、彼女をそれに近いものとして認識し始めている。


 自宅に戻ると、痛みはいよいよひどくなった。


 痛みに霞む視界で、携帯電話の画面を開き、アドレス帳に『形桐(かたぎり) (あお)()』の名を見つける。いま、この通話ボタンを押して助けを乞えば、責任感の強い彼女のことだ、文句を言いながらも必ず駆けつけてくれるだろう。

 そう想像しただけで、ほんの少しだけ、浅かった呼吸が整いだす。

 それがたまらなく恐ろしかった。


 自分の苦痛を鎮めるために彼女を呼ぶ。それは、彼女の意思を無視し、手段として消費することに他ならない。

 彼女を誰より尊重し、守りたいと願っているはずなのに。あのとき、大型案件を潰してさえ守りたかったものを、一番ひどい形で踏みにじろうとしている。

 他でもない、自分自身が。


「駄目だ……」


 送信画面を閉じて、携帯電話をベッドの端へ放り投げた。

 駄目だ。

 そう何度言い聞かせても、身体は必死に彼女を選ばせようと悲鳴を上げている。理性と肉体の激しいねじれが、痛みをさらに増幅させた。


 一睡もできなかった。

 目を閉じ、彼女の凜とした声や、手の甲に残ったハンドクリームの甘い香りや、近づいたときのぬくもりを思い出す。その瞬間は、痛みがすっと遠のいた。だが、現実に彼女がここにいないと認識した途端、反動のように激痛が頭蓋(とうがい)を殴りつける。

 思い出して楽になっても、本物がいなければすぐに痛みがぶり返す。

 その往復に引き裂かれながら、果てのない夜を這いずり回った。


 窓から白々しい朝の光が差し込んできても、痛みは引かなかった。

 だが、これ以上無様な顔を晒すわけにはいかない。通常通りに出社しなければ。

 よろめきながら立ち上がり、洗面台に向かう。冷水で顔を洗い、いつものように皺のないワイシャツに袖を通す。ボタンを上まで留め、ネクタイに手をかける。

 だが、ネクタイの結び目を作ろうとした指先が、痙攣したように動かなくなった。


 そのままクローゼットに手をつき、崩れ落ちる。

 相果融という仮面を被ることすら、今の自分にはできないらしい。


 這うようにして携帯電話を拾い上げ、会社に電話をかける。


「……(さが)()です。申し訳ありません、酷い頭痛で……本日は休みをいただきます」


 部長の怪訝そうな声に、最低限の言葉を伝えて通話を切る。

 会社には連絡した。社会的な顔と体裁は、最低限保った。


 だが、恋人には、たった一通のメールすら送らない。

 送れない。そんなことをしたら、もう自分で自分を止められなくなりそうだった。

 冷たいフローリングに丸く縮こまりながら、荒い息を吐く。


 この恋が叶うなら、死んだっていい。そんな言葉があるが。

 恋のせいで、俺は本当に死にかけている。

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