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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

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49.不覚にも甘い休日

 約束の十分前に着いたというのに、駅前にはすでに(さが)()さんの姿があった。

 仕立てのいい暗色のコートに、ハイゲージのタートルネック。休日の装いになっても、彼の纏う空気は端正で、雑踏の中でもひときわ目を惹いた。

 遠目からでもわかる、完璧な彼氏としての出で立ち。

 もっとも、わたしもまた完璧な彼女である。ほんの少しばかり可愛げが足りない自覚はあるが、それを押し込める術は心得ている。こういう場では、まず感じのいい女でいるべきなのだ。


 ……まあ、彼にはすでにだいぶ素を晒してしまっている気もするが。


 重要なのは、客観的に見て、彼の隣にいても恥ずかしくない女になることだ。

 (さが)()さんだって同じように考えたのだろう。彼は見目に恵まれてこそいるが、人はそれだけで美しくは見えないし、いくら素材がよくても付け焼刃では限度がある。普段からきちんと整えていて、今日は一段と手間をかけてくれたのだということがわかる。それが、少し嬉しい。


 わたしは小さく深呼吸をして表情を作り直し、足取り軽く彼に近づいた。


「おはようございます! 待たせてしまいましたか?」


 わたしが声をかけると、彼は読んでいた文庫本を閉じて微笑んだ。


「おはようございます。いえ、僕も今来たところです」


 絶対に嘘だった。彼のことだから、三十分前には到着していたに違いない。だが、そんな野暮な指摘をする隙を与えないほど、彼の振る舞いはスマートだった。


「今日は、わたしの我儘に付き合ってくださって、ありがとうございます」


 彼は「とんでもない」と首を振った。


形桐(かたぎり)さんと休日をご一緒できるのだから、僕にとっては最高の日です。今日の服、とてもよく似合っていますよ」


 さらりと落とされた称賛の言葉に、わたしはにっこり笑った。

 当然だ。彼の前回の装いから、シックなコーデで来ると予測はついていた。だから、わたしもそちらに合わせてきたのだ。ボルドーのハイゲージニットに、チャコールグレーの膝丈スカート。足元は細いヒールのロングブーツ。視察の名目を壊さない程度には実用的で、それでいて休日らしいかわいさもある。


「ありがとうございます! 相果さんもかっこいいですよ」


 休日のデートコースを歩くのが照れくさかったのは事実だが、美容誌の年末タイアップの平台展開と付録のパッケージングを視察しておきたい、と言ったのもまた本心だった。

 わたしは雑誌コーナーの棚を真剣な目で追いつつ、雑誌を何冊か手に取った。

 書店の中では互いに干渉せず、それぞれの見たい棚を回った。付かず離れずの距離は、休日の連れ立ちとしてはドライかもしれないが、わたしには快適だった。


 書店を出てカフェに向かう道すがら、クリスマス商戦の特設コーナーを展開している大型雑貨店にふらりと立ち寄った。入口付近には、ホリデー限定のハンドクリームやフレグランスが積み上げられている。

 わたしは足を止め、いちばん目立つ位置に置かれていたハンドクリームのテスターを手に取った。手の甲に少しだけ伸ばし、鼻を近づける。


「……香りはすごく良いですけど、少し硬いですね」


 横に並んで立っていた(さが)()さんが、わたしの手元を覗き込むように顔を近づけてきた。わずかに煙草と、ごく薄いウッディ系の整髪料の香り。それが、わたしの手の甲の甘い香りと、ふわりと混ざる。


「ギフト向けに振った企画かもしれませんね。外箱で満足感を出している」


 そう言って、彼は棚に並んだ商品の外箱を指さした。そこには、箔押しの外箱がならんでいる。


「ああ、なるほど……」


 彼は結論を押しつけるでもなく、ただわたしが見ているものを同じように眺めていた。それだけのことが、思ったよりずっと、嬉しい。




 ひとしきり売り場を見て回ったあと、わたしたちは近くのカフェに入った。オーダーした飲み物が届くまでの間、わたしは先ほど購入した美容誌を一冊広げた。真ん中が不自然に膨らんでいるのは、別添(べつぞえ)の付録が雑誌の中に挟まれ、ビニール紐で綴じられているからだ。

 付録の小箱を開けたところで、ぽつりと声が漏れた。


「今回の付録、試供品にしては量が多い……」


 それを聞いた(さが)()さんが顔を上げて、わたしの手元にある雑誌の付録に視線を移した。「見てもいいですか?」と聞かれて、わたしは(さが)()さんに雑誌を渡す。彼の大きな手にツヤツヤした女性誌が収まっているのは、妙にちぐはぐに見えた。


「容器を凝らずにコストを抑えて、量を増やしているみたいですね」


「ですね。『数日試してから買いたい』っていう読者の不満を潰しにきてるんでしょう。いま走らせている冬コフレ販促の見直し材料にはなりそうです」


 彼はわたしの邪魔することなく、必要なときだけ過不足のない所見を述べてくれる。恋人という名目になっても、彼はわたしを女として甘やかすだけでなく、仕事のできる人間として扱うことをやめない。これに慣れてしまうのは危険だとわかっているのに、その快適さが思っていた以上に心地いい。


「今日はいろいろ振り回してしまってすみません。楽しくて、つい」


「それはよかった」と、彼は柔らかく目を細めた。



 ***


 気づけば、日はすっかり落ちていた。喧騒の中を駅へ向かって歩き出すと、自然と口数が減った。

 ふと、気づく。

 社内で見るときよりも、彼の歩く速度が遅い。普段は無駄なく動く彼が、今はわざと歩幅を狭め、ゆっくりとわたしのペースに合わせて歩いている。

 一緒に歩いていても、気を張らない。彼といると、無理に笑わなくてもいい。仕事の話をしていても、沈黙の中にいても、自分を消耗せずに済むことが不思議だった。

 やがて、見慣れた駅の入り口が視界に入る。


(……着いてしまう)


 不意にそんな感情が胸をよぎり、自分でも驚いた。

 改札の手前で、(さが)()さんが足を止めた。人の波が行き交う中で、彼がこちらを見下ろす。


形桐(かたぎり)さん」


 彼が、何かを言いかけた。

 ほんの一瞬。その端正な顔に、このまま帰したくないと訴えるような、ひどく切実な熱が滲んだ気がした。わたしは無意識に、彼からの次の言葉を待ってしまっていた。――決定的な言葉を。


 だが、彼は小さく息を呑み込み、伏し目がちに笑った。いつもの表情とは違っていた。遠慮というにはあまりに切迫している。衝動を無理やり押し込めたあとのような、不自然な穏やかさだった。


「……今日はありがとうございました。お気をつけて」


「ええ。また、会社で」


 引き止められなくてよかった、と思った。

 もし引き止められていたら、きっと、断れなかった。

 そう安堵する理性のすぐ裏側で、彼に背を向けて改札へ向かう一歩が重い。

 明日また彼に会えることを、もう疑いようのない楽しみとして受け取ってしまっている自分がいた。

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