46.おはようを伝えて
どうやって帰ってきたのか、記憶が曖昧だった。
玄関のドアを閉める。のろのろと靴を脱ぐ。コートをハンガーにかける間、その手の動きをどこか他人事のように眺めていた。
リビングに入ると、螢がソファでくつろいでいた。
「おかえり。遅かったねー」
妹は相変わらず平常運転で、マグカップを片手にだらしない姿勢で雑誌をめくっている。いつもなら「そんな持ち方したらこぼすわよ」と小言の一つでも言うところだが、今はそんな気力さえなかった。
何か飲もうと、冷蔵庫を開ける。麦茶でも飲もうかとピッチャーを掴んだ途端、その冷たさに思わず手を離してしまった。この胸をざわつかせる熱をさっさと洗い流してしまうのが惜しい。そんな非合理的な感情を抱いている自分に戸惑いながら、わたしは結局何も取らないまま、冷蔵庫の扉を閉めた。
リビングに戻ると、螢が身体を起こして、訝しげな視線を向けてきた。
「姉ちゃん、大丈夫? 風邪?」
わたしは小さく息を吐きだした。螢が座り直して空いたソファのスペースに腰掛ける。目の前のテレビに視線を固定するが、内容はまったく入ってこない。膝の上で両手を組み、テレビに視線を預けたまま、なるべく平坦な声を作った。
「……会社の人と、付き合うことになって」
螢は特に驚いたようすもなく、「ふーん」と相槌を打ってマグカップに口をつける。
「向こうから告白されたの?」
「ううん。わたしから言った」
その言葉に、螢は少しだけ目を丸くしたが、すぐ納得したように笑った。
「ま、姉ちゃんらしいっちゃらしいか。にしても、同じ職場の人ねえ。なんか、仕事も気まずくなりそう」
そうだと思う。――もしこれが、ただの『社内恋愛』であれば、だが。
こちとら、気まずくなるかどうかを気に病む段階はとうに過ぎている。普通の恋人同士なら、会社では努めてふつうのふりをするとか、休日デートで会社の人と鉢合わないよう周囲に目を光らせなきゃいけないとか、その程度で済むだろう。だが、わたしが相手にするのは、一歩間違えれば監禁エンド直行の人物なのだ。
気まずくなる程度で済むなら、どんなによかったか。
だが、そんなことなど知りもしない螢はのんきなものだった。
「だれ? って、あたしが聞いてもわからないか」
「わかると思うわよ。……ビアガーデンで一緒だった人だから」
「あー」と、螢は思い出すように視線を上に向ける。
「あのチャラそうな人? 名嘉城さんだっけ」
「そっちじゃなくて」
「え? あの大人しそうなお兄さん? マジ?」
螢が本気で意外そうな顔をして、遠慮のない値踏みの視線を向けてくる。何か失礼なことを考えているに違いない。
「へえぇ。ま、姉ちゃんって自分のペース崩されるの嫌いだもんね」
「まあ、うん。その……仕事はできる人よ」
「そりゃ姉ちゃんが選ぶならそうでしょ。まあ、あの人あんまり押してくる感じじゃなさそうだし、まだマシそう」
まだマシ。
その言葉の響きに、思わず笑いそうになる。〈攻略対象〉の中で、彼は「マシ」という言葉からもっとも遠い位置にいたはずなのに。
螢としばらく会話してから、わたしはまっすぐ寝室へ向かった。ベッドに倒れ込み、薄い掛け布団を引き被る。
自白してしまった「好き」という言葉の熱が今さらぶり返して、思考がちっともまとまらなかった。真っ暗な視界の中で、あの夜の出来事が何度もフラッシュバックする。彼の手に触れたときの冷たさ。腰に回された手の大きさ。唇に落とされた、あの切実な重さ。
痺れるような甘さの余韻が、唇にまだ残っている。
心臓がばくばくと早鐘を打つ。胸が妙にざわついて落ち着かない。
あれは打算だ。自分の安全を確保するためにやったことだったのに。
そう言い聞かせても、身体の奥に残る熱がその前提をあざ笑うように揺るがしてくる。
惹かれている、なんて。
認めてしまうにはまだ早すぎる。
男性とあんなふうに触れ合うのは、ずいぶん久しぶりだった。何年も恋愛事から離れていたから。だから、少しだけ、ほんの少し驚いただけだ。
言い訳ばかりがぐるぐると頭を巡って、結局その日はなかなか寝付けなかった。
***
月曜日の朝。
いつもより念入りにメイクし、いつもより少しだけ高めのヒールで武装して、わたしはオフィスの入り口を潜った。
土日の間に、なんとか感情の整理はつけたつもりだ。恋人になったからといって、職場であからさまに触れ合う気はない。
「おはようございます!」
言いながらフロアに入ると、コピー機の前に立っていた背中が振り返った。
相果さんだった。
「おはようございます、形桐さん」
少し目じりを下げて、端正な微笑みを浮かべている。その顔を見て、わたしは少し面食らった。夏の終わり、火星が接近していた頃に見せた、何かに追い詰められているような不穏さが、きれいに消え去っていた。憑き物が落ちたような、波一つない水面のような深い落ち着き方だった。
(……恋人になったから、安定したってこと?)
安心はできないのに、その柔らかい表情に不覚にも見惚れてしまう。
「おはようございます、相果主任」
役職名をつけて返す。彼はまったく気にする素振りを見せず、出力されたばかりの資料を揃えながら、ごく自然に、何でもないことのように口を開いた。
「そういえば、駅の向こうに、新しくイタリアンの店ができたんですよ。よければ今日、一緒にどうですか?」
「え……」
周囲には同僚たちがいる。誰かに聞かれたかと思って一瞬身を硬くしたが、彼の声は完全に仕事の延長だった。周囲も、ただの雑談だと聞き流すだろう。
「形桐さん、パスタが好きだと言ってましたから」
いつだったか、世間話のついでにぽろりとこぼしただけの好みを、覚えていてくれたのだ。その事実が嬉しい。声のトーンも、誘い方も、同僚以上の何物でもない。むしろ、わたしのほうが挙動不審かもしれない。
「……はい。ぜひご一緒させてください」
「よかった。じゃあ、十二時にロビーでお待ちしています」
彼は少し嬉しそうに頷くと、自分のデスクへと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、わたしはゆっくりと息を吐く。
うれしい。警戒しなければならないのに、お昼の時間が少しだけ待ち遠しくなっている自分がいた。
十二時五分前。一階のロビーに降りると、すでに相果さんの姿があった。
待ち合わせの少し前に来て、無駄なく相手を迎える。営業部時代に叩き込まれた基本だが、それを昼休みの待ち合わせで自然にこなせる人は少ない。
「お待たせしました」
「いえ。行きましょうか」
並んで歩き出す。彼がごく自然に車道側へ回る手際。歩きながら、わたしは内心で小さな葛藤を抱えていた。
彼と恋人という関係になったことを、維木課長には報告しておくべきかもしれない。
だが、今の相果さんは、ただ穏やかで紳士的な男性だ。自分に異常な執着を向けてくるかもしれないと先回りしてして報告するのは、いくらなんでもわたしの自意識過剰(あるいは、被害妄想)みたいだ。悲劇のヒロインにでもなったみたいじゃないか?
……せめて、もう少し様子を見てからにしよう。
わたしは心の中で、報告を後回しにした。




