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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

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45/65

45.君を閉じ込めたくない

 (さが)() (とおる)は、高揚していた。

 形桐(かたぎり)さんが恋人になってくれたという事実が、未だに信じられなかった。浮き立つ気持ちは動揺にも似ていて、さっきから足元が覚束(おぼつか)ない。嬉しくて、どうにかなってしまいそうだ。


 同時に、恐ろしい。

 この安らぎを守るためなら、自分はなんだってするだろう。彼女の意思を踏みにじるような選択すら、己の心地よさを根拠に推し進めてしまうかもしれない。幸せ過ぎて、理性が焼き切れそうだ。


 エレベーターに乗り込む。隣で、形桐(かたぎり)さんがバッグの紐を握り直している。

 働き通したネイビーのスーツ姿は、いつもより肩の力が抜けているように見えた。そんな無防備な隙がたまらなく愛おしくて、つい見惚れてしまう。

 ふと、形桐(かたぎり)さんが顔を上げてこちらを見た。熱を帯びた視線に気づいても、彼女は目を逸らさない。きょとんと見つめ返してくる。

 この美しくて賢い女性(ひと)が自分を選んでくれた。その事実が、未だに信じられない。


 エレベーターが一階に着いた。ロビーを抜けて自動扉を潜ると、夜の冷気が流れ込む。


「……肌寒いですね」と、彼女が言った。


「ああ、明日はもっと冷え込むらしいですよ」


「へえ。ようやく秋っぽくなってきましたね」


「もうすぐ十二月なのにね」


 駅へと向かう大通りを避け、ホテルの裏手に続く小さな遊歩道へと足を踏み入れた。街灯が等間隔に落ちる石畳の道に、人影はない。


 ――彼女が帰ってしまう。


 そう思った瞬間、ぱたりと立ち止まってしまう。

 形桐(かたぎり)さんも隣に立ち止まって、こちらを見上げた。彼女と視線が合う、それだけで胸の奥が疼く。あの軽さを思い出す。ラウンジで彼女が手を握ってくれたとき、頭の中を支配していた鉛のような痛みが嘘のように軽くなった。揺り返しが怖いのに、何度でも欲しくなる、あの軽さ。


 言葉がぽろりと口をつく。


「……形桐(かたぎり)さん。確認、してもいい?」


 彼女に「確認ですか?」と問われて、(とおる)は自分の愚かさを呪った。いったい何の確認をしようっていうんだ? 慌てて言葉を探していると、形桐(かたぎり)さんは少しだけ迷う素振りを見せてから、そっと手を伸ばした。


 その腕が、(とおる)の首に回る。

 触れられた瞬間、痛みがすうっと軽くなった。

 一度軽くなってしまえば、もう痛みに耐えがたくなる。彼女の腕に引き寄せられるように、顔を近づけた。


 唇が触れる。思っていたより静かなキスだった。

 そっと離れて息をつく。


「……終わりですか、主任?」


 その強がりな挑発に、(たが)がひとつ外れる。彼女の腰を抱き寄せ、今度は深く唇を奪う。

 甘さを確かめる余裕はなかった。足元が浮くようだ。彼女の呼吸を奪うたび、水面に上がって息を吸えたように身体が軽くなる。理性、責任、倫理、明日の展望。それらが痛みと共に消えていく。

 それが、こんなに心地いい。


 彼女がシャツに縋りついてきたところで、少し理性が戻ってきた。

 ……やりすぎた。

 ゆっくりと、引き剝がすように彼女を離す。痛みがぶり返しそうで、目を開けるのが怖い。


(さが)()さん?」


 呼ばれて、やっと目を開ける。


「……すみません。加減を間違えました」


 彼女が小さく笑った。いたずらっぽい笑みだった。


「確認、これで当たってました?」


「……その。想像以上で、驚きました」


「ふふ。それはよかったです」


 形桐(かたぎり)さんの頬をそっと撫でる。ブラウスの襟に指先が触れた。そのまま引き寄せてしまいたい衝動をこらえて、手を離す。指を手のひらに押し込めるように拳を握る。


 遊歩道を抜け、駅の改札口が見えてきたところで、彼女は足を止めた。


「……では、また月曜日に」


「はい。また月曜日に」


 彼女の背中が見えなくなるまで見送ってから、(とおる)は小さく息を吐いた。


 月曜日。

 また、彼女が「おはよう」を言ってくれる。その未来が、嬉しい。


 ――でも、足りない。


 さっきの感触を思い出してしまう。触れた唇も、抱き寄せた身体も、何もかも柔らかくて、温かくて、心地よかった。思い出してしまえば、もっと欲しくなる。今度はどこまで求めてしまうのだろう。この熱を抑えきれるだろうか。


 彼女にずっと触れていたい。あんなに愛しい存在はいないから。それはもう否定しようがない。


 ――でも、満たされない。


 こめかみの奥に鈍い痛みが戻ってきていた。

 頭痛薬を飲んでも、少し眠っても、駄目だった。

 だが、彼女に触れたら、たったそれだけで痛みが軽くなるのだ。彼女の指先の感触を思い出すだけでも、少しばかり楽になる。


 おかしい。


 頭ではわかっている。これは健全な状態ではない。誰か一人に触れられただけで痛みが軽くなるなんて、まともではない。だが、まともかどうかと、効くかどうかは別だ。

 キスをしたら、あんなに楽になった。その先に行ったらどうなるのだろう――そこまで考えて、(とおる)は唇を噛んだ。


 やめろ。

 そういうふうに考えてはいけない。

 彼女は代替の効く存在ではない。ましてや、薬などでは断じてない。


 だが、帰宅してからも、その恐ろしい思考は消えなかった。

 彼女を愛しているから欲しくなるのか。それとも、彼女に触れないと痛みで壊れてしまいそうだから欲しているのか。自分でもわからなかった。


 自宅に帰って、ほとんど無自覚に電気を点ける。なんとなしにリビングへ向かい、目的もないままベランダへ出られる掃き出し窓の前に立つ。窓に反射する自室をぼんやりと眺めていた(とおる)は、やがてゆっくりと目を閉じた。


(知られたくない)


 自分の内側からじわじわと浸食してくる、正体のわからない巨大な欲望に震える。途方に暮れてしまって、力なく顔を覆った。


「君は、何も知らない……」


 あなたを閉じ込められたらいいのに。

 そう思い始めていることなんて、彼女は知らない。知られたくない。

 抵抗する思考の底から、記憶がせり上がってくる。


 家にある、()()()()()()()拘束具。

 ああ、あれはちょうど良いなと――そう思わなかったか。


 彼女の怯える顔を見たら、そこで正気に戻れるのかもしれない。だが、それでは遅すぎる。

 ふ、と顔を上げたそのとき、視界の端にありえないものが浮かんだ。


【依存度:……


 認識した途端に痛みが鋭くなり、涙で視界が滲む。今まで、見ないふりをしてきたありえない文字列。睡眠不足か、偏頭痛が見せる幻覚か。

 いや……。


 違う。

 いい加減、直視しなければ。


 そう決意するも、掃き出し窓のガラスに映った自分の目はひどく怯えていた。

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