45.君を閉じ込めたくない
相果 融は、高揚していた。
形桐さんが恋人になってくれたという事実が、未だに信じられなかった。浮き立つ気持ちは動揺にも似ていて、さっきから足元が覚束ない。嬉しくて、どうにかなってしまいそうだ。
同時に、恐ろしい。
この安らぎを守るためなら、自分はなんだってするだろう。彼女の意思を踏みにじるような選択すら、己の心地よさを根拠に推し進めてしまうかもしれない。幸せ過ぎて、理性が焼き切れそうだ。
エレベーターに乗り込む。隣で、形桐さんがバッグの紐を握り直している。
働き通したネイビーのスーツ姿は、いつもより肩の力が抜けているように見えた。そんな無防備な隙がたまらなく愛おしくて、つい見惚れてしまう。
ふと、形桐さんが顔を上げてこちらを見た。熱を帯びた視線に気づいても、彼女は目を逸らさない。きょとんと見つめ返してくる。
この美しくて賢い女性が自分を選んでくれた。その事実が、未だに信じられない。
エレベーターが一階に着いた。ロビーを抜けて自動扉を潜ると、夜の冷気が流れ込む。
「……肌寒いですね」と、彼女が言った。
「ああ、明日はもっと冷え込むらしいですよ」
「へえ。ようやく秋っぽくなってきましたね」
「もうすぐ十二月なのにね」
駅へと向かう大通りを避け、ホテルの裏手に続く小さな遊歩道へと足を踏み入れた。街灯が等間隔に落ちる石畳の道に、人影はない。
――彼女が帰ってしまう。
そう思った瞬間、ぱたりと立ち止まってしまう。
形桐さんも隣に立ち止まって、こちらを見上げた。彼女と視線が合う、それだけで胸の奥が疼く。あの軽さを思い出す。ラウンジで彼女が手を握ってくれたとき、頭の中を支配していた鉛のような痛みが嘘のように軽くなった。揺り返しが怖いのに、何度でも欲しくなる、あの軽さ。
言葉がぽろりと口をつく。
「……形桐さん。確認、してもいい?」
彼女に「確認ですか?」と問われて、融は自分の愚かさを呪った。いったい何の確認をしようっていうんだ? 慌てて言葉を探していると、形桐さんは少しだけ迷う素振りを見せてから、そっと手を伸ばした。
その腕が、融の首に回る。
触れられた瞬間、痛みがすうっと軽くなった。
一度軽くなってしまえば、もう痛みに耐えがたくなる。彼女の腕に引き寄せられるように、顔を近づけた。
唇が触れる。思っていたより静かなキスだった。
そっと離れて息をつく。
「……終わりですか、主任?」
その強がりな挑発に、箍がひとつ外れる。彼女の腰を抱き寄せ、今度は深く唇を奪う。
甘さを確かめる余裕はなかった。足元が浮くようだ。彼女の呼吸を奪うたび、水面に上がって息を吸えたように身体が軽くなる。理性、責任、倫理、明日の展望。それらが痛みと共に消えていく。
それが、こんなに心地いい。
彼女がシャツに縋りついてきたところで、少し理性が戻ってきた。
……やりすぎた。
ゆっくりと、引き剝がすように彼女を離す。痛みがぶり返しそうで、目を開けるのが怖い。
「相果さん?」
呼ばれて、やっと目を開ける。
「……すみません。加減を間違えました」
彼女が小さく笑った。いたずらっぽい笑みだった。
「確認、これで当たってました?」
「……その。想像以上で、驚きました」
「ふふ。それはよかったです」
形桐さんの頬をそっと撫でる。ブラウスの襟に指先が触れた。そのまま引き寄せてしまいたい衝動をこらえて、手を離す。指を手のひらに押し込めるように拳を握る。
遊歩道を抜け、駅の改札口が見えてきたところで、彼女は足を止めた。
「……では、また月曜日に」
「はい。また月曜日に」
彼女の背中が見えなくなるまで見送ってから、融は小さく息を吐いた。
月曜日。
また、彼女が「おはよう」を言ってくれる。その未来が、嬉しい。
――でも、足りない。
さっきの感触を思い出してしまう。触れた唇も、抱き寄せた身体も、何もかも柔らかくて、温かくて、心地よかった。思い出してしまえば、もっと欲しくなる。今度はどこまで求めてしまうのだろう。この熱を抑えきれるだろうか。
彼女にずっと触れていたい。あんなに愛しい存在はいないから。それはもう否定しようがない。
――でも、満たされない。
こめかみの奥に鈍い痛みが戻ってきていた。
頭痛薬を飲んでも、少し眠っても、駄目だった。
だが、彼女に触れたら、たったそれだけで痛みが軽くなるのだ。彼女の指先の感触を思い出すだけでも、少しばかり楽になる。
おかしい。
頭ではわかっている。これは健全な状態ではない。誰か一人に触れられただけで痛みが軽くなるなんて、まともではない。だが、まともかどうかと、効くかどうかは別だ。
キスをしたら、あんなに楽になった。その先に行ったらどうなるのだろう――そこまで考えて、融は唇を噛んだ。
やめろ。
そういうふうに考えてはいけない。
彼女は代替の効く存在ではない。ましてや、薬などでは断じてない。
だが、帰宅してからも、その恐ろしい思考は消えなかった。
彼女を愛しているから欲しくなるのか。それとも、彼女に触れないと痛みで壊れてしまいそうだから欲しているのか。自分でもわからなかった。
自宅に帰って、ほとんど無自覚に電気を点ける。なんとなしにリビングへ向かい、目的もないままベランダへ出られる掃き出し窓の前に立つ。窓に反射する自室をぼんやりと眺めていた融は、やがてゆっくりと目を閉じた。
(知られたくない)
自分の内側からじわじわと浸食してくる、正体のわからない巨大な欲望に震える。途方に暮れてしまって、力なく顔を覆った。
「君は、何も知らない……」
あなたを閉じ込められたらいいのに。
そう思い始めていることなんて、彼女は知らない。知られたくない。
抵抗する思考の底から、記憶がせり上がってくる。
家にある、身に覚えのない拘束具。
ああ、あれはちょうど良いなと――そう思わなかったか。
彼女の怯える顔を見たら、そこで正気に戻れるのかもしれない。だが、それでは遅すぎる。
ふ、と顔を上げたそのとき、視界の端にありえないものが浮かんだ。
【依存度:……
認識した途端に痛みが鋭くなり、涙で視界が滲む。今まで、見ないふりをしてきたありえない文字列。睡眠不足か、偏頭痛が見せる幻覚か。
いや……。
違う。
いい加減、直視しなければ。
そう決意するも、掃き出し窓のガラスに映った自分の目はひどく怯えていた。




