44.毒を以て毒を制す
相果主任からの返信は遅かったが、断られなかった。
彼が提案してきたのは、駅前のシティホテルに入ったダイニングラウンジだった。照明は落ち着いているが、暗すぎない。クラシカルな内装で、テーブルは夫婦や家族連れ、仕事帰りらしい男女でほどよく埋まっている。静かだが、テーブルの間は十分に空いていて、話の内容を気にしなくてもよさそうだった。オープンキッチンがあり、給仕の動きもよく見える。
個室ではない。
その事実にまず安堵した。
相果主任は、わたしが向かいに座るのを待ってから腰を下ろし、静かにメニューを開いた。
「飲み物は……、形桐さん? どうかされましたか」
「いえ。あの、少し意外で」
「意外?」
「もっと、プライベートな場所を選ばれるかと思っていました」
冗談めかしたつもりだったが、相果主任は否定せず、小さく笑った。こちらの緊張を面白がるような、余裕のある微笑みだった。
「最初からそんな下手は打ちませんよ」
最初でなかったら、そうした可能性があるということか。
テーブルの下で、拳をきつく握る。
何をどこまで言うかは、まだ決めていない。とにかく、何かを動かしたかった。彼が壊れる前に、こちらに少しでも主導権を引き寄せる形で何かを変えたかった。
だが、何をどう言うべきか。
最適解が見つからないまま、運ばれてきたコース料理に手をつける。
前菜からメインの肉料理に至るまで、わたしたちは穏やかに談笑を楽しんだ。社内の他愛のない人間模様から始まって、業務の進捗、それから休日の予定。相果主任は完璧なタイミングで相槌を打ち、こちらのグラスが空く前に、さりげなく次の飲み物を促してくる。
気配りを欠かさない、完璧なエスコート。だが、そのやりやすさが、今はただ恐ろしい。こんなにも普通の、社会人同士の和やかな食事なのに。その皮の下ではあの異常な執着が静かに脈打っているというのが、未だに信じられない。
わたしもまた、声のトーンを一定に保ち、愛想のいい笑みを貼り付けて相手の出方を窺い続けた。味はほとんどわからなかった。
やがてメインの皿が下げられ、繊細に飾り付けられたガトーショコラが運ばれてきた。
給仕が立ち去り、甘い香りがテーブルに漂う。コースの終わり。一息ついたような空白が落ちる。
――ここだ。
わたしはカクテルグラスを静かに置いた。
「今日は、改まってお話があったんです。……相果さん」
あえて役職を外す。彼の指先が、ぴたりと止まった。
「話、ですか」
「はい」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
「……ずっと、考えていたんです。あの夜のこと。怒ってくれたこと。わたしの仕事を、価値を、認めてくれたこと」
嘘ではない。
たしかに、彼の身勝手なやりように腹は立った。混乱もした。
だが、救われたのも事実だった。
その事実を、今ここで差し出す。
「わたし、ずっと強がって生きてきたんです。男の人に負けたくなくて。……でも、本当は、限界だったのかもしれません」
わたしはそこで目を伏せた。それから意を決して、彼の手にそっと触れる。ひどく冷えていて、金属の塊みたいだった。
わたしの体温に、相果主任が――相果さんが、息を呑むのがわかった。
その手の冷たさと、あまりにも人間めいた反応に、柄にもなく動揺してしまう。
そうだ。彼は人間だ。
こんな簡単な事実に今さら茫然とする。
乱れかける言葉を必死に立て直して、わたしは続けた。
「あなたが……怒ってくれたとき、正直いうと……うれしかったんです」
これも事実。認めたくないけど、本当だった。ああ、でもここまで言うつもりじゃなかったのに。自分の限界に触れるたび、自分が情けなくなる。一方で、弱音を差し出すたび、張っていた力が抜けるようでもあった。苦しいのか楽なのかわからない、奇妙な感覚だった。
「人生の……わたしの人生の責任は、わたしだけが背負うべきなんだと思っていました。だから、自分で引き受けるしかないって。そうやって、ずっとやってきたんです。……でも、あなたは違いました」
心がざわざわして落ち着かない。わたしは何を言おうとしているんだろう。
まだ何も言わない彼の手のひらを、ほんの少し力を込めて握る。
「……悔しかった。でも、それ以上にうれしかった」
うれしかった。この世界で、彼ほどわたしを正確に見て、わたしの価値を信じている人間はいなかった。
もう彼を、ただの危険人物として切り分けられない。
わたしは小さく息を吸って、彼の目をまっすぐに見た。相果さんはほとんど表情をなくしていたが、視線を逸らそうとはしなかった。
胸の奥が一気に熱くなる。
まずい、と思った。攻略の手応えではない。打算で片付けられる熱でもない。
……ああ、つまり、わたしは。
「あなたが好きです、相果さん」
言葉にした瞬間、周囲の音も、匂いも、景色さえも、何もかもが遠のいた気がした。
「……本気ですか」
静かな声だった。視線も逸らさない。表情は変わらなかったが、抑え込もうとしたらしい呼吸が浅い。
「はい。あなたほど、わたしを理解してくれる人はいないと思ったから」
これも本当だ。ただ、なぜそうなったのか依然としてわからないのが怖い。
それでも、わたしは彼の手を離さなかった。
受け入れる。未来に訪れるであろうあの執着に、先んじて踏み込む。そうすれば、彼はわたしを無理やり攫うことはできないはずだ。
長い沈黙の後、相果さんは深く息を吐いた。
「……参ったな」
微笑んだその顔は、安堵したようでもあり、ひどく消耗しているようでもあった。熱病に浮かされたような、無防備で甘い笑みだった。
「僕は、たぶん最近、ずっと変だったんです。楽になる瞬間があるんだ。……君が近くにいると」
軽く笑ってごまかすような言い方だった。その笑みの奥にあるものを、わたしはもう見誤れない。
相果さんが顔を上げる。視線が、まっすぐわたしに重なる。
「形桐さん」
名前を呼ばれただけで、胸がひどく高鳴る。相果さんが手を重ねた。さっきまでひどく冷えていたのに、今はわずかに温かい。その熱が鎖骨のあたりまでじわりと広がったような気がして、思わず息を詰める。
「どうか、僕の恋人になってくれませんか」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。不安を押し隠しきれていない声に、わたしは小さく目を見開く。
もっと甘い言い方をされると思っていた。もしくは、過剰なほど余裕のない素振りで、わかりやすい執着を見せるのだろうと。ゲームだったら、きっとそうする。
だが、違った。
相果さんは、怯えていた。
〈攻略対象〉なんかじゃない。危険で、異常で、そのくせひどく必死で、不安そうだった。
もう疑いようがない。彼は生身の人間だった。
わたしはすぐに頷きそうになる自分を、ぎりぎりで押しとどめた。少し笑ってみせる。
「わたし、仕事人間ですし。可愛げもないし。貴方が思っているより、ずっと面倒くさい女ですよ」
声が少しかすれる。
「……それでも、いいんですか」
「もちろん」
即答だった。迷いがない。それが救いのようでいて、やはりどこか怖い。
わたしは小さく頷いた。
「……よろしくお願いします」
相果さんは、わたしの手を見つめていた。
監禁エンドはひとまず遠のいたはずだ。その代わりに、わたしはもっと厄介な名目をこの男に渡してしまった。
恋人。
これから相果さんは、どこまでわたしの時間に入ってくるのだろう。




