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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

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44.毒を以て毒を制す

 (さが)()主任からの返信は遅かったが、断られなかった。


 彼が提案してきたのは、駅前のシティホテルに入ったダイニングラウンジだった。照明は落ち着いているが、暗すぎない。クラシカルな内装で、テーブルは夫婦や家族連れ、仕事帰りらしい男女でほどよく埋まっている。静かだが、テーブルの間は十分に空いていて、話の内容を気にしなくてもよさそうだった。オープンキッチンがあり、給仕の動きもよく見える。


 個室ではない。

 その事実にまず安堵した。


 (さが)()主任は、わたしが向かいに座るのを待ってから腰を下ろし、静かにメニューを開いた。


「飲み物は……、形桐(かたぎり)さん? どうかされましたか」


「いえ。あの、少し意外で」


「意外?」


「もっと、プライベートな場所を選ばれるかと思っていました」


 冗談めかしたつもりだったが、(さが)()主任は否定せず、小さく笑った。こちらの緊張を面白がるような、余裕のある微笑みだった。


「最初からそんな下手(へた)は打ちませんよ」


 最初でなかったら、そうした可能性があるということか。

 テーブルの下で、拳をきつく握る。


 何をどこまで言うかは、まだ決めていない。とにかく、何かを動かしたかった。彼が壊れる前に、こちらに少しでも主導権を引き寄せる形で何かを変えたかった。

 だが、何をどう言うべきか。


 最適解が見つからないまま、運ばれてきたコース料理に手をつける。

 前菜からメインの肉料理に至るまで、わたしたちは穏やかに談笑を楽しんだ。社内の他愛のない人間模様から始まって、業務の進捗、それから休日の予定。(さが)()主任は完璧なタイミングで相槌を打ち、こちらのグラスが空く前に、さりげなく次の飲み物を促してくる。


 気配りを欠かさない、完璧なエスコート。だが、その()()()()()が、今はただ恐ろしい。こんなにも普通の、社会人同士の和やかな食事なのに。その皮の下ではあの異常な執着が静かに脈打っているというのが、未だに信じられない。


 わたしもまた、声のトーンを一定に保ち、愛想のいい笑みを貼り付けて相手の出方を窺い続けた。味はほとんどわからなかった。


 やがてメインの皿が下げられ、繊細に飾り付けられたガトーショコラが運ばれてきた。

 給仕が立ち去り、甘い香りがテーブルに漂う。コースの終わり。一息ついたような空白が落ちる。


 ――ここだ。


 わたしはカクテルグラスを静かに置いた。


「今日は、改まってお話があったんです。……(さが)()()()


 あえて役職を外す。彼の指先が、ぴたりと止まった。


「話、ですか」


「はい」


 声が震えないようにするだけで精一杯だった。


「……ずっと、考えていたんです。あの夜のこと。怒ってくれたこと。わたしの仕事を、価値を、認めてくれたこと」


 嘘ではない。

 たしかに、彼の身勝手なやりように腹は立った。混乱もした。

 だが、救われたのも事実だった。

 その事実を、今ここで差し出す。


「わたし、ずっと強がって生きてきたんです。男の人に負けたくなくて。……でも、本当は、限界だったのかもしれません」


 わたしはそこで目を伏せた。それから意を決して、彼の手にそっと触れる。ひどく冷えていて、金属の塊みたいだった。

 わたしの体温に、(さが)()主任が――(さが)()さんが、息を呑むのがわかった。

 その手の冷たさと、あまりにも人間めいた反応に、柄にもなく動揺してしまう。


 そうだ。彼は人間だ。

 こんな簡単な事実に今さら茫然(ぼうぜん)とする。

 乱れかける言葉を必死に立て直して、わたしは続けた。


「あなたが……怒ってくれたとき、正直いうと……うれしかったんです」


 これも事実。認めたくないけど、本当だった。ああ、でもここまで言うつもりじゃなかったのに。自分の限界に触れるたび、自分が情けなくなる。一方で、弱音を差し出すたび、張っていた力が抜けるようでもあった。苦しいのか楽なのかわからない、奇妙な感覚だった。


「人生の……わたしの人生の責任は、わたしだけが背負うべきなんだと思っていました。だから、自分で引き受けるしかないって。そうやって、ずっとやってきたんです。……でも、あなたは違いました」


 心がざわざわして落ち着かない。わたしは何を言おうとしているんだろう。

 まだ何も言わない彼の手のひらを、ほんの少し力を込めて握る。


「……悔しかった。でも、それ以上にうれしかった」


 うれしかった。この世界で、彼ほどわたしを正確に見て、わたしの価値を信じている人間はいなかった。

 もう彼を、ただの危険人物として切り分けられない。

 わたしは小さく息を吸って、彼の目をまっすぐに見た。(さが)()さんはほとんど表情をなくしていたが、視線を逸らそうとはしなかった。


 胸の奥が一気に熱くなる。

 まずい、と思った。()()の手応えではない。打算で片付けられる熱でもない。


 ……ああ、つまり、わたしは。


「あなたが好きです、(さが)()さん」


 言葉にした瞬間、周囲の音も、匂いも、景色さえも、何もかもが遠のいた気がした。


「……本気ですか」


 静かな声だった。視線も逸らさない。表情は変わらなかったが、抑え込もうとしたらしい呼吸が浅い。


「はい。あなたほど、わたしを理解してくれる人はいないと思ったから」


 これも本当だ。ただ、なぜそうなったのか依然としてわからないのが怖い。


 それでも、わたしは彼の手を離さなかった。

 受け入れる。未来に訪れるであろうあの執着に、先んじて踏み込む。そうすれば、彼はわたしを無理やり攫うことはできないはずだ。

 長い沈黙の後、(さが)()さんは深く息を吐いた。


「……参ったな」


 微笑んだその顔は、安堵したようでもあり、ひどく消耗しているようでもあった。熱病に浮かされたような、無防備で甘い笑みだった。


「僕は、たぶん最近、ずっと変だったんです。楽になる瞬間があるんだ。……君が近くにいると」


 軽く笑ってごまかすような言い方だった。その笑みの奥にあるものを、わたしはもう見誤れない。

 (さが)()さんが顔を上げる。視線が、まっすぐわたしに重なる。


形桐(かたぎり)さん」


 名前を呼ばれただけで、胸がひどく高鳴る。さがさんが手を重ねた。さっきまでひどく冷えていたのに、今はわずかに温かい。その熱が鎖骨のあたりまでじわりと広がったような気がして、思わず息を詰める。


「どうか、僕の恋人になってくれませんか」


 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。不安を押し隠しきれていない声に、わたしは小さく目を見開く。

 もっと甘い言い方をされると思っていた。もしくは、過剰なほど余裕のない素振りで、わかりやすい執着を見せるのだろうと。ゲームだったら、きっとそうする。


 だが、違った。

 (さが)()さんは、怯えていた。


 〈攻略対象(キャラクター)〉なんかじゃない。危険で、異常で、そのくせひどく必死で、不安そうだった。

 もう疑いようがない。彼は生身の人間だった。


 わたしはすぐに頷きそうになる自分を、ぎりぎりで押しとどめた。少し笑ってみせる。


「わたし、仕事人間ですし。可愛げもないし。貴方が思っているより、ずっと面倒くさい女ですよ」


 声が少しかすれる。


「……それでも、いいんですか」


「もちろん」


 即答だった。迷いがない。それが救いのようでいて、やはりどこか怖い。

 わたしは小さく頷いた。


「……よろしくお願いします」


 (さが)()さんは、わたしの手を見つめていた。


 監禁エンドはひとまず遠のいたはずだ。その代わりに、わたしはもっと厄介な名目をこの男に渡してしまった。

 恋人。

 これから(さが)()さんは、どこまでわたしの時間に入ってくるのだろう。

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