43.もう一つの防波堤
光胡さんに相談してから、変化はすぐに現れた。
商品開発部から宣伝部へ上がってくるレポートラインは統一された。それ自体は理想的だった。ようやく自分の仕事が戻ってきた感覚があった。
だが、胸騒ぎは消えない。うまく言えないが、解決した気がしないのだ。
午後の打ち合わせを終えて、わたしは給湯室へ向かった。その途中、廊下の先に相果主任の背中が見えた。
ふいに、彼が壁に手をつく。その動きは、明らかに不自然だった。
「主任?」
呼びかけると、相果主任はすぐに壁から手を離した。何事もなかったかのように背筋を伸ばし、こちらを振り返る。
「……形桐さん。どうしました?」
「その、具合が悪そうに見えたので」
「いえ。大丈夫ですよ」
即答だった。だが、声は少し掠れているし、呼吸は浅く乱れており、その顔からは明らかに血の気が引いていた。そんな状態で大丈夫だと言われても、ちっとも説得力がない。
「……ちょっと、失礼しますね」
わたしは手を伸ばして、そっと彼の手を取った。
「え……」
彼が何かを言う前に、手首に指をあててみる。脈など測ったところで何かわかるわけじゃないが、これが同僚として触れられるギリギリのラインだ。額や胸に触れる勇気はなかった。
相果主任が深く息を吐き出す。
呼吸が、目に見えて変わった。浅く乱れていた息はゆっくりと落ち着きを取り戻す。
「……相果主任?」
呼ぶと、彼は自分の手首に触れているわたしの指を見下ろした。
「少し」と、低い声が落ちる。「楽になりました」
「そ、そうですか」
そう言って、わたしはそっと指先を離した。
瞬間、相果主任の眉間が、ほんの少しだけ寄る。痛みがぶり返しているのだろう。――わたしが手を離した瞬間に。
露骨な変化の数々が頭の中で繋がり、嫌な整合性を持ち始める。
――この人、わたしに触れたら、痛みが和らぐの?
まさか。そんなことあるはずがない。だから、気のせいだ。そう思いたかった。
「……本当に、病院に行ったほうがいいんじゃないですか?」
ようやく言葉を絞り出すと、相果主任はゆっくりと微笑んだ。だが、その〈顔〉に戻るまでのわずかな間を、わたしは見てしまった。
彼は、いつもの穏やかな表情で口を開いた。
「そうですね。考えておきます」
考える気がない人の返事だ。彼が病院に行くことはないだろう。
そのまま立ち去った相果主任の背中を見送りながら、わたしはそこから動けなかった。
今のは、何だったんだろう。
気味が悪い。だが、あの顔に血の気が戻ったことに安堵してしまった自分がいて、余計に困る。
防波堤は立てた。それでも水位は下がらない。足首のあたりまで、静かに満ちてきている。
午後の業務が一段落ついたころ、わたしは席を立った。向かう先を決めるまでに、思ったより時間がかかった。
光胡さんにはもう話してある。だから、大事にする必要はないかもしれない。だが、さっき廊下で見た相果主任のようすが、どうしても頭から離れなかった。
業務の距離感が妙なのは事実だ。だが、それ以上に、相果主任は明らかに無理をしていた。本人が大丈夫だと言ったから、で済ませていい問題ではない気がした。
わたしは、わたしにしては珍しいくらい最後まで迷いながら、維木課長のデスクの前で足を止めた。
「課長、少しお時間よろしいでしょうか」
「何だ」
維木課長はモニタから目を離さない。
「その……できれば、内々でお話がしたいのですが」
その一言で、維木課長は何かを察したようだった。表情こそ変わらないが、黒縁眼鏡の奥にある視線が鋭くなる。
彼は無言のまま立ち上がり、会議室のあるほうへと歩き出した。廊下の端にある小会議室の扉を開け、そのまま先に入る。
わたしも後に続き、小会議室の扉を閉めた。
維木課長は腕を組んで立ったまま、言った。
「話せ」
「ご相談があります。……部署は違うのですが、相果主任のことで」
名前を出した瞬間、維木課長が小さく息を吐いた。なぜか、こちらの想定より重く受け取られたようだった。彼が椅子を引いて座ったので、わたしもそれに倣った。
「内容は?」
「最近、主任の様子が少しおかしい気がしていて」
曖昧な切り出し方だと思う。だが、何をどう言えばいいのか、自分でもよくわからなかった。
「業務で気になることは、あるにはあるんですが……」
維木課長が無言で肯く。やはり、そこまでは光胡さんから共有を受けているらしい。
「それとは別の件か?」
「はい。今日は体調面がかなり悪そうで。廊下で見かけたんですが、顔色が悪そうで。ご本人は大丈夫だとおっしゃっていましたけど、ちょっと、そうは見えませんでした」
維木課長は黙っている。急かしはしないが、曖昧なままで済ませることも許さない沈黙だった。
「それだけか」
試すような問いだった。わたしは肯いてから、付け足した。
「はい。業務のことなら、問題はないんです。光胡さんに相談した時点で、課長も動いてくださいましたし、それで充分でした。
でも、今日の様子を見て、このまま個人の問題として扱っていいのか、自信がなくなってしまって。……心配になってしまって」
言いながら、言葉の弱さにうんざりする。告発でも、被害の申告でもない。ただの心配。要領を得ないと切り捨てられても仕方ないのに、維木課長はそうしなかった。ただ、「そうか」とだけ言って、少し考え込む。
「確かに、最近の相果は無理をしている節がある。向こうの課長や部長に伝えておいてもいいだろう」
それは初耳だった。だが、思い返せば社外でばったり会うときも、彼はいつもスーツ姿だった。残業続きなのだろうと思っていたが、繁忙期にはまだ早い。
「……お前は、何かされたのか」
維木課長は視線を長テーブルに落としながら、ぽつりと聞いた。わたしと目を合わせようとしない。感情のない声色に、緊張めいた強張りが混ざっていた。
「いえ。むしろ、助けられてばかりで」
それは本当だった。少なくとも、今の時点では。
維木課長は、しばらく何も言わなかった。その沈黙が長く感じられて、わたしはテーブルの下で指先を握り込める。
やがて、彼は短く息を吐いた。
「わかった。今後、相果とのやり取りで気になることがあれば、まずこちらへ上げろ。一人で抱えるな」
「わかりました」
「それから、相果の前では、無理に平気な顔をするな」
わたしは顔を伏せた。
「……すみません」
「謝罪はいらない。報告だけしろ。相談は受けるが、あまり期待するな」
命令だった。慰めようという感情はまったく伝わってこなかったが、その冷淡さが今はありがたい。
「今日はもう帰れ。必要ならこちらで理由はつける」
「いえ、そこまでは……」
「いちいち真に受けるな。部下の早退理由まで、わざわざ共有しない」
その率直すぎる口調に、わたしは小さく笑った。
「……ありがとうございます」
維木課長は答えなかった。ただ、小会議室を出る前に、振り返らないまま言った。
「形桐。心配するのは勝手だが、お前まで巻き込まれる必要はないぞ」
「……。はい」
その一言は思っていたより深く胸に残った。
防波堤はもう一枚増えた。だが、安心はできなかった。
社内ではいくらでも線が引ける。だが、相果主任の異常は、業務の線引きだけで止まる種類のものではない気がした。線の内だの外だのという次元ではない。もう静かに侵食を始めているのだ。おそらく、本人も意図しない形で。
光胡さんも、維木課長も、言えば守ってくれる。
だが、守ることと止めることは違う。
だったら、わたしがやるしかないのかもしれない。
その夜、わたしは相果主任にメールを送ることにした。携帯を何度も開いては閉じた。何度か書き直した末にようやく送れた文面は、自分でも呆れるくらいにありふれた誘い文句になった。
『金曜日の夜、もしお時間がありましたら、夕食でもいかがですか?』
送信してからもしばらくは、画面を消すことができなかった。




