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デフォルトネームの恋人  作者: 遠野 文弓
第3章:FALL

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43.もう一つの防波堤

 (みつ)()さんに相談してから、変化はすぐに現れた。

 商品開発部から宣伝部へ上がってくるレポートラインは統一された。それ自体は理想的だった。ようやく自分の仕事が戻ってきた感覚があった。


 だが、胸騒ぎは消えない。うまく言えないが、解決した気がしないのだ。


 午後の打ち合わせを終えて、わたしは給湯室へ向かった。その途中、廊下の先に(さが)()主任の背中が見えた。

 ふいに、彼が壁に手をつく。その動きは、明らかに不自然だった。


「主任?」


 呼びかけると、(さが)()主任はすぐに壁から手を離した。何事もなかったかのように背筋を伸ばし、こちらを振り返る。


「……形桐(かたぎり)さん。どうしました?」


「その、具合が悪そうに見えたので」


「いえ。大丈夫ですよ」


 即答だった。だが、声は少し掠れているし、呼吸は浅く乱れており、その顔からは明らかに血の気が引いていた。そんな状態で大丈夫だと言われても、ちっとも説得力がない。


「……ちょっと、失礼しますね」


 わたしは手を伸ばして、そっと彼の手を取った。


「え……」


 彼が何かを言う前に、手首に指をあててみる。脈など測ったところで何かわかるわけじゃないが、これが同僚として触れられるギリギリのラインだ。(ひたい)や胸に触れる勇気はなかった。


 (さが)()主任が深く息を吐き出す。

 呼吸が、目に見えて変わった。浅く乱れていた息はゆっくりと落ち着きを取り戻す。


「……(さが)()主任?」


 呼ぶと、彼は自分の手首に触れているわたしの指を見下ろした。


「少し」と、低い声が落ちる。「楽になりました」


「そ、そうですか」


 そう言って、わたしはそっと指先を離した。

 瞬間、(さが)()主任の眉間が、ほんの少しだけ寄る。痛みがぶり返しているのだろう。――わたしが手を離した瞬間に。

 露骨な変化の数々が頭の中で繋がり、嫌な整合性を持ち始める。


 ――この人、わたしに触れたら、痛みが和らぐの?


 まさか。そんなことあるはずがない。だから、気のせいだ。そう思いたかった。


「……本当に、病院に行ったほうがいいんじゃないですか?」


 ようやく言葉を絞り出すと、(さが)()主任はゆっくりと微笑んだ。だが、その〈顔〉に戻るまでのわずかな間を、わたしは見てしまった。

 彼は、いつもの穏やかな表情で口を開いた。


「そうですね。考えておきます」


 考える気がない人の返事だ。彼が病院に行くことはないだろう。

 そのまま立ち去った(さが)()主任の背中を見送りながら、わたしはそこから動けなかった。


 今のは、何だったんだろう。

 気味が悪い。だが、あの顔に血の気が戻ったことに安堵してしまった自分がいて、余計に困る。


 防波堤は立てた。それでも水位は下がらない。足首のあたりまで、静かに満ちてきている。




 午後の業務が一段落ついたころ、わたしは席を立った。向かう先を決めるまでに、思ったより時間がかかった。

 (みつ)()さんにはもう話してある。だから、大事にする必要はないかもしれない。だが、さっき廊下で見た(さが)()主任のようすが、どうしても頭から離れなかった。

 業務の距離感が妙なのは事実だ。だが、それ以上に、(さが)()主任は明らかに無理をしていた。本人が大丈夫だと言ったから、で済ませていい問題ではない気がした。


 わたしは、わたしにしては珍しいくらい最後まで迷いながら、(つな)()課長のデスクの前で足を止めた。


「課長、少しお時間よろしいでしょうか」


「何だ」


 (つな)()課長はモニタから目を離さない。


「その……できれば、内々でお話がしたいのですが」


 その一言で、(つな)()課長は何かを察したようだった。表情こそ変わらないが、黒縁眼鏡の奥にある視線が鋭くなる。

 彼は無言のまま立ち上がり、会議室のあるほうへと歩き出した。廊下の端にある小会議室の扉を開け、そのまま先に入る。

 わたしも後に続き、小会議室の扉を閉めた。


 (つな)()課長は腕を組んで立ったまま、言った。


「話せ」


「ご相談があります。……部署は違うのですが、(さが)()主任のことで」


 名前を出した瞬間、(つな)()課長が小さく息を吐いた。なぜか、こちらの想定より重く受け取られたようだった。彼が椅子を引いて座ったので、わたしもそれに倣った。


「内容は?」


「最近、主任の様子が少しおかしい気がしていて」


 曖昧な切り出し方だと思う。だが、何をどう言えばいいのか、自分でもよくわからなかった。


「業務で気になることは、あるにはあるんですが……」


 (つな)()課長が無言で(うなず)く。やはり、そこまでは(みつ)()さんから共有を受けているらしい。


「それとは別の件か?」


「はい。今日は体調面がかなり悪そうで。廊下で見かけたんですが、顔色が悪そうで。ご本人は大丈夫だとおっしゃっていましたけど、ちょっと、そうは見えませんでした」


 (つな)()課長は黙っている。急かしはしないが、曖昧なままで済ませることも許さない沈黙だった。


「それだけか」


 試すような問いだった。わたしは(うなず)いてから、付け足した。


「はい。業務のことなら、問題はないんです。(みつ)()さんに相談した時点で、課長も動いてくださいましたし、それで充分でした。

 でも、今日の様子を見て、このまま個人の問題として扱っていいのか、自信がなくなってしまって。……心配になってしまって」


 言いながら、言葉の弱さにうんざりする。告発でも、被害の申告でもない。ただの心配。要領を得ないと切り捨てられても仕方ないのに、(つな)()課長はそうしなかった。ただ、「そうか」とだけ言って、少し考え込む。


「確かに、最近の(さが)()は無理をしている節がある。向こうの課長や部長に伝えておいてもいいだろう」


 それは初耳だった。だが、思い返せば社外でばったり会うときも、彼はいつもスーツ姿だった。残業続きなのだろうと思っていたが、繁忙期にはまだ早い。


「……お前は、何かされたのか」


 (つな)()課長は視線を長テーブルに落としながら、ぽつりと聞いた。わたしと目を合わせようとしない。感情のない声色に、緊張めいた強張りが混ざっていた。


「いえ。むしろ、助けられてばかりで」


 それは本当だった。少なくとも、今の時点では。

 (つな)()課長は、しばらく何も言わなかった。その沈黙が長く感じられて、わたしはテーブルの下で指先を握り込める。

 やがて、彼は短く息を吐いた。


「わかった。今後、(さが)()とのやり取りで気になることがあれば、まずこちらへ上げろ。一人で抱えるな」


「わかりました」


「それから、(さが)()の前では、無理に平気な顔をするな」


 わたしは顔を伏せた。


「……すみません」


「謝罪はいらない。報告だけしろ。相談は受けるが、あまり期待するな」


 命令だった。慰めようという感情はまったく伝わってこなかったが、その冷淡さが今はありがたい。


「今日はもう帰れ。必要ならこちらで理由はつける」


「いえ、そこまでは……」


「いちいち真に受けるな。部下の早退理由まで、わざわざ共有しない」


 その率直すぎる口調に、わたしは小さく笑った。


「……ありがとうございます」


 (つな)()課長は答えなかった。ただ、小会議室を出る前に、振り返らないまま言った。


形桐(かたぎり)。心配するのは勝手だが、お前まで巻き込まれる必要はないぞ」


「……。はい」


 その一言は思っていたより深く胸に残った。


 防波堤はもう一枚増えた。だが、安心はできなかった。

 社内ではいくらでも線が引ける。だが、(さが)()主任の異常は、業務の線引きだけで止まる種類のものではない気がした。線の内だの外だのという次元ではない。もう静かに侵食を始めているのだ。おそらく、本人も意図しない形で。


 (みつ)()さんも、(つな)()課長も、言えば守ってくれる。

 だが、守ることと止めることは違う。


 だったら、わたしがやるしかないのかもしれない。




 その夜、わたしは(さが)()主任にメールを送ることにした。携帯を何度も開いては閉じた。何度か書き直した末にようやく送れた文面は、自分でも呆れるくらいにありふれた誘い文句になった。


『金曜日の夜、もしお時間がありましたら、夕食でもいかがですか?』


 送信してからもしばらくは、画面を消すことができなかった。

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