42.相談は戦術である
これまで相果主任の違和感は、まだ仕事の延長だと言い張ることができた。先回りして揃えられる資料も、選び抜かれた飲み物やお菓子も、やりすぎな気遣いだと思えなくもなかった。ハロウィンの一件だって、妙な独り言として胸に引っかかっただけだ。
だが、それだけでは済まなくなってきた。
退勤後、妙に遭遇するようになったのだ。
火曜日に、駅ビルの書店で会った。
文庫の平台の前で顔を上げたら、向こうで相果主任が生活情報雑誌を立ち読みしていた。
わたしはほとんど反射で話しかけていた。すっかりサラリーマンの思考回路が焼き付いているわたしに、他部署とはいえ上司を見つけて声をかけないという選択肢はない。
「お疲れさまです、相果主任!」
「ああ、形桐さん。お疲れさまです」
それだけだった。彼は小さく笑って、また手元の雑誌に視線を落とした。わたしがにこやかに会釈し、彼の後ろを通り過ぎても、こちらを振り返りもしない。
当たり前だ。だって、偶然出会っただけなのだから。
つぎの偶然は、木曜日だった。駅前のドラッグストアで入浴剤の棚の前に立っていると、横から静かな声がした。
「形桐さん?」
振り返ると、相果主任がカゴを提げて立っていた。カゴには頭痛薬とペットボトルの水が入っている。残業帰りらしく、相変わらずのスーツ姿だ。
いきなり話しかけられたわたしは驚いてしまって、うっかり口を滑らせた。
「あ! また主任ですか?」
「ええ。また、ですね」
困ったように言われて、わたしは口をつぐんだ。また、なんて責めるほどの根拠はない。彼はただ、偶然この場にいるだけなのに。だが、二度も似たような遭遇が重なると、話が違ってくる。
「ええと……この辺り、よくいらっしゃるんですか?」
「ええ。店がまとまっているので」
嘘をついているようには見えない。
この人はたぶん、本当に待ち伏せしているつもりがないのだ。生活に必要な導線をなぞった結果、偶然わたしがいただけだと本気で思っていそうだった。
しかも彼は、そこで不自然につきまとってくるわけでもない。ただ、「では、お疲れさまです」と一言残して、彼は立ち去った。「送ります」とも、「せっかくだからどこかで」とも言わなかった。
尾けられているわけではない。待ち伏せされているわけでもない。
奇遇。
そうなのだろう。書店もドラッグストアも、誰もが普通に寄る場所だ。何もおかしいことはない。ただ、生活圏に、ひっそりと、ごく自然に彼が入り込んできている。
先回りして揃えられる資料。退勤後の偶然。それが同じ人物に集中しているという、言いようのない不気味さ。
(このまま放置しちゃダメだ)
言葉にできたのは、そんな頼りない決意だけだった。だから、何をどうやって解決していいのかもわからない。相談するにも、「困っている」というほど露骨に何かされたわけではない。「気味が悪い」では、こちらの被害妄想といわれても否定できない。
金曜日の昼休み、給湯室に光胡さんが一人で入っていくのが見えた。
とくに勝算があるわけではない。だが、身体が動いた。わたしはマグカップを手に、その背中を追った。
給湯室には、光胡さんしかいない。そのことにひどく安堵した。
「……光胡さん、お疲れさまです!」
「あら、扇衣ちゃん。お疲れさま」
光胡さんは振り返るなり、わたしの顔をじっと見つめた。
「……何かあったの?」
「えっ?」
「顔色が、あんまりよくないように見えるけれど」
やはり、この人はよく見ている。わたしは視線を逸らした。
「その……。少しだけ、ご相談してもいいでしょうか」
「もちろんよ。なあに?」
何があったのか。何に困っているのか。頭の中で組み立てようとした結論は像を結ぶことなく霧散する。わたしは説明を諦めて、ぽつぽつと話し始めた。
「……開発との連携について、間違っていないか、と不安で」
光胡さんが小さく首をかしげる。何も言わずに先を促す。
「えっと……最近、その……。仕事がやりやすいんです。それは、いいことなんですけど……。その、宣伝部で整理する前の段階まで、先に開発側で整っていることが多くて。たいてい、相果主任がやってくださっているんですが」
「ふうん?」
それの何が問題なの? と言いたげな相槌だった。それでも話の続きを待つあたり、この人は大人だ。
「それ自体は助かるんですが、逆に、こちらがどこまでやるべきか、わからなくなっちゃって。わたしの認識が甘いなら、直したくて……」
そこまで言ってから、間を置く。このままでは要領を得ない。
「それから、社外で偶然会うこともあって……」
光胡さんの視線が、わずかに鋭くなった。
「あ、本当に偶然なんですよ。そのあとで誘われることもないし、挨拶をして終わりです。でも、その……線引きがしづらくなってきているというか」
言いながら、自分の説明の弱さにうんざりした。もっと明瞭に断言できれば楽だが、そうしてしまうと大袈裟すぎて、却って嘘っぽく思われる気がしてならない。
光胡さんは黙って聞いていたが、やがて大きく息を吐いた。
「扇衣ちゃん」
「はい」
「あなた、真面目すぎるのよね」
思わず、背筋を伸ばした。
「そうでしょうか」
「そうよ」
「……すみません」
「謝らないの。あなた、男相手にもそんなふうに頭を下げるつもり?」
「え? それは、はい……」
「だめよ。女が軽々しく頭をさげちゃあ。向こうが付け上がっちゃうでしょう」
口を閉じる。
……いや、自分が悪いときにまで頭を下げるなというのは、さすがに極端ではないか。
光胡さんは、わたしの顔をじっと見た。
「そうね。あなたは悪くない――なんて、言わないわよ。脇が甘いし、隙だらけだもの」
そんなことないけど……とは口が裂けても言わない。
「でもね、それは向こうが調子に乗っていい理由にはならないの。手を出すなら、せめて仕事の看板くらい下ろしてからにしなさいって話よ。半端に私情を混ぜるのがダメよ、ダメ」
光胡さんは腕を組み、考えるように目を細めたあと、断言するように言った。
「相果くんから来たものは、一回は維木課長に通しなさい」
「でも、そこまでしていただくのは……」
「そこまでしないとダメだから言ってるの」
ぴしゃりと言われて、もう何も言えなくなる。
「いいこと? あなたは主力案件を持ってるのでしょう。だったら、個人で抱え込まないで。そのほうがよっぽど迷惑なんだから。それから、業務外で会っちゃう件は……」
光胡さんは言いにくそうにしながらも、はっきり続けた。
「それ自体は、偶然で片付けられちゃうでしょうね。実際、偶然かもしれないし」
「……はい」
「でも、こっちも暇じゃないのよ。うちの子を、他部署の都合で好き勝手されるなんてごめんだわ」
頼もしいというより、強い。根拠がない。理屈というより、縄張りを荒らされたくないという感情に近い言葉だった。
だが、それは無条件で受け入れられたという安堵を伴ってわたしの心に響いた。
彼女は、無条件でこちらに立ってくれる。
わたしは、ようやく肩の力を抜いた。
相果主任は、線を越えているつもりがない。それが厄介だ。
とりあえず、防波堤は立てた。だが、潮がどこから回り込んでくるのかまでは、誰にも読めない。




