41.ハロウィンなのに
美容誌案件の一件があった夜以来、相果主任は、社内では必要以上に接してこなかった。かといって、あからさまに避けることもない。業務では必要な確認を一つ二つ交わして終わり。雑談も短く切り上げる。正しく他人の顔をして、同僚としての距離感はほとんど完璧に保っていた。
少なくとも表面上は、そんな事件など最初から存在しなかったかのような振る舞いだった。
最初に違和感を覚えたのは、仕事のやりやすさだった。
午後にまとめようと思っていた資料が、昼休みから戻ってくると先回りするように揃っている。売り場展開の構成、代理店への返答。宣伝部で持つはずの比較表には、商品開発部の視点まで織り込まれていた。相果主任が担当する案件では、すべてがそうなった。
助かる。それが問題だった。
(……迷惑では、ないんだけど)
小さく息を吐いて、揃えられていた資料を紙出しする。
仕事が長引けば、デスクの上に小さな置き土産が増えた。
例えば、のど飴。チョコレート菓子。缶のブラックコーヒー。
個包装のお菓子に、未開封の飲み物。異物混入の心配をせずに受け取れるような配慮。周囲の人に聞けば、相果主任がやってきて、宣伝部の面々に配っていったという。
わたしだけではない。ありがたい、で済むはずなのに、怖かった。どれも、今ちょうど欲しいものばかりで、心を読まれているようだったからだ。
労わられているというより、外堀を埋められているような不気味さがあった。
そして、二〇〇三年 十月三十一日 金曜日。
ハロウィンだ。乙女ゲームなら、菓子だの仮装だのを口実に、社内がハロウィン一色になっていてもおかしくない。元ネタのゲーム『社内恋愛』にそういうイベントはなかったような気もするが、油断はならない。わたしは、朝から少しだけ身構えて出社した。
だが、フロアに浮かれた空気など一ミリもなかった。維木課長はいつも通り無表情で、男性社員たちは談笑しながら煙草を吸っている。いつも通りの月末。誰もハロウィンなど気にしていなかった。
ここは二〇〇三年だ。子どもや学生ならいざ知らず、大人がハロウィンで浮き立つような時代ではない。わたしは拍子抜けしつつも、この世界がゲームのようなご都合主義よりも現実のルールを優先していることに、妙な安心を覚えた。
コピー機の前で資料が吐き出されるのを眺めていると、横から名嘉城くんが覗き込んできた。
「おう、形桐。仮装とかしねーの? 魔女とか似合いそうだけど」
わたしは肩を竦めて、名嘉城くんを見やった。彼にはこういうところがある。この時代でさえ、日本にいながらBBQとグリルの違いにこだわるような男だ。輸入雑貨店だの海外雑誌だのを面白がるところがあるから、こういう欧米由来のイベントと親和性があるのもわかる。
「あのねえ。月末よ? そんなヒマあると思ってる?」
「仮装したって仕事はできるだろ」
「ふうん。じゃ、名嘉城くんは何になるわけ?」
「ハンプティ・ダンプティ」
そう言いながら名嘉城くんは、コピー用紙をたまご型に切り抜いたものをお面に見立てて顔にかぶった。わたしは思わず声をあげて笑ってしまった。
「あはは! 何なの、ずいぶん浮かれてるわね?」
「イベントは乗っといたほうが得だろ?」
デスクに戻るや否や、バタバタと慌ただしい足音がして、現原くんがわたしの背中に声をかけた。
「形桐さん、お疲れっす!」
「お疲れさま」
現原くんはへらりと笑い、わたしのキーボードの脇に、オレンジ色の包み紙を一つ置いた。
「なにこれ?」
「印刷所のおばちゃんがくれたんすけど、おれ甘いもんそんな得意じゃなくて。形桐さん、今日ずっと眉間に皺寄ってたから、糖分補給っす」
現原くんはトリック・オア・トリートなんて気の利いた言葉を使わないだろう。ただ、目の前に疲れた先輩がいたから飴をひとつ譲っただけだ。こういう即物的な優しさが、普段より心に響く瞬間がある。
「ありがとね。あとでいただくよ」
「そうしてください。いつもより顔怖いっすよ」
「余計なお世話よ!」
遠くで聞きつけたらしい名嘉城くんの笑い声が聞こえて、わたしは「ちょっと、名嘉城くん! 聞こえてますからね!」と釘を刺しておいた。
「じゃ、おれはまた出るんで!」
現原くんは、そう言って去っていった。
わたしはオレンジ色の飴を引き出しにしまい、気分を切り替えるように席を立つ。コーヒーでも淹れようと給湯室へ向かうと、中から相果主任が出てくるところだった。
「お疲れさまです、形桐さん」
「お疲れさまです、主任」
軽く会釈してすれ違おうとすると、相果主任はふとフロアのほうへ視線をやり、ぽつりとこぼした。
「今日は静かですね」
「えっ?」
思わず聞き返すと、彼は首を傾けた。
「いえ。ハロウィンなのにな、と思って」
その言い方は独り言に近い。彼自身、変なことを言った自覚もなさそうだった。
「……ハロウィン、ですか?」
わたしが問い返したところで、相果主任はようやくわたしのほうを見た。
「ああ、すみません。引き留めてしまって」
「いえ……」
彼の視線が、わたしの手元の資料へ落ちる。
「今日は忙しそうですね」
「ええ。主任も」
「お互い様ですね」
相果主任は穏やかに微笑み、そのまま自席へ戻っていった。
わたしは給湯室の前で立ち尽くしたまま、遅れてその言葉を反芻する。
『ハロウィンなのにな、と思って』
今日は十月三十一日。確かにハロウィンだ。ハロウィンという言葉も、聞き馴染みがないわけではない。
だが、まだ二〇〇三年だ。菓子メーカーがぽつぽつとハロウィンに目をつけている程度で、大々的なイベントには至っていない。遊園地や学校ならいざ知らず、大人が会社ではしゃげるようなイベントではないのだ。
先ほどの名嘉城くんみたいに、海外雑誌や輸入雑貨を面白がるタイプならわかる。だが、静かで浮ついたところのない相果主任が、なぜそんな前提を持っているのだろう。
わたしはシンクに視線を落とした。端の方に、誰かのマグカップが二つ置かれている。わたしも自分のマグカップを出す。コーヒーメーカーには、誰かが淹れてくれた出来合いのホットコーヒーがなみなみと入っていた。
コーヒーを注ぐ音にかぶせるように、開けっぱなしの扉からフロアの音が入ってくる。キーボードを叩く音、椅子を引く音、外線を取り次ぐ社員の押さえた声。社内は相変わらずだった。賑やかではあるが、誰ひとり浮かれていない。
それが、この世界の十月三十一日だった。
ふと顔を上げて、扉の向こうに目をやる。遠くに、相果主任の姿が見えた。資料に目を落とす横顔は、いつもと変わらず静かで、整っている。
だが今日の姿は、やけに現実離れして見えた。同じフロアにいる同僚たちと比べても、そこだけ違う時間が流れているようだった。
――この人も、この世界に対して、わたしと同じ種類の違和感を持っているのだろうか。
(……まさか)
ありえない。それはあまりにも都合のいい妄想だ。




