40.時間外を侵食する衝動
定例会議の三十分前、相果 融は宣伝部の維木課長から内線で呼び出された。
場所は、ビル裏手の喫煙所だ。維木課長は煙草を吸わない。人目を避けるためにここを選んだのだろう。
用件は聞くまでもない。金曜の夜、美容誌との大型タイアップ案件の打ち切りを宣言した件に違いなかった。
喫煙所に着くと、維木課長が腕を組んで立っていた。黒縁眼鏡の奥から、険を含んだ視線でこちらを見ている。あからさまに感情を見せるのは珍しいな、と融はぼんやり考えながら口を開いた。
「ご用件をお伺いします、維木課長」
彼は冷ややかな視線をこちらへ向けた。
「金曜の件だ」
予想通りだ。
宣伝部が数ヶ月かけて準備してきた案件を、融は独断で持ち帰ってきた。表向きは保留だが、雑誌とのタイアップはほぼ白紙になったも同然だ。工数を無駄にしたばかりでなく、部署間の信頼にも傷をつけた。説教で済むなら安いほうだ。
「申し訳ありません。僕の判断ミスです。損害については、商品開発部の予算から補填できるよう調整中です」
「金の話ではない。お前の行動についての話をしている」
「行動ですか。なぜ保留したかについては――」
「違う。形桐への干渉が過ぎるぞ、相果」
維木課長は一歩、こちらに近づいた。
「お前は、私に色々提案してきていたな。技術の訴求軸を変更する案。商戦のメインをクリスマス需要や年始の買い替えにスライドさせる案。
……すべて、雑誌案件が飛ぶことを前提としたリカバリーと考えれば合点がいく。
最初から、これが狙いだったのか?」
「まさか」と融は笑った。
「相手がまともだったら、そんなことはしませんでしたよ」
「案件を飛ばす合理的な理由はなかったはずだ。お前の行動は、効率化の範疇を超えている。ただの執着だ」
ただの執着。そう断じられて、反論しようと口を開く。だが、言葉は出てこなかった。すべて喉の手前で引っ掛かってしまう。
あの場で融が身を引けば、編集長は上機嫌でハンコを捺しただろう。彼女を置いていけばうまくいった。そんなことはわかっている。わかりきった正解が目の前に転がっていたのに、選べなかった。
それは、執着と呼ぶには……。
「……違います」
自分でも、何を否定したいのかわからないまま言う。維木課長は静かに眉を上げた。
「違う? 何がだ」
「執着だけじゃないんです」
言葉が零れ落ちる。
タクシーから降りた彼女が見せた、あの諦めたような、縋るような瞳が脳裏によみがえる。
あれを手に入れるためなら、数千万の損害など安いものだと思ってしまった。
……ああ、そうだ。
自分でも、薄々気づいてはいたのだ。
理屈ではない。こめかみの奥がまた痛み出した。融は顔を覆い、壁にもたれかかった。
「どうした、相果」
そのようすを怪しんだ維木課長が眉を寄せる。
「体調が悪いなら……」
「……愛しているんです」
「は?」
維木課長の顔が引きつった。
無理もない。自分自身、この結論には驚いている。
熱に浮かされた告白ではない。ぽろりと漏れた声はひどく落ち着いていた。これは原因を特定した報告に過ぎない。
融は顔を上げ、絶句する維木課長を見た。
「……僕は、彼女を放っておけないんです。あんなふうに消耗していくのを見ていられない。我慢ならない。他人に触れさせたくない。……彼女が欲しい」
維木課長は二の句が継げないようだった。
説教をしにきたはずが、相手が話の通じない化け物に変わり果てていた。その恐怖はいかばかりだろう。そう思うと無性にばかばかしくなって、喉を震わせるように笑った。
「……正気か、お前」
「正気ですよ。だから困っているんです」
そこで言葉を切る。それ以上、何かを言うと何かが決定的に壊れる予感がして、無理に襟を正した。
「ですが、貴方の仰ることはもっともだ。規律を乱すのは、僕の本意ではありません」
おかしい。確かに自分で辿り着いた結論だったはずなのに、自分ではない何かが口を借りて喋っているようだった。
「警告は受け取りました。今後、軽率な行動は慎みます」
維木課長は、なお疑わしげにこちらを見ていた。
「……本当にわかっているのか」
「ええ、わかっています」
そうは言ったものの、何についてわかっているのかは曖昧だった。
「それでは。定例がありますので」
融は一礼し、踵を返した。
***
夜、自宅へ戻ってからも頭痛は引かなかった。
リビングの灯りをつけたまま、廊下の奥にある一室の前で足を止める。
この部屋を、自分が何のために整えたのか。考えないふりをしてきたが、一向に思い出せない。
もう限界だった。
この部屋は解体するべきだ。
檻を捨て、道具を処分し、二度と開けない。もの寂しいなら雑貨のひとつでも置けばいい。
それが正しい。
――だが。
俺の思考は、その正解を、受け入れられなかった。
(なぜ、捨てる必要がある)
冷ややかな声が、脳内で響く。
俺は、彼女を愛している。
彼女を外に置いておけば、いずれまた誰かと衝突する。彼女は理由をつけて自分を消費させる。そんなのは耐えられない。
――ならば、檻に入れてしまえ。
外から切り離し、必要なものだけ与え、俺が管理する。それでいい。
(馬鹿な。いいわけがない。俺は何を……)
俺はゆっくりと、自分の喉元に手を当てた。指先が冷たい。心臓は一定のリズムで脈打っている。取り乱してもいない。
……ああ、そうか。
俺は、この発想を異常だと思えていない。
無意識に、胸ポケットに手をやった。
何もない。
(よかった。まだ……)
彼女はまだ、外にいる。
俺はまだ彼女を捕まえていない。
だが、捕まえる準備は、こんなにも完璧に整えてしまっている。
俺は部屋の電気を消した。頭痛がひどくなるのを無視して扉を閉め、鍵をかけ直す。
暗闇の中、わずかな明かりを拾った檻の格子が、鈍く光っていた。




